WOKE CAPITALISM 「意識高い系」資本主義が民主主義を滅ぼす

制作 : 中野剛志 
  • 東洋経済新報社 (2023年4月14日発売)
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感想 : 8

本書は、「ウォーク資本主義」を糾弾する啓発書である。
「ウォーク」とは、目覚めた(woke)の意味で、従来はアメリカの人種差別に対する抵抗運動から生じた。レイシズムを生み出す社会構造に対して「目覚めて立ち上がれ!」つまり、社会の不公正や差別、あらゆる理不尽さに対し意識的になり、人々に広い連帯を呼びかけるスローガンだった。それがいつしか偽善とみられ「意識高い系」と揶揄されるようになる。セレブがそうした美徳を自らのブランドに取り入れ、「私ってこんなにウォークなのよ!」とアピールしているように見られたのだ。
今は、その「意識高い系」スタイルが企業にまで浸透している。企業もまたブランドイメージ向上のため、社会的に受け入れられやすい美徳を積極的に支援して、消費者の好印象を勝ち取ろうとマーケティング戦略を展開させている。これが「ウォーク資本主義」だ。
ウォーク資本主義に対しては大別して2つの見方がある。第一の見方は、アメリカの保守層、コンサバからの見方だ。企業は利益追求を第一に考えるべきで、株主の利害にのみ関心を向けるべきだ。社会的正義などと左翼的なたわごとに惑わされ、大衆にこびへつらってはならない、と糾弾する。
他方、リベラル層からは、おおむね歓迎されている。企業は大多数の労働者の搾取の上に巨万の富を築いてきたのだから、それを社会に還元してしかるべきだ。そして今、ようやく、巨額の寄付等を通じて社会的公平性の価値観に賛同を示している。これは喜ばしい傾向だと。
本書は、だが、この両極端の見方に否定的だ。そうではなく、第3の見方を提示する。それは、企業のスタンスがいくら社会的正義に適っているように見えようとも、それは単なるフリ、なんちゃってウォークに過ぎない。なぜなら、そもそも企業が巨万の富をほしいままにできたのも、ひとえに社会の不平等を維持することに尽きるからだ。だから、社会的不平等を根本から是正するような活動、例えば、合法的な脱税をやめ、巨額の利益に見合う税金をきっちり納めよと企業に迫ることや、法人税率の大幅切り上げ、従業員の待遇改善や給与アップに関するイシューには完全にスルーである。企業がタッチするのは、自分たちの利益に抵触しない無難なイシュー、例えばLGBTの権利であるとか、ブラック・ライヴズ・マターの世界的広がりに対する連帯だとか、Metoo運動に連動したセクハラ、パワハラ撲滅キャンペーンに対する支持だとか、気候変動、SDGsに高い意識持ってますアピールだとかだ。いずれも、一見社会的に美徳とされ、人々にいいブランドイメージを持ってもらえそうなキャッチ―なトピックばかりだが、そうした運動を展開している市民団体等に多少寄付をしたところで、相変わらず企業は巨額の納税を回避し、長時間労働を強いた従業員の給与を低く抑えたまま、役員報酬を青天井並みに引き上げ続ける一方なら、社会の不平等は是正されるはずもない。つまり、やってる感だけ、なんちゃってウォークに過ぎない企業のスタンスに騙されるな!という啓発だ。そして何より深刻なのは、利益最優先の企業が政治的領域を侵食しだしたということ。これは、民主的に選ばれた代表者に代わって、巨万の富をほしいままにする上位1パーセントの富裕層が独裁権力を行使することを意味する。企業が社会の不平等や差別的構造の温存を図るのは当然なので、社会の格差はますます拡大する。それに対し、適切な納税を得られない各国政府は有効な手を打てない。そんな腰抜けの現政権に対して、大方の大衆はうんざりし、場合によってはポピュリズムに走る。そうでなくても、大半の人々は、政治に失望し、ますます企業の社会的役割に期待してしまう。ウォークなアピールをする企業がますますウケるわけで、まさに羊の皮を被った狼そのものだ。

具体的になんちゃってウォークの生態を見ていこう。
元来アメリカはネイティブを虐殺し尽くし、アフリカから強制連行してきた黒人奴隷を酷使することで成り立ってきた。アメリカン・ドリームとの美名も、裏を返せばそうした有色人種をとことんまでこき使うことで築き上げた莫大な富があったればこそだ。これをレイシズムな搾取によって資本蓄積を行うという意味で人種的資本主義と呼ぶ。現代ではそれが、ほぼストレートにウォーク資本主義につながっているといってもいい。ブラック・ライヴズ・マター運動に連帯を示すことで、確かにそのスローガンは増幅させたかもしれない。が、資本主義の不平等と搾取を根本から変えようとするときに必要となるラディカルな政治性をこの運動から奪っておきながら、自分たちのブランドイメージアップという利益のためこの運動を利用しようというのだから、本当にタチが悪い。

ウォークな企業の最高の在り方、それは民主的に選ばれてもいない一民間人が、巨万の富に由来する地位と権力を利用して公共の問題をコントロールすることだ。利益追求が至上命題の一企業にとって、公共の利益の追求は二次的にすぎず、おのずとその公共問題のコントロールも恣意的にならざるを得ないことになる。自分が賛同する人や組織だけを支持し、それ以外を黙らせようとするからだ。かくして、本当に救われるべき社会的弱者は永久に放置されたままになってしまう。

ところで現代のウォーク資本主義に先行して、その先輩格にあたるロールモデルが存在した。カーネギーやロックフェラーという大富豪らが、晩年、その築き上げた巨額の富を投げうって数多くの文化施設や組織を残した。その哲学、フィランソロピーとは、富める者が貧しき者に君臨する「調和の統治」の実現だ。欧州のノブレス・オブリージュ張りの傲慢さで、他者を収奪することで成り立つ資本主義の恩恵に浴した幸運を当然と受け止めてきた彼ら大富豪は、拡大する不平等に業を煮やした大衆の逆襲を恐れるあまり、そのコントロール方を社会に対する富の還元に求めた。同じ路線を、現代では、政治的主張のためにアップデートされた手法として引き継いでいる。かつては、社会的不平等が引き起こした社会的不調和に対する反応であったが、今やそれが、新自由主義によって引き起こされたさらに極端な世界的不平等への反応となって表れた。それがウォーク資本主義だ。改めて繰り返すと、企業は消費者や労働者、地域社会全般を犠牲にして株主の利益最優先の事業展開をしながら、それを隠して、さも政府に代わって社会的正義を担っているフリをしている。そうすることで、うわべのシステムは変化しても、実は新自由主義的資本主義というベースは何も影響を受けない、という真実を隠し通そうとする。この根本的な変化の回避こそが、ウォーク資本主義の特徴だ。それは富と繁栄が富裕層に流れ込み、世界規模で不平等を悪化させ、企業が主張する正義がシステム自体を強化するシステムなのである。まだ「強欲は善である」などともてはやされ、企業がブイブイ言わせていた70年代80年代のほうが、正直な分だけマシに思えるほどだ。

このようなウォーク資本主義の欺瞞に気付き、「目を覚まして」介入すべき時だと本書は締めくくっている。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2023年12月11日
読了日 : 2023年12月11日
本棚登録日 : 2023年12月11日

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