ナナに、「字を書くなんて馬鹿なことをしてすみません」と謝ったら、ナナは「こんなことは二度としてはいないよ」と言いながら廊下の方へ去っていった。(p221)

――ああ、去ってゆくナナの、得意げにぴんと立てた尻尾と可愛いお尻がぷりぷり揺れている、その後姿が目に見えるようだ。
人間でいうと百歳を超えている気位高い錆猫ココア。若いころは悪逆を尽くしたがすっかり落ち着いた貫禄十分の男、雉虎のゲンゾー。遊び好きで無邪気な、けれど14か月しか生きられなかったヘッケ。そのヘッケの生まれ変わりなのか? ヘッケにそっくり、でも、元気いっぱい神仏すら畏れぬナナ。
町田さんちの猫たちは町田さんが通常の人間に比して少しくファンシーであるのと同程度にファンシーだという。
「あなたいったい何のために生きてるの? わたしを腹の上に乗せるためでしょ?」と町田さんに町田さんの存在意義を教え込み、町田さんのお宅の中を楽しくクールランニングし、もっとおいしいご飯をよこせと要求し、雨が降れば「止ませなさい」と無理を言う。「かしこいな」と町田さんが頭を撫でようとすれば「なにがかしこいじゃ、ぼけ」と言って殴ってくる。
ファンシーすぎる4頭の猫たちはよくしゃべりよく食べてよく遊び、自由に、思うがままに猫生を謳歌する。町田さんは日々彼/彼女たちに気を使い、説教を食らい、使いッ走り、日常的にすったもんだが繰り広げられる。

町田さんならではの観察力、洞察力、そして愛情深い筆遣いで描かれる、飄々とした日々とその内にある小さな命への思慕。
猫たちに翻弄される町田さんの面白おかしい様子にゲラゲラ笑いながら読んでいると、不意に、ドバっと涙が溢れる瞬間がある。きっと猫と一緒に暮らしているひと、暮らしていたことがある人ならわかる、感情のゆらぎに襲われる。
大切だから、猫の様子に一喜一憂する人間たち。たとえ何があっても、泰然と受け入れる猫たち。彼等との日々を大切に、彼女たちの命を慈しみ、後悔のないよう生きなければと考える。そんな機会を与えてくれる、猫エッセイ。

コードネームはパセリ、セージ、ローズマリーにタイム。
ヒキコモリ支援センターの自称カウンセラー・竺原は、年齢も性別もばらばら、そうなった理由もさまざまな4人のヒキコモリ(ヒッキー)たちに「人間創り」プロジェクトを持ちかける。目指すのは、「不気味の谷」を越えること。言ってる本人がまず、よく意味をわかってないけれど。

亜麻布のシャツを作るよう彼女に伝えて。
継ぎ目も針での小細工もなしに。
そう出来てこそ僕の真の恋人。

実現不可能な課題を元恋人にふっかけるイギリスの伝統的バラッド『スカボロー・フェア』の歌詞そのままに、気軽に荒唐無稽なアイデアの実現を迫る竺原に振り回されるヒッキーたち。彼らはそれぞれに持てる特技をつぎ込んで、果たしてそれは完成する。しかし竺原の無茶振りは続き、UMA(未確認動物)を捏造するとそれは寂れた観光地を一気によみがえらせる。次々と起こるこのお祭り騒ぎ、いったいどこに着地するんだろう? 竺原、お前は何がやりたいんだ!? 
パセリ、セージ、ローズマリーにタイム。彼らは気付けば部屋の外に出て、チャットで話していたのがなく電話で話し、いろいろな人たちと出会い、交流を結び、世界は確実に広がっていた。けれど謎の人物・ジェリーフィッシュの登場で、彼らは一気に疑心暗鬼に陥る。さらに彼らのプロジェクトが世間を騒がす事件へと発展してしまい……。
竺原の真の目的、そしてジェリーフィッシュの正体とは。

『スカボロー・フェア』の歌詞と、登場人物たちが「引きこもり」になるに至ったエピソードを随所に織り交ぜた内面描写、二転三転するプロジェクトの展開。竺原に引っ掻き回されるのはヒッキーズたちけじゃない。読者もそうなのだ。
お祭りの準備が楽しくて、こんな日がずっと続けばいいなと思わず願う、この感じは往年の押井守監督作品『ビューティフルドリーマー』に似ている。

そして折々の場面で登場する、生き難さを感じる人たちへ向けたような、竺原の数々の台詞が印象に残る。
「人は誰でも他人を苦しめ、不幸にする、たとえその気がなくともね。誰かの役に立たねばならない、周囲を幸福にせねばならないなんてさ、考えないことだ。もしそんなことが実現できていると感じたなら、それは思い上がりってもんだ」
この人は本当に何を考えているのか。騙したいのか、利用したいのか、それとも――。それは本当には最後まで分からないのだけれど。

それぞれが自分の人生を生きていく。与えられたものと本当に欲しかったものとの折り合いをつけながら。
「自分にはこの人生しかない!」
そう心に決めて生きてゆく人たちへの、裏返しの、伝わりにくい優しいメッセージ満載のエンターティメント小説、なのかも。

「わたしのご先祖様には花火に魅せられ、財をつぎ込んだ静助さんという人がいる――」

幕末、江戸からそう遠くない丹賀宇多村の大地主・可津倉家の次男坊として生まれた清助さん。子供の頃に隅田川で見た花火の美しさに心奪われ、長じて後には職人を雇い、資金を援助し、外国から入ってくる目新しい薬品を買い集め、より色鮮やかで大きな新しい花火を作り、打ちあげることに夢中になる。
やがて静助さんの花火は可津倉流と呼ばれて一世を風靡するが、かつての名家は時流に乗って始め、一度は成功した洋物店が倒産。長男は失踪し、田畑を少しずつ失い、ゆっくりと凋落していった――。

『空に牡丹』は、静助さんという花火道楽で家を傾けた愚かなひとと、彼を支えた一族の人びとの物語だ。日本中がこぞって近代化にまい進し、富国強兵を掲げ、どこに向かうかもわからないままにひたすら前へと突き進んでいた時代から一歩引いて、美しいものだけを追いかけ、いろいろな人に迷惑をかけ、それ以上に丹賀宇多村の人びとに花火とともに「いい夜」の幸福な記憶を残した。
それが「見ようによっては凡人以下」と評される静助さんの、どうにも憎めない愛される理由なのだろう。

静助さんは裕福な家に生まれ、家を継ぐわけでもなく、花火に財産をつぎ込んで、その人生は至極呑気に見える。しかし楽しさもあれば、苦しみもあるのが人生。決して良いことばかりではなかった。そして楽しさの後に一抹の寂しさを連れてくる花火、まるでそのもののように、可津倉家が代々築きあげてきたものは失われ、静助さんがみんなと作りあげた可津倉流は名前も実態も残らなかった。
けれど話すときには思わず笑顔になってしまう、素敵な思い出が残った。静助さんのようなひとが周囲の人に支えられ、受け入れられていたあの頃の丹賀宇多村はいい時代、いい村だったに違いない。きっと、東京よりも。そして時代は変わった。けれど静助さんは語り継がれる。もう誰も静助さんを知らないけれど。もう誰も丹賀宇多川の河原で打ち上げられた花火を覚えていないけれど。静助さんは語り継がれるのだ。

ひとつの家の没落の話。ひとつの花火の流派が生まれ、短い間に跡形もなく消えていった話。虚しいはずなのに読んでいてとても幸せな気持ちになる、不思議な読書体験をもたらすファミリー・ヒストリー。読後の感想は「いい花火だった」。この言葉に尽きる。

平成29年7月の夜、千葉県船橋市米ヶ崎町内の休耕地で、5歳の女の子の扼殺遺体が発見された。上半身は赤いTシャツに首を通しただけ、下半身は裸、そこにブルーシートがかけられた状態で。船橋市夏見の、自宅近くの児童公園で夕刻近くまでひとり残って遊んでいた姿を最後に目撃されてから、わずか3時間あまり。船橋署刑事課の巡査部長・香山は、部下の三宅巡査長や増岡巡査などとともに犯人検挙に向けて捜査を開始する。見出される状況証拠は、かつて同じ千葉県内で起きた事件との奇妙な類似性を示し、彼らの脳裏にひとつの疑念が浮かびあがる。

田宮事件。平成22年春から夏にかけて発生した連続幼女誘拐殺人事件。幼女を誘拐し、裸にして悪戯し、容赦なく殺害し、無残にその体を遺棄した。やがて容疑者として田宮龍司という青年が逮捕される。田宮は容疑を否認し続けたが、勾留期限が切れる間際に劇的に発見されたある証拠により自供。裁判は一審、二審で死刑の判決が下った。しかし判決後、田宮は拘置支所内で自殺してしまう。

増岡は捜査会議で田宮事件の模倣犯である可能性を主張が、捜査一課係長たち上層部はその筋を否定した。模倣犯でなければ、もうひとつ、田宮事件の真犯人が逮捕されておらず、再び動き出したという可能性も浮上する。はたして、かつての田宮事件で犯人とされた青年は冤罪だったのか否か。

香山たちは現在の事件の捜査と同時に、密かに田山事件の物証や証言をあらためて探る。やがて過去と現在の事件が不思議な相似をもって重なってゆく。怪談めいた不気味ささえ孕みながら――。

模倣犯罪と冤罪説。現在と過去、ふたつの事件を同時に操作することで、それぞれの事件がもっていた違う顔が見えてくる。7年という、まだ誰の記憶も鮮明なままの時間経過が生々しい。事件を追う警察官や一般の目撃者が7年前を回想するその心の動きが、読んでいてリアルに伝わってくる。いったいふたつの事件はどういう展開になっていくのかという緊張感のなかで、一気に最後まで読んでしまう。
強く伝わってくるのは「罪を犯したものを過たず、必ず検挙する」という香山たち警察官の矜持だ。間違えば無実の人に濡れ衣を着せることになる。真犯人を逃せば、犠牲者は浮かばれることなく、さらに次の犯罪が生まれてしまう。いくつもの葛藤をかかえながら役割を全うしようとする警察官たちがたどり着く、それぞれの事件の真相に注目してほしい。描かれる事件は重々しいけれど、ラストシーンは至極爽やかな警察小説だ。

KADOKAWAさんの文芸情報サイト『カドブン(https://kadobun.jp/)』にて、書評を書かせていただきました。
https://kadobun.jp/reviews/789.html

「幽霊が出る」 怪異を囁かれる東京都内のあらゆる場所、その過去には必ず原因となる事件や事故があり、さらに時代を遡れば、恨みや悲しみが染み込んだ土地の因縁がある。時とともに事件や事故に関する人々の記憶が風化し、かすかな断片だけが残る。それを核にして、生きている人間のもつ複雑な感情や、社会背景が絡み合って「幽霊」となってゆく――。
そのロジックを、丹念な取材と豊富な史料をもとに解き明かしてゆくノンフィクション。

たとえば佐々木譲の『警官の血』で物語の大きな転換点として描写され、重要な伏線にもなっていた昭和32年に谷中霊園内の五重塔が不審火で全焼した事件。
原因は一般に男女の心中によるものとされている。私自身、谷中近くにあるカフェの奥さんからそう聞いたことがあるが、実は第三の人物による殺人放火死体遺棄事件という一説があるそうだ。心中なら事件は二人で完結する。しかし心中でないなら、事件は犯人が未だ明らかにされないままの凶悪な未解決事件に変貌する。事件が他人事でなくなってしまう恐ろしさにゾッとする第一章「火炎心中異聞」。
さらに、秋葉原にかつてあった万世橋駅。現在では「マーチエキュート神田万世橋」という商業施設に生まれ変わっているかつての駅のほとりにあった、いつのまにか人々の記憶から消えた幽霊屋敷を回顧する第6章「橋のほとりの幽霊屋敷」。江戸時代に景勝地として有名だったという神田御玉ヶ池の、いくつもの時代を経て幾人もの“お玉”が登場し、伝説が作られてゆく遠大な過程を推理する第4章「玉女幻想」。ほかに日暮里や天王洲、新宿やあとがきの国分寺まで、そこに「幽霊」が出る理由を蒐集している。

とどのつまりは「生きている人間が一番怖い」。不思議なことに、この本の中に取り上げられている街に、無性に出かけて行ってみたくなる。読んだ後にはきっと街の印象が変わって見える一冊。

KADOKAWAさんの文芸情報サイト『カドブン(https://kadobun.jp/)』にて、書評を書かせていただきました。
https://kadobun.jp/reviews/3r3ri1cf9xyc.html

2011年3月12日午後3時36分、福島第一原発1号機の原子炉建屋が水素爆発。続いて3月14日午前11時1分、3号機が爆発した。
私の実家はこの原発から25キロ程北にある。近くに住む幼馴染は、自宅の2階からこの爆発によって立ち昇るきのこ雲を見た。彼はその時「終わった」と思ったそうだ。自分の人生、家族、ふるさと、福島、日本――。すべてが「終わる」、と。
しかしその時中央制御室ではすでに、吉田所長の指揮下で原子炉を制圧するための戦いが始まっていた。

3月11日に東北、東日本を襲った巨大震災、その後太平洋沿岸部を襲った大津波によって福島第一原発は全電源喪失、注水不能となる。冷却機能を失った原子炉は、致命的な暴走へと突き進む。
時とともに放射線量が増加し、建屋が爆発してゆくなか、現場に踏みとどまり原子炉の暴走を食い止めるために命を賭けた人々がいた。東電の社員、協力企業の人々、自衛隊員。その多くが地元・福島に生まれ育った人たちだった。

彼らは死の淵に立っていた。それは彼らの「死の淵」、郷里福島そして国家の「死の淵」でもあった。
あの時あの場所で何が起き、現場が何を思い、どう闘ったか。90人を超える関係者にインタビューを繰り返し、「何があったのか」を読む人に克明に伝えるノンフィクション。

あの時あの場所で本当に「何があったのか」、どうして彼らは闘えたのか。90人超の証言をもとに綴るノンフィクション。

浅草、両国、神楽坂。谷中、西荻窪、中野、早稲田、明治神宮。代々木、吉祥寺、町家……。東京都内や近郊の、「看板猫」がお出迎えしてくれる素敵なお店じつに25店舗を、それぞれのお店の猫たちが楽しく紹介してくれます。職種は提灯店、カフェ、ギャラリー、小物屋、古本屋などさまざまですが、どのオーナーさんもみんな猫が大好き。そして彼等が大切な家族。お店を訪れるお客さんにとっては素敵なスタッフさん、お友達なのです。
どのお店でも、初めて入っても猫をはさめばオーナーさんやとなりのお客さんと会話がはずみます。不思議ですね。猫ってすごい。

著者の一志さんが持参したメジャーでお店の寸法にはじまり、椅子や机、壁から床まではいつくばって測った資料を基に再現した俯瞰図が精密で完成度がスゴイので、ぜひ見てほしいと思います。この本で紹介されたお店の中では、これまで2軒のカフェに実際に行ったことがありますが、レジの横においてある小物とかまで忠実に描きこんでありました。
精密だけど、どのイラストもとても優しくてぬくもりにあふれています。これも猫への愛情のなせる業ですね。猫ってすごい。

決して猫カフェではなく、あくまでも猫がいる(こともある)お店を紹介しているので、猫に会えなくてもそれは仕方がないこととお心得ください。彼らもいろいろと忙しいのです。きっと。
また、「猫びより」への掲載が2013年から17年までのものを収録していることから、現在までに少々時間が経過しています。すでに閉店されているお店もありますが、そこは在りし日のお店の思い出として、読んでみてはいかがでしょう。
最後には一志さんの自宅仕事場も紹介されています。ここにも猫たちがいます。猫がいる職場、うらやましい……。

カゴに入り袋に入り、箱に…入らなくても入る! おまえ、そうまでして入りたいのか!なんで? 毎晩夜更けの大運動会はストレスのせい? 窓の外をじっと見ているのは外に出たいから? など、猫のふしぎな行動や能力、コミュニケーションからお世話まで、かわいいイラストつきで「そのとき猫はどう思っているのか、何を求めているのか」を解説。

本能や習性からみる、猫の不思議な行動についての疑問。猫の体の、人間とは違ったさまざまな働きや機能。食事、体のお手入れ、住処の作り方など、猫と暮らしてゆくために必要な知識が一冊にまとまっています。
困ったときにはまずこれを見て!

しかしながらここで取りあげていることは、それぞれに諸説ある中のひとつにすぎないものなんだと思います。本当のところは「猫にしかわからない」といったところでしょうか。
猫は好きだけど、実はよく知らないというレベルの私にはちょうど良いネコ入門書です。

実家の猫はち〇ーるを食べる時、すっごいイカ耳になります。目つきも相当悪くなる。
本によると、イカ耳は不安や恐怖のときになる様子だけど……。機会があるたびに、ほかの猫飼いさんたちに動画や画像を見せては感想を聞いてみてるのですが、結論はおおむね「ち〇ーる食べることに必死になりすぎて力んでるんじゃないのか」です。
いやほんと、誰かこの時の猫の心理を教えて(笑)。

アラカシの巨木の大枝が幹と分かれる股のあたりで、樹皮からずるりと滲み出るようにして地上に落ちた「わたしたち」は、意識が明るみ、言葉が点滅し、過去が響きやにおいや色合いを伝えてくるなか、なにやら四足獣のごとき形の「わたし」、つまり「人外(にんがい)」になっていた――。

無縁、それが人外だった。だれともなにとも無縁、この世のいかなる縁ももっていないひとでなし。それは、だれもなにも、愛さない。

不気味に不可解に、物語ははじまる。「人外」は、やがて「かれ」を探して川を下る。しかし「かれ」とはいったいだれのことだろう?
川岸には人間の住む集落がある。けれど、そこには死が蔓延し、人口は激減。街は寂れつつあった。

乗客がみな死んでいる列車、虚しく賑わうカジノ、図書館の跡地、廃病院、誰もいない遊園地。世界のうちにとどまりながらなかばそのそとにはみ出して生きざるをえないことのせつなさ、やるせなさを抱きながら、「人外」は黄昏の世界のさびしい風景のなかを彷徨う。そこで出会う人びとはみな死んでいる。死にかけている。酒に酔っている。おびえている。そんなふうに茫洋とたたずむ人間たちに、「人外」は語りかける。あなたはだれ、と。

「人外」は彼らと出会い、別れることであわれみやおもしろさやさびしさの意味を知り、時間は流れ――または流れなかったのか――やがて終わりの時が来る。過去と未来、生と死は螺旋を描きながら永遠にめぐりつづける――。


過去ではたぶん人であったものが人でないもの、猫ともアナグマともつかないけものに化身して、長いながい旅をしてまたその生を終えて溶けてゆく。はじめは気味が悪いこの存在は、寂寥感あふれる彷徨いのなかで、どんどん可愛くみえてくる。だってひとでなしの「人外」というくせに、このこの一生はまるで人間そのものじゃないの。
わたしは自分がこの物語を本当に理解しているとは思わないが、さびしい「人外」の、つめたさとあたたかさのあいだにゆれる「人外」の心のゆらぎが愛おしくて大好きだ。

人外に出会って、「あなたはだれ?」と問いかけられてみたい。そのときわたしは、自分をなにものだと答えることができるだろう。

「……わたしは――」

チェチェン紛争で家族を失った女たちだけのテロ組織『黒い未亡人』がゴールデンウィークを控える日本に潜入した。特捜部は公安部と合同で捜査に当たるものの、未成年の少女兵さえ自爆テロを躊躇うことなく、人々を容赦なく巻き込み殺してゆく彼女達の戦法に圧倒されて被害は広がる。
彼女たちの最終目的は、日本のどこにある――?

事件のさなか、特捜部の城木理事官は政治家となった実兄・宗方亮太郎にある疑念を抱き、その過去を探る。また、捜査班の由起谷主任は六本木でひとりの外国人少女を半グレ集団から助けた。
それらの関係が、政府と警察、ふたつの組織を大きく揺るがす奇縁となることとも知らずに。

燃えるように胸が痛む。胸の中の赤い釘が――。

終わらない内戦にすべてを奪われてゆく女たちは、なにを憎み、なにを赦すのか。強制された自爆はみずから選んで死にゆく自爆に変わり、けれどその先に天国などありはしない。誰も死なせたくないのに、みんな殺されてゆく。みんな死んでゆく。間違っている。わかっているけれど、後戻りなど、もはやできるはずもない。
実在のテロ組織『黒い未亡人』を通してストーリーは膨らむ。決して日本人は理解できないであろう複雑な内戦の悲劇と、翻弄された女たちの母性と愛憎を描くシリーズ第4弾。

これだけ一般人と警察官がガンガン死ぬ小説も他にない感じで、そこが容赦なくって好きなところなんだけど。時々くじけます。

今作は城木理事官と由起谷主任の過去に焦点が当たる。そうして徐々に敵の正体が垣間見えてくる章でもある。沖津警視長にちょっと引っかかることろがあったんだけどどうだろう?

文久3年、1月も終わりかけの夜。品川は曲三親分の賭場を餓鬼どもが襲撃、テラ銭アガリ銭をごっそり奪っていった。彼らを裏で唆したのはウサギの蓮八。苦界に堕ちた幼馴染・八穂を救い出すための銭金を工面する賭場荒らしだった。曲三は報復のために殺し屋・夜汐を雇い放つ。蓮八は幕府が募集していた浪士組にまぎれて京に上り、その一部が新選組となった折に隊士として加わるが、そこに八穂からの文が届く。――帰ってきて、と。

ならず者たちよ、命を賭けろ。容赦ない鉄火場(賭場)の大立ち回りで物語は始まる。幕末は尊王攘夷の機運高まるただ中、ひとりの女のもとへ帰るために京から江戸を目指す男の旅が描かれる。

蓮八の旅はその一歩一歩が八穂へと向かうと同時に、死へと近づくものでもある。脱走を許さない新選組からの追手があり、夜汐もまた蓮八を追う。彼らを撒くために街道を避け山中へ分け入る蓮八の脳裏に去来するのは、不遇の子供時代の記憶、八穂への想い……。

剣の時代が終わり、黒船がやって来ようが桜田門で大老が斬り殺されようが関係なく、みなその先へと突っ走っていく。全篇を覆う圧倒的な生の熱量の中、夜汐の存在だけが異質だ。饒舌で気まぐれ。時に狼、時に黒衣の異国人の姿で現れる悪魔。彼だけが常に凪いでいる。

夜汐という死の宿命が、蓮八をはじめ登場するすべてのキャラクターたちの生を眩しく照らしだす。誰も彼も印象深く忘れ難い生き様と死に様がある。泥臭く格好悪く、最高に格好よくて少し悲しい。物語の疾走感に引き込まれる、その熱気に中てられる、その焦燥に肌がひりつく。新選組もののなかでも、異色のカラーを持つ時代劇。


KADOKAWAさんの文芸情報サイト『カドブン(https://kadobun.jp/)』にて、書評を書かせていただきました。
https://kadobun.jp/reviews/558/e7eae9e9

フランスの作家コレットによれば、「平凡な猫はいない」そうだ。

確かに本書に収録されている猫たちには、平凡さなどかけらも見当たらない。この子もみんな並外れて美しく、優雅で、愛らしい。ぎゃんかわ、である。
古代種ターキッシュバンやサイアミーズ、品種改良によって生まれた数かずの近代種、ソマリやナポレオンたち。
解説はきわめて控えめに、ときおり猫にまつわる古今の名文を添えて。
ひたすらに美しく愛らしい猫たちの姿を、鑑賞せよ。


自分ちの裏庭をうろついたり、
暖炉のそばで寝ていたりしていても、
彼の気持ちは野生からそう遠くないところにある。
ひげたった1本分くらいの、距離のところに

ジーン・バーデン


静けさの理想は、座っている猫の中に存在している。

ジュール・ルナール

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京都市北部の住宅街でテーラーを営む曽根俊也は、自宅の一室から英文の書かれた古いノートとカセットテープを見つける。
ノートにはわずかに日本語が。「ギンガ」「萬堂」。そしてカセットテープには子供の頃の自分の声。その内容は、30年以上前におきた、現在にいたるまで未解決の企業恐喝事件『ギン萬事件』において使用された、企業を誘導する犯人側からのメッセージとされるものだった。

「きょうとへむかって、いちごうせんを……にきろ、ばーすーてーい、じょーなんぐーの、こしかけの、うら」

いつ、だれが録音した?
すでに逝去した父親、もしくは顔をおぼえてもいない伯父、身内の誰かが、日本中を震撼させた最悪の事件の犯人だったということなのか?

俊也は、父の親友だった男の協力のもと、家族の過去と『ギン萬事件』に関わったであろう人びとを調べ始める。

一方、大日新聞大阪本社の文化部で燻る阿久津英士は、社の企画で『ギン萬事件』の取材を担うことになる。かつての記者たちの記録、人脈をたどり、新しい収穫もなく、しかし彼もまた、真犯人に少しずつ確実に近づいて行った――。


犯人たちの抱える業、それを飲み込んでゆく深々たる社会の闇――グリコ森永事件をモチーフに描いた犯罪小説なら、髙村薫の「レディ・ジョーカー」が随一だ。それは今でも変わらない。
同じ事件をモチーフにして描かれた、新たな小説「罪の声」。こちらで描かれる犯人像の、軽薄なことといったら、呆れるばかりだ。
「レディ・ジョーカー」の重厚さに比べたら!!
しかしだからこそ、利用された子供たちの苦しみや悲しみが際だつ。こんなことで人生を狂わされていいはずがなかった、と。いまだ未解決となっている昭和の重大事件。意図せず犯罪に関わってしまった子供たちの行方と人生に焦点を当て、真犯人たちの姿を追った執念の犯罪小説。

いつか、本当のことが知りたい。

神田淡路町、根岸、上野公園、柴又、門前仲町、代官山、三軒茶屋、西荻窪、吉祥寺、そして川越。
それぞれの町を歩いて出会った猫たちと、猫たちを見守る人びとの営む素敵なお店のおいしい食べ物や可愛い雑貨を、ぬくもりあふれるイラストで紹介。表情豊かな猫、猫、猫たちの名前や年齢や、色々なエピソードなどを添えて。

どのページをめくっても、猫だらけ。猫好きさん垂涎の、猫のしっぽを追いかけていく、とても楽しい町あるきガイドブック。
ただし発行は2007年と10年以上前。この本のなかの町の風景も猫たちも、だいぶ変わってしまっています。
今この本のなかで紹介されている町を訪ねるなら、昔日の風景を探しつつ、自分で現在の新たな街並みを描いていってみるのも良いでしょう。

ぼくは ねこ。なまえのない ねこ。
だれにも なまえを つけてもらったことが ない。

ひとりぼっちの名前のない猫は、名前をもっている町の猫たちがうらやましい。ある時、お寺の猫じゅげむに、
「じぶんで つければ いいじゃない。じぶんの すきな なまえをさ。ねこ いっぴきぶんの なまえくらい、さがせば きっと みつかるよ」
と言われて、自分で自分の好きな名前を見つけようと町を歩き回るけれど……。
雨のなかで、さみしさはつのる。

――名前を呼ばれるということ。名前を呼ぶということ。名前を付けるということ、名前を持つということ。その意味の深いことといったら、とても言葉に尽くすことはできません。
名前が欲しいいっぴきの野良猫が、ほんとうに欲しかったものに気づくまでの、さみしくもあたたかな物語。

それにしても看板猫の多い商店街でけしからん。町田尚子さんが描く猫たちは、どの子もみんな表情豊か、個性あふれて魅力的。幸せな猫生を謳歌中です。そして名前のないあの子もまた。
この商店街どこにあるんでしょう、引っ越したいです。

ホイッスルの吹鳴が響く。その音は告げる。犯罪と、犯罪者のありかを。ここに、罪がある。ここに、罪人がいる――。

公安のスパイを経て、念願の天王寺駐在所勤務となった民雄は、父・清二が生前追っていたふたつの殺人事件について独自の捜査を始める。
しかしたどり着いた真実は民雄を打ちのめすものだった。彼は失望のうちに非業の死を遂げる。
その息子・和也もまた警察官となるが、最初の任務は上司となった男の内偵だった――。

清二が抱え、民雄を押しつぶした、罪。数十年の時を経て、その正体がようやく姿を現す。そして和也は、黙してその罪を飲み込む。警官人生を全うするために。

正義とは何か、罪とは何か、そしていい警察官とは何者か。その警察官の血とは。清濁併せ飲む覚悟を決め、白と黒の境界線上を歩む和也が最終章で民雄たちのような駐在警官、地域課ではなく、二課刑事(汚職・詐欺等、知能犯を追求する部署)になっている。
和也はそれまでの安城家の男たちとはちがう警察官となり、その人生を全うしていくのだろうと思わせるラストだ。

ホイッスルの吹鳴が響く。その音は告げる。犯罪と、犯罪者のありかを。ここに、罪がある。ここに、罪人がいる――。

昭和昭和32年7月、谷中・天王寺の五重塔が炎上した未明、天王寺駐在所の警察官、安城清二が謎の死を遂げる。
その長男・民雄もまた父の死の真相を追い警官となるが、赤軍派への長い潜入任務のなかで精神を消耗していく。
清二、民雄、そして和也。3代にわたって警察官となった安城家の男たちが追い続ける殺人事件の謎を、敗戦直後から高度成長期、バブル崩壊後まで時代の変遷を交えて描く。

警視庁はその血筋、毛並に期待する。
父親の仕事を継いだ2代目、3代目の警察官。それは父親が子供の教育を間違えなかったということの証明、父の職業を子供が誇りにしていたことの証。
その血のために、与えられた任務が彼らを蝕む。警察官となり、そのために非業の死を遂げる。それは宿命だったのか、否か。
戦後間もない上野公園で起きた男娼殺害事件。そこから実に数十年を経て続く、罪と血の物語。

亀岡市内の運送会社で働く倉内岳は、仕事のかたわら剣道クラブで鍛錬を重ねる日々を送るが、これまで大会に出たことはない。岳の父はかつて息子である岳を人質としてアパートに立てこもり、警察官を射殺した直後に自殺した。父の暴力から逃げて、母とふたり隠れるようにひっそりと生きていたのに、それでも世間の目は岳を「殺人犯の息子」としてしか見なかった。
岳は、今度は他人の視線から隠れて息をひそめて生きるだけだ。自分の人生のすべてを諦めて。
しかし岳に剣道を教え、彼を世間から守り続けた恩人が病に倒れたとき、その願いをひとつ引き受けることになる。
彼の願いは岳の全日本選手権京都府予選出場。自分の剣道の腕は、いったいどこまでの実力なのか推しはかる。そしてそれは、事件の陰にうずくまり、隠れ続けた日々を捨て、自分の人生を歩んでいかなければならない時が来たという意味でもあった。

予選を勝ちあがった岳と決勝で対戦する剣士は京都府警の通称「特練生」と呼ばれる剣道のエリート、辰野和馬。彼こそが、岳の父の凶弾に斃れた警察官の息子だった。和馬は事件以来、父の死への疑問を抱き続け、ひたすら強さにこだわり、加害者の家族である岳への憎悪をつのらせる、頑なな青年となっていた。

事件から、すでに15年の歳月が過ぎていた――。


ある夏におきた立てこもり事件。その犯人と、彼に射殺された警官。彼らがそれぞれに遺した息子たちが生きる、地獄の季節。同じ日、同じ場所で加害者と被害者という違う立場で「父」を喪った彼らは同じ剣の道に縋った。
すべてを諦めるしかない。誰かを恨まずにいられない。そんな風にしか生きられなかった彼らの激情の発露のままに、決勝の場で激しくぶつかる竹刀が砕けて散る。打突の痛みは防具を超えて骨を貫く。
事件の加害者と被害者、さらに彼らの背後に連なる家族の存在に焦点を当て、しかし本質は周囲を取り巻く人々の無自覚の罪と罰を問う問題作。
最後の一行まで、必ず読んでほしい。


KADOKAWAさんの文芸情報サイト『カドブン(https://kadobun.jp/)』にて、書評を書かせていただきました。
https://kadobun.jp/reviews/759/90e9cae6

その始祖は、4頭の軍用犬だった。
1943年、日本軍が撤退したあとのアリューシャン列島・キスカ島に置き去りにされた北海道犬の北、ジャーマン・シェパードの正勇、勝、エクスプロージョン。
やがて島に上陸した米軍は、かつて訓練で叩き込まれたコマンドを実行し自爆した勝以外の3頭を鹵獲する。
――アリューシャン列島からアラスカ、アメリカ本土、シベリア、中国、さらに南へ。彼らのうちあるものは純血種を守り、またあるものは混血を繰り返しながら冷戦下の紛争地帯へと散ってゆく。その系譜に、初めて宇宙を旅したベルカとストレルカ、2頭のライカ犬という系譜が絡みあい、20世紀末の崩壊してゆくソ連へと集結してゆく。

第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争……20世紀は戦争の世紀、そして軍用犬の世紀。ライカ犬を乗せたスプートニク2号、さらに2頭の犬を乗せ無事地球へと帰還させたスプートニク5号による宇宙開発。そこに貢献した宇宙犬の世紀でもある。
世界中に散っていった3頭の子孫たちは、生まれては戦い、喰らい、吠えて、契り、子孫を育み、やがて死ぬ。彼らの短い獣の一生の、本能の営みすべてが大きな奔流となって大主教と呼ばれるひとりの老人のもとに結集する激しい運命が、同時に人間たちの愚かさをも詳らかに描きだす。

犬よ、犬よ、お前たちはどこにいる――?

遠大な呼びかけで幕を開ける、愚かな、名前のない人間たちとともに歩む誇り高き犬たちの壮大な物語。うぉん!!と応えれば血沸き肉躍る。そして彼らは、20世紀を駆け抜けた犬たちは、21世紀を殺しにゆく。
文章も世界観もクセが強いけれど、ハマる人はハマる快作。往年の香港系刹那的ノワール映画が描いた裏社会に生きる男たちのドラマのような、そう、これが理想のハードボイルドだ!!!

1854年の鎖国政策終焉後、多くの外国人が日本を訪れ、西洋とも東洋とも違うその風俗や特質を紀行文や回想録のなかに書き残した。

フェリックス・レガメとその著書も、そのなかのひとり、そのなかの一冊である。

明治9年・32年、二度の来日時の記録をまとめ、「国土と国民」から「芸術と芸術家」まで、9つの章に分けて日本を紹介している。
文化人類学や民族学の専門家ではなく、職業的な旅行家でも軍人でもない、しかも滞在期間は短期間でしかなかったレガメの日本についての情報の正確性は甚だあやしいものだが、彼の本領は画家であり、各種芸術学校の教師である。
彼の手による数々のスケッチ、挿画が上手い。高い観察力と洞察力、完璧なパースやデッサン力!

対象物や風景、人物を短い時間で素早く観察し写し取るデッサン、スケッチ、クロッキーは、だからこそ混じりけのない最初の鮮烈な印象を紙の上に再現する。
妹や弟を背負って往来で遊ぶ子供たち。人力車を牽く車夫。小鳥のように笑いさざめく女学生。洋装の政治家、軍人、楽屋でくつろぐ往年の歌舞伎役者……。
明治時代の人々の暮らしや彼らを取り巻く服飾や小道具までを、詳細かつ正確に今に伝える。

ぶっちゃけ参考資料や実物をふんだんに見て描いているはずの現代の日本人アニメーターや漫画家などよりも「よく描けている」という点、それだけで私としては見ていてとても楽しい!

KADOKAWAさんの文芸情報サイト『カドブン(https://kadobun.jp/)』にて、書評を書かせていただきました。
https://kadobun.jp/reviews/722/e89be618

おれの体は、何歩でそこにたどりつくのか知っている。
そしてなにごともなかったかのように飛んで越える。

2020年。2度目の東京オリンピック・パラリンピックの開催が迫っている。並居る経済紙や経済アナリストはすでにその後の日本経済の動向を予想している。
2012年に始まった経済政策「アベノミクス」以降、GDP(国内総生産)は緩やかながらプラス成長している。実際に「景気がいい」と感じている人は少ないだろうけれど。しかし回復傾向にある日本経済も、東京オリンピックが終われば雇用や不動産、インバウンドなどの特別需要が無くなり、不況になることは避けられないとの声がほとんどのようだ。
『オービタル・クラウド』等、数々の「いま・ここ」の延長にあるリアルな至近未来的SFを描いてきた藤井さんの観測によるオリンピック後の東京は、それらの予想とは一線を画すらしい。

東京・有明。オリンピック競技場の跡地に設立された東京デュアル(東京人材開発大学校)。日本版ポリテクニーク。社会人として働くことと大学で学ぶことが両立できる、画期的な二元的制度。しかしこの制度には、人身売買にもなりかねない重大な瑕疵があった――。

仕事を放棄して逃げたり、在留カード不携帯などの理由で拘留された外国人労働者を職場に連れもどすことで生計を立てている主人公・仮部諌牟。彼があるベトナム人留学生の行方を捜してこの東京デュアルに足を踏み入れることで、物語は動きだす。
仮部は校内でぶじに留学生、ファム・チ=リンと接触するが、彼女は東京デュアルの奨学金制度の瑕疵を告発しようとしていた。さらにさまざまな思惑を持った人々によって計画されたゼネラル・ストライキにファムが担ぎあげられ、仮部もまた巻き込まれてゆく――。

理想的な大学の、よくできすぎた制度の瑕疵は、どんな時代にも存在したことなどなかった完璧な社会の比喩のようだ。
疲弊する学生や労働者が自分たちの置かれた立場に気づき、動きだし、大きなうねりとなっていく。それと並行して、仮部の過去も明らかになってゆく。彼は彼を搾取しようとする実の両親から逃げるために他人の戸籍を買い、別人となって生きることを選んだ。そしてファムにも、複雑な背景がある。

誰でも、自分が望む名前をもらえるわけじゃない。誰だって、自分が望む場所に行けるわけじゃない。誰もがみな、自分が望んだような人生を生きられるわけじゃない。
当たり前に受け入れている理不尽に、あらためて抵抗を試みる。
誰もが平等に幸せを享受できる社会など今までなかったし、これからも難しいだろう。
人間は間違い、対立する。けれど、間違いは糺せるし、対話だってできる。そうやって少しずつ、良い方向へと歩み寄っていくことは可能なはずだ。
仮部たち若者の行動は、そんなメッセージを読者に向けて発信しているように感じる。

改善されない雇用問題、広がる格差。疲弊し、搾取される若者たち。そんな設定だから、どんよりと濁った至近未来ディストピア小説かと思いきや、意外にも前向きな、明るい気配を感じさせる青春小説だった。

KADOKAWAさんの文芸情報サイト『カドブン(https://kadobun.jp/)』にて、書評を書かせていただきました。
https://kadobun.jp/reviews/690/df810af2

『慈悲』。手を下界に差し向けて見下ろす像の哀しみに満ちた横顔のむこうに、ただ瓦礫だけが延々と広がる。かろうじて残った壁の一部や枠組みだけが地面に突き刺さった骨のように無残な姿をさらす、連合軍の猛烈な爆撃に晒されたドレスデン。かつての百塔の都、花の都の死を、倒壊を免れた市庁舎の塔の上から16体のそれぞれに名前が付いた黒ずんだ像たちだけが見ていた。

時は流れて1989年。昭和天皇が崩御、平成へと元号をかえた日本から東ドイツ(DDR)の音楽大学へと「音の純化」を求めて留学した真山柊史。
大学にはすでに天才とよばれるふたりの学生がいた。正確な解釈でどんな難曲も誠実に弾きこなすイェンツ。破天荒ともいえるほどの圧倒的な個性で周囲を魅了するヴェンツェル。
そのヴェンツェルに見込まれ、学内の演奏会で伴奏を勤めることになる柊史だったが……。ヴェンツェルはその才能ゆえに伴走者を振り回し、疲弊させ、片っ端から潰してしまう「壊し屋」でもあった。柊史も違わず、彼に引っ掻き回されて自分の音を見失ってゆく――。

楽譜通りにしか弾けない。音楽家としての無個性を自認し、だからこそ自分の音を求めて音楽に向き合う青年の「自分探し」ならぬ「自分の音探し」の試行錯誤を描く青春小説かと思いきや、後半は物語ががらりと転調する。それは容赦なく変わってゆく時代と国に翻弄される人々を描いた、まるで歴史群像小説である。

その頃、日本は昭和から平成へと移り変わり、中国の天安門事件に端を発する民主化運動は、冷戦下の欧州へと伝播して嵐となった。
まるで時代は荒れ狂う泥の河のよう。あらゆる人生を容赦なく押し流し、思わぬ場所へと運び、ときに飲み込み、冷たい川底に沈めてゆく。そしていつの間にか、何事もなかったかのように静まりかえり、澄んだ川面からはかつての氾濫ぶりをうかがう術はない。
ベルリンの壁。いったいどれだけの人々が、この壁によって引き裂かれたことだろう。そして西へ向かおうとした無数の人々の、流血と死。あらゆる苦悩と悲憤とともに永久にベルリンを分断するかに思えた壁は、ある日あっけなくも崩壊する。
彼らの苦悩、流した血や涙が過去のものと化した時に、思うことはなんだったろう。

東西冷戦の終焉は、世界にとって喜ばしいことだったはず。けれど『革命前夜』を、西へと脱出しようと必死に努力し、心に火を灯して強く生きた人々にとっては、待ちわびた瞬間である反面、非常に複雑な感情を伴う転換期であったに違いない。

お寺のお坊さまから、お釈迦さまが入滅した時の様子を描いた「涅槃図」を依頼された貧しい絵師。彼は瞑想のなかでさまざまな動物へと姿を変えてお釈迦さまの人生をたどり、犠牲に生き、慈悲に救われることの意味を知る。
それをそばでじっと見守る一匹の三毛猫「福」。
とても優しく可愛らしいのに、永遠に呪われた生き物。ほかの動物はお釈迦さまに受け入れられ、慈悲を受けて極楽へいくことができたのに、猫のまえで極楽へと通じる扉は閉じてしまった……。

気位が高く、お釈迦さまに背き、極楽からしめだされ、決して涅槃図に描かれることのない、描いてはいけない猫という生き物。その化身「福」が、けなげに絵師に乞う願いとは。そして絵師が「飢え死にしても構わない」と、「福」のためにその人生を投げうつ覚悟で捧げる犠牲とは。

――「きっと、きっと、次にお描きになるのは猫ですよね。お釈迦さまがお亡くなりになったときに集まってきた動物のなかに、きっと猫を描いてくださいますよね」――

淡々とした文章にもかかわらず、深い思いやりが伝わってくる児童文学。短いけれど、ゆっくりと時間をかけて読みたい一冊。

訳者・古屋美登里さんによるあとがきのことばに、「猫の好きな方にはもちろん、生きとし生けるものをこよなく愛する方々に読んでいただきたいと思っています」とあるように、「福」の存在の可愛らしいことといったら!
こんなちっちゃい生き物、極楽に連れていかないでどうするの! お釈迦さま無慈悲!! と、「福」の期待と落胆、悲しみと幸福に一喜一憂すること請けあいです。

この、むかしむかしの日本を舞台に描かれた物語の著者はなんと、エリザベス・コーツワースというアメリカ人の女性。コーツワースは20代の頃にひとりで東洋の国々を旅し、当時大正時代だった日本へも来日しました。この来日中に見聞きしたもののなかに、「涅槃図」やその逸話もあり、それがこの優しい物語を生み出すきっかけとなったのかもしれません。
『極楽にいった猫』は1931年にアメリカで出版されました。

また、作中では涅槃図に猫は決して描いてはいけないといわれていますが、実際には猫がいる「涅槃図」はいくつか存在します。

「漁港はどっちでしょうか」と問えば、クールに視線だけを右に流す『目でもの言う猫』。
喫茶店に居ついてマスター見習い。でも接客態度にムラがあって困りもの?の『チャー君はマスター見習い中』。
4歳のさくちゃん(人間)の遊び相手をしてあげる16歳のメイ(猫)『さくちゃんとメイちゃんのくすぐりっこ』……。
それぞれみんな、したたかにけなげに生きている。みんなに見守られて、ちゃっかりご飯をねだって、きまぐれにお世話になって、ときどきお愛想をふりまいて、いつのまにか顔見知りになって。姿が見えなくなると心配になって。

道ばたで出会ったたくさんの猫。その数、じつに113匹。その写真に47篇のエピソードを添えて。
佐竹さんの猫たちによせるまなざしが温かい。添えられた文章がやさしい。思わずほっこり、つい涙がほろり。
猫好きさんならきっと見逃せない、(だいたい)野良に生きる猫たちとの出会いと交流を切り取ったフォト&ショートエピソード集。

刊行から10年以上の時がたち、ここに切り取られた風景が、すっかり変わってしまった場所もある。目まぐるしく変わる人の世だけど、変わらず猫たちがそこにいる。そんな日常が続けばいいなと、心から願う。

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