断片的なものの社会学

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  • 朝日出版社 (2015年5月30日発売)
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戸川純に「諦念プシガンガ」という名曲があり、PHEWをボーカルに迎えたONJE(Otomo Yoshihide New Jazz Ensemble)によるアレンジバージョンが非常に好きなのだが、この曲を聴いて以降、「諦念」という概念に心惹かれ続けている。

それは何となく考えていた、「特別な自分」というものはこの世に存在せず、自分というものが歌詞の一部を借りるなら「牛のように 豚のように 殺してもいい 我 一塊の肉塊なり」に過ぎないということが、明確に言語化されたからかもしれない。

気鋭の社会学者であり、マイノリティーとされる人々へのインタビューをベースに彼らの社会学的位相を明らかにする著者による随筆である本書は、そのタイトル通り、道端の小石のような断片的な事象を一切の解釈を挟むことなくそのまま描き出す。「諦念プシガンダ」を思いだしたのは、本書にある次のような叙述が、まさに自身が考えていた「諦念」に非常に近いものであったからである。

「かけがえのない自分というきれいごとを聞いたときに反射的に嫌悪感を抱いてしまうのは、そもそも自分自身というものが、ほんとうにくだらない、たいしたことない、何も特別な価値などないようなものであることを、これまでの人生のなかで嫌というほど思い知っているからかもしれない。」
(本書p194より引用)

しかしながら、これだけであれば単なる厭世主義/シニシズムで終わってしまうところであるが、私が言いたいのはそういうことではなく、「自分自身が本当に下らない存在であるということを認めた諦念の元で出来ることもある」ということである。断片的でフラジャイルで取るに足らない存在であるが故の可能性と美しさ。

本書では先の文章に続いて次の一文が語られる。

「ただ、私たちの人生がくだらないからこそ、できることがある」
(本書p195)

誰もが何となく感じながら言語化をためらってしまうことについて、その断片性を隠すことなく、断片として提示すること。それが本書に心を惹かれる最大の理由である。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本文学
感想投稿日 : 2017年4月16日
読了日 : 2017年3月15日
本棚登録日 : 2017年3月15日

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