昭和天皇の戦後日本 <憲法・安保体制>にいたる道

  • 岩波書店 (2015年7月28日発売)
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「南京大虐殺の記録」の世界記憶遺産登録への道は、
安倍総理のおじいさんがつくったようなもの?

昨日、読み終えた「昭和天皇の戦後日本」(豊下楢彦元関西学院大学教授著)に、大変興味深いことが書いてありました。今年の7月に出た本なので、ユネスコへの申請すらまだしていない時期に書かれております。

それによると、1982年に日本国内でほとんど知られることがなかった、日中関係に重大な影響が及ぼされる事態が発生したのだそうです。そして、皮肉なことに、それが、「南京大虐殺の記録」の拠点施設である「南京大虐殺記念館」の建設につながったようです。

その事態とは、岸信介元首相を会長に擁した「満州建国之碑」の「建設会」が発足したこと。満州国を「理想国家」と位置づけ、その「建国」を顕彰することを目的に、かつて満州経営の中心人物として辣腕をふるった岸信介を会長にして進めた計画。
これに対し、日本で「満州建国之碑」を建てるなら、私たちは「日本侵略者之碑」を建てねばならなくなる」として、中国政府と共産党中央委員会は、全土に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して愛国主義教育を推進するように指示を出し、翌83年に「南京大虐殺記念館」の設立が決定され、85年にオープンの運びとなった。

ということだそうです。日本側の建設計画は結局、取りやめになったそうだけど、怒りに火をつけたのは日本だったわけで、なんともまあ懲りない連中がいるもんだなあと、昨日は恥ずかしくなった次第。

(興味深い話)

昭和天皇の戦後日本
~〈憲法安保体制〉にいたる道

著者 豊下楢彦(元関西学院大学教授)
岩波書店
2015年7月28日発行

「昭和天皇実録」から判明した事実を元に、昭和天皇が天皇制を守るためにどのようにGHQの占領政策に関わり、協力していったか。そして、憲法制定、東京裁判、日米安保という戦後の日本の体制づくりにいかに能動的に関わっていったか、そのプロセスを解き明かしている。1947年の段階で象徴天皇となっているにもかかわらず、昭和天皇は政治を“司って”いたことが分かる。「昭和天皇実録」の読み解き本でもある。大変に興味深い本だった。

戦後、天皇制存続の危機は2度あった。一つはGHQや戦勝連合国による天皇制廃止、もう一つは共産主義化による天皇制打倒。昭和天皇にとって何より大切なのは天皇制の存続であり、もっと言うなら我が身より皇統を守ることであり、そのためなら何でもしたリアリストだったと著者は言っている。もちろん、昭和天皇実録やその他の史料からそれを証明している。

具体的には何をしたか?まずは新憲法づくり。天皇主権を維持した松本試案に、GHQとともに反対した。その上で、毎日新聞のスクープを待っていたかのようにGHQが1946年2月から「密室の九日間」に作り上げたマッカーサー草案。そこに主権者としての天皇の存在はなかった。これを内閣が受け入れて一番ほっとしたのは昭和天皇にほかならない。彼は主権者でなくても、とにかく天皇制を守りたかったのである。憲法で保証されれば間違いない。

では、なぜたった9日間で作ったのか?それは昭和天皇が望んだから。マッカーサーは以前から日本関係の職に就いていたため、日本通であり、天皇制なしに占領政策がうまくいくわけがないと最初から存続を決めていたことはよく知られている(会見して人間性に心動かされたというのは名目)。だから、すぐに憲法で存在を認めたかった。ところが、連合諸国11ヵ国による極東委員会の設置が決まり、新憲法はGHQの一存では決められなくなる。それが2月26日だった。11ヵ国には、ソ連、オーストラリア、ニュージーランド、オランダという天皇の戦争責任を問う国々がいる。時間がない。極東委員会発足までに憲法を決めてしまわなければ。そういう事情だった。
現憲法がGHQからの押しつけだ、などと言って憲法改正を望む人はこの点をよく知っておいてもらいたい。

また、自らが東京裁判で訴追されたときの釈明のため、事前につくったのが「昭和天皇独白録」である。独白の要約版である英訳版が、なんと独白録の本編より先に出来ていた事実をあげて、そのことを証明している。

もう一つ、世界的にその勢力を拡大しつつあった共産主義から守る。そのために昭和天皇は、日本の非武装化とともに米軍に守ってもらい、その代わり沖縄を渡そうと考えたらしい。1947年9月19日、「沖縄メッセージ」を寺崎英成を介して連合国最高司令部外交局長ウィリアム・ジョセフ・シーボルトあてに伝えたことが「昭和天皇実録」で明らかにされており、天皇はアメリカが沖縄および他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望し、その占領がアメリカの利益となり、日本を保護することにもなるとの考えを示した。その際、アメリカによる軍事占領は、日本に主権を残しつつ長期貸与の形を望んだ。

戦争末期の1944年9月、昭和天皇は米軍による東京への攻撃に備えて発言、「できる限り最後まで帝都に留まりたく、時期尚早な実行は決して好まないところであること、〔中略〕あくまで皇大神宮の鎮座するこの神州にあって死守しなければならない旨のお考えを示される」と昭和天皇実録に書かれている。神州とは日本本土のことで、本土以外はどうでもよかった。「領土は如何でもよい旨を述べられる」と実録にある。
沖縄を渡し、日米安保体制を整えて共産主義から天皇制を守る、こうしたリアリズムがあったと著者は言っている。

なお、1971年4月11日に行われた統一地方選挙において、東京で美濃部亮吉、大阪で黒田了一が知事に当選し、横浜市長選では飛鳥田一雄が選ばれ、「革新自治体」が躍進。その前年4月には京都で蜷川虎三という「革新知事の象徴」が6選をはたしており、その結果を知った昭和天皇は日本の共産化を恐れたのか質問、昭和天皇より「政変があるかと御下問あり」と卜部亮吾侍従日記には書かれている。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2021年3月17日
読了日 : 2015年8月20日
本棚登録日 : 2021年3月17日

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