〈私たち福島県民にとって、これまでに経験したことがない、想像を絶する揺れだった〉
2011年3月11日。東日本大震災。最初の激震のあと、当時福島県浜通り地方に点在する福島民友新聞社の支局に勤務していた記者たちは取材のために海に向かった。相馬、鹿島、浪江、小名浜……漁港や海岸に到着した彼らに想像を絶する大津波が襲いかかり、ひとりの若い記者が消息を絶った――。
記者たちの目の前で、大津波は港を、町を、人々を次々に飲み込んでいった。そして記者自身も、支局をも。
その惨禍を生き残った記者と、帰ってくることができなかった記者。誰かを救うことができた記者と、救うことができなかった記者。彼らの明暗を分けたものは何だったのか。
一方、福島県中通り地方、県庁所在地でもある福島市内にある福島民友新聞社本社は、地震による停電で、新聞記事を作成するためのシステムも、各地に散る記者たちから文章データや画像を受け取るネットワークも失っていた。
支局と本社の間を、人を直接行き来させることでつなごうとしても、土砂崩れや地割れによって寸断されている道路も多々ある。
3月12日の朝刊の発行が危ぶまれる、非常事態であった。
“紙齢をつなぐ――”
紙齢とは、新聞が創刊以来出し続けている通産の号数を表すものである。これをつなぐことは、新聞人の使命ともいうべきものである。
大震災、津波、原発事故と続く複合災害によって、浜通り地方では、新聞社支局、新聞販売店、そして読者が被災者となり、販売地域が消えるという前代未聞の事態に陥った。地方紙の中でも有数の存在である、創刊百年を超える福島民友新聞社。その存続の危機と、難局に立ち向かった新聞人たち。
しかし記者はである前に人間だった。誰かの息子であり、夫であり、父親であり、友人であった。そして最後まで記者だった。これからも、記者であり続ける。
編集者、配達員、その家族たちの姿を追うノンフィクション。
- 感想投稿日 : 2018年4月1日
- 本棚登録日 : 2018年2月24日
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