日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

著者 :
  • 岩波書店 (1967年5月20日発売)
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50年前の本だが、67刷発行の事実が示す通り名著だ。
文字になった法律と行動における法意識の間のズレを具体的な事例をもとに客観的に分析しており、日本人の特徴を見事に分析仕切っているところは、「タテ社会の人間関係」を超えているかもしれない。

明治憲法や昭和憲法は民衆の社会的な要請により作られた法律ではなく、外国への対抗上(世界の中でどう生きてゆくかについて)一部の官僚らによって特定の政治的理想のもとに作成されたものであり、民衆への教育が必要であり、咀嚼されるには時間がかかった。それはドイツやアメリカの法律を参照して作られたが、日本の社会風土の中では、その法意識は大きく異なったものとならざるを得ず、現在でも、そのズレは多かれ少なかれ継続されていると思う。

中国もそうだが、東南アジアの各国は、地域差はあるものの、以前の日本と同様に世界デビューにあたり、国内法や条約を整えつつある段階にあるといえる。しかし、そこには法律と法意識の間のズレがあり、多くの問題が生じている。その根本的なところは、社会の成り立ちが似ているせいか、上述の日本におけるズレと非常によく似ており、参考になる。

・権利意識
我々は何かをしなければならない(義務)、と考えることは容易にできるが、「権利」に基いて「要求」することに対しては慎重にならざるを得ない。多くの場合、それは「嘆願」になるのだという。
筆者は地主と小作人の関係を例にあげているが、権利義務関係でいうと、地代を払う義務のもとに小作人はその土地を耕作する権利を有する(地主から見れば逆の権利義務となる)。地代を払えなければ、追い出されても文句は言えないが、地主は「恩」を与えることを期待されており、多くの場合追い出されない。一方、小作人は地主のための追加的な労働に無償で答える等の「報恩」を期待されている。小作人は働かせていただいており、その恩に報いる代わりに、地主は小作人の家族の結婚、病気、死亡に対して追加的な報酬「恩」を与える。権利義務の関係でなく、権力、あるいは家父長制的な関係となる。
→この図式は、終身雇用、サービス残業、社宅等の福利厚生の充実した日本株式会社そのものだ。権利義務関係中心の社会に近づいてきたとはいえ、未だベースにはこの考え方が生きている。ホテルで器物を破損した時に、欧米のホテルは当然のように賠償金を請求するが、日本のホテルでは申し訳なそうに請求する。(あるいは、請求しない。)

明治憲法と昭和憲法との大きな違いは、国民と政府の関係を定めた憲法において、昭和憲法が1対1の対峙するものとして認めるがゆえに、権力により国民が害されることのないよう、「基本的人権」という権利を認めて守ろうとするのに対し、明治憲法においては「臣民の権利義務」として規定するものの、実質的には権利に制限をつけることで、権力が国民の行動を規制するためのものであった。その証拠に、明治憲法においては、個人が一人で政府を訴えることは予定されておらず、公共の利益の名のもとに、消防自動車が人をはねても、大学病院で人が死んでも、火薬貯蔵庫が爆発しても、たとえ故意であっても、賠償責任はないとされている。
個人の自由と公共の秩序や利益(あるいはそれを実現する強制力としての権力)のバランスを考えたとき、昭和憲法は前者を優先、明治憲法は後者を優先していることがわかる。後者の場合、権力者いかんにより個人の権利や命までもが公共の名のもとに操られることは、先の大戦の示す通りである。
→今でも、法律は守らなければならない「義務」として認識されることが多く、上述の「権利主張へのためらい」もあって、新憲法制定から70年近くたっても、その影響による変化は極めて遅々としている。結局、法よりも社会的な慣習や意識の方が、行動に直結しているのかもしれない。一方、今でも、権力者の自制心に頼る法律に基づく国は多い。

欧米との法意識の違いとして、法解釈の考え方についても触れている。外国では法規定をできるだけ明確に規定し、裁判においては慣習法(イギリスではコモンロー)や条理をも根拠として、必要があれば法改正を頻繁に行うのに対し、日本では法規定をできるだけ曖昧にして、その法解釈のみによって臨機応変に対応しようとするという。「打ち出の小槌」とまで言われている。
その延長には、理想(法規定)と現実との予定調和(法執行者の腹づもり)があると言い、道路交通法にもとづき、「交通安全週間」には取り締まるが、それ以外の期間には多少のスピード違反は取り締まらない「交通危険週間」となるという。
外国では、禁酒でもスピード違反でも規則である以上、厳格に取り締まり、現実上法の執行に問題があれば規則の方を変える。

・所有権
近代的な法による所有権は絶対的(観念的)な独占排他権だが、前近代では所有権は相対的なものであり、現実的に支配する者に所有権は移ってゆくとされる。日本人は、空いてる土地があったら、他人の土地でも弁当を食べるし、球技をして遊ぶ。(個人宅では少ないだろうが、学校や広い土地を有する施設ではよくある)土地の私有化自体が明治の地租改正からの話でもある。
落し物や預かり物を自分のものにしたり、万引きをしたりするのもこの延長線上にあるという。田舎では、物の貸し借りがオープンで(勝手に借りてゆき)、基本的にこのように実質支配者に相対的権利が生じると考える傾向にある。
→必要な者が必要な物を利用できるという意味では、効率的な共同体の姿の一つであるかもしれない。「シェア」はこの考え方への先祖返りであるかもしれない。

役得
このような意識は、他人の財産の管理者が実質支配するその財産を利用することにつながり、このような意識を有する社会では、これが「役得」として社会的に是認されることもあるという。
→日本では、独占排他権としての所有権の意識は浸透していると思うが、電車に置き忘れたiphoneが忘れ物として無事に戻ったニュースが、中国版ツイッターで驚異的な話題になっていることを見ると、少なくとも中国ではこの意識は全く浸透していないと思われる。中国の島の実効支配へのこだわりも、このような意識に基づくものかもしれない。

・契約
とにかく、日本人は要点のみを記した曖昧な契約を好み、それに基づく臨機応変な対応(誠実な対応)を求める。多少約束と違っても構わない。例外は保険契約のみだという。契約内容よりも、義理、人情、友情、真心を重視するのである。
一方、欧米では細かく規定されていないと安心しないが、正確に約束を守る。

公共工事の契約においては、官庁の「恩」と事業者の「報恩」の関係に基づき、工事の期間や計画、値段が自在に設定され、一方、事業者側からの工期延長や値段交渉も「嘆願」も一定程度認められていた。

身元保証は雇い主に対して無限責任(逃亡時に探しだして引き渡す等)を負う契約であるが、裁判所は法律上の文言と当事者の意識のズレを認めて、現実(当事者の意識)よりの判断をしている。
昭和38年において90%以上の企業が身元保証を要求していたのは驚きだった。また、仲人も身元保証の一種だったとのこと。現在ほど人の流動性は激しくなく、やり直しのきかない、慎重を期すべき重要な問題であったことがわかる。

・民事訴訟
私人間の紛争解決手段として訴訟を提起することは、経済的な理由、「和」を乱す人間であると思われる、という理由で避けられる傾向にある。
→中国でも同様に、気が狂っていると思われるそうだ。

また、裁判においては法のみを根拠とする解決でなく、喧嘩両成敗的な解決や和解が好まれ、調停制度も多く利用される。

法律の厳密な適用よりも、現実的に「丸く」おさまることが、最も重視される。
→中国においても、各人の「面子」がたつことが最も重視されている。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
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感想投稿日 : 2015年7月29日
読了日 : 2015年7月29日
本棚登録日 : 2015年7月20日

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