『中国が愛を知ったころ』一冊で私は完全に張愛玲に夢中になってしまったのだが、本書も見事なものであった。素晴らしい。
常に身勝手な男を描いているのではあるが、決して「男は身勝手だ!」とばかり言っているのではない。身勝手になるにはそれなりの慣習なり制度なり環境なり理由がある。
それらを描く複眼性が著者の特色で、女ばかりでなく、男もこんな状態は幸せではないのだ、という事を見詰める視点の高さ。
戦争により旧来のモラルが壊れる時、人間性に即した新しい男女の形が姿を表そうとする。そうした文脈としては安吾やロレンスにも近いが、女性の視点であるからこそ、ここでは諦観が常に漂い、状況の据わりの悪さが心に残る。
中国の女性の地位の低さは読んでいるだけでも苦しい程に過酷で、まだまだ女性の置かれた立場に平等の光を夢見るにはほど遠かったのだろう。(いや、勿論それは他所の国の話でも過去の話でもないのだが、今だに。)
男女共に、世帯内での属性と番号を組み合わせた呼称で呼ばれているという恐ろしさ。個が無いのだ。
そしてまた、オースティン的な計算高さや平衡感覚、意識の高さを充分に持ちながらも、愛という、抑制の効かない危険なもの、そこへ体重をかけてしまう、飛び込んでしまうその衝動の甘やかさ。恋とはそれらのブレンドなのだ。
本当の人間性とはそこにあるのであって、それもまた、林芙美子やビリー・ホリディと較べたくもなる。中国のイーディス・ウォートンと云えばしっくりくるかも知れない。私はジェイムズの『ワシントン・スクエア』をまた読みたくなったりもした。
『傾城の恋』『封鎖』の2作は構造的に映画『タイタニック』と似ている。言わば『傾船の恋』。
ディカプリオが死ななかったら『傾城の恋』になるし、船が沈まなかったら『封鎖』になる。
船が沈まなくて元の位置にすごすごと引き返す情けないディカプリオの姿を思い浮かべる。
『封鎖』のあのラストはどこからの発想なのだろう?中国の奇想文化が背景にあるのかな?びっくりしてしまった。時間が切り取られ、停止しているという感覚。
映画の話のついでに云えば本作は、偶然にもルイス・ブニュエルの前衛映画と同じ発想によるテクニックを使っている。
鳴り物が現世と異界とを繋ぐのは本来の使い方なので、符合するのは決して不思議ではないのだれど、市電のベルが最初と最後に鳴るという使い方は『昼顔』の馬車の鈴にそっくり。
人物が同じ位置に戻ると異界から抜け出る、というのは『皆殺しの天使』と同じ。
ともあれ、かなりの前衛感覚の持ち主なんだ、と思う。
エッセイは技巧的で知的で、かっこ良い。
「人生のいわゆる『おもしろさ』とはすべて本題とは関係のないことにあるのだ」。「今も忘れない、香港陥落後に私たちが街中をアイスクリームや口紅を探して歩き回ったことを。」
その洗練された文章に舌を巻きつつ、それだけではなく、一人の若い女性の体温がしっかりと伝わって来て、胸を打つ。
良いよ。読んでご覧。こういうものは古典として、日本でもスタンダードなものになってなければならない、と声を大にして言いたい。出版社さんよ、私はもっと読みたい。
(さらに、、、。彼女たちに砲弾を浴びせているのが日本軍である事も、意識せずには読めませんね。勿論。)
- 感想投稿日 : 2019年3月9日
- 本棚登録日 : 2019年3月9日
みんなの感想をみる