クララとお日さま
著者:カズオ・イシグロ
発行:2021年3月15日
訳者:土屋政雄
早川書房
カズオ・イシグロの6年ぶり新作長編で、ノーベル賞受賞(2017年)後第一作にあたる作品。
非常に面白かった。素晴らしかった。読み終えて、ロス感に襲われる作品だった。でも、小説にありがちな空想空間全体や複数の登場人物へのロス感ではなく、主人公クララだけに対するロス感を覚える点が、初めての体験でもある。主人公といったが、クララはAF(人工親友)と呼ばれるAIロボットで、外観はショートヘア、浅黒く、服装も黒っぽく、親切そうな目を持つフランス人形風という想定らしい。歩くなど人と同じ動作をする。ただ、クララは最新型のB3ではなく、旧型のB2で嗅覚がなく運動能力も劣るが、B3より優れた部分もあり、学習意欲や観察力にすぐれている。自分を選んで(買って)くれた子供の親友になることが使命だ。
クララの相手は、病弱な少女ジョジーで、姉は病死している。父親と母親は離婚し、母と家政婦、ジョジーの3人暮らし。しかし中流家庭で、「向上処置」と呼ばれる遺伝子編集を行っている。大学へ進学できるのはほとんどが「向上処置」をした子供で、経済状態による格差社会が定着している。ジョジーは一時命が危ぶまれる病気になるが、向上処置がその危険性を招いたというようなニュアンスも読み取れる。都会から離れた田舎に住み、隣家も少し離れている。隣家は母と息子リックの2人暮らしだが余裕がなくて向上処置を受けていない。リックは鳥ドローンづくりが得意な優秀な頭脳の持ち主だが、大学進学は絶望的。幼なじみのリックとクララは、将来、結婚すると思い込んでいるような仲良しだった。でも、パーティをすればリックは他の子供から向上処理をしていないため見下される。
近未来のディストピア小説でもあるため、こうした格差社会が描かれているが、そんな社会で弱い立場の人間より、さらに弱い立場なのがAF。クララには感情があるが、それは本人の都合で悲しくなったり怒ったりということではなく、つねにジョジーの立場に立った感情であり、どうしたらジョジーが幸せになれるのかということばかりを考え、それを考えるために必要な人間の心を持っているという意味での感情に近い。
最初、クララは店で展示販売されている。常に店長の考え通りにしている。最初は店央に並べられる(立たされた状態?)。そこからでも見ることが出来る外の様子を伺いながら、幼い子がいろんなことを見て学んで発達していくように、AIとして情報処理し、学んでいく。ある時から、ショーウインドウに並べられる(座らされた状態?)。そこから外はよく見える。収集できる情報もぐっと増える。そして、クララを求める子供と出会うチャンスも増える。ただし、店長に言われたとおりに行動しなければならない。視線はつねに向かい側の建物のどこそこに向けておく、というように。
やがてジョジーの家で生活するようになるが、クララはずっとジョジーのそばにいる。夜も彼女のベッドの横にいる。一応、眠るようだが、ジョジーが起きる時にはクララは既に起きている。朝食の時も横で見ている。クララはなにも食べない。彼女のエネルギー源は日光であり、それ故、クララはお日様を信仰の対象に近いように崇める。ジョジーと仲良くなることやジョジーが幸せになることばかりを考え、純粋に、健気に毎日を送る。ジョジーの命が危なくなった時、クララはお日様に対して彼女を救ってくれとお願いする。そして、お日様の敵だと思われる汚い煙を出す道路工事車両をやっつけようと決意し、自らの体に使われている溶液の一部を取り出してそれを試みる。自分がどうなるか恐怖にとらわれながらも。そのあたりの思い込みや自己判断なども少女っぽくて、読者としては助けてあげたくなる。
結末はとても切ない。人間たちはみんなそれなりに幸せな結末を迎える。クララもそれが本望なので幸せだ。しかし、クララの末路については、人間である読者はとても悲しく思える。AIが人の気持ちを理解し、最後は人である読者がAIのことを思いやる。さり気なく、そしてスローフードのように語られていくカズオ・イシグロの巧妙な筆回しは、誰も真似ができないと感じた。
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(ここからは決して読まないでください!結末がわかり原作を読む意義が半減します。自分のための読書メモにすぎません!!)
ジョジーの母親は、ジョジーを町へ連れて行き肖像画を描かせるために画家に写真を撮らせている(長時間モデルにならなくていいように)。しかし、実は肖像画を描いているのではなく、ジョジーの人形のようなものを作らせていた。ジョジーが死んだとき、それをクララにかぶせてジョジーのようにふるまってもらうため。不気味な計画だが、クララはそれが人間のためになるならやると言う。
ジョジーは命拾いして、病気から回復して成長する。大学に行く日が近くなると、若いお客様が来るようになる。寝室のスペースがとられ、自分はもうそこにいないほうがいいと思うクララ。自分の居場所を自分で探し、階段を最上階までのぼりきったところにある物置に住むことにした。
物置の傾斜している天井。そして、小さな高窓。窓が高すぎて外を見ることができない。あるときジョジーが荷物を積んでそこから外を見られるようにしてくれた。マクベインさんの納屋も見える。以来、とにかく邪魔をしないように、なるべく物置から出ず、高窓から野原を見たり、家の周りで起こるいろいろな物音に耳を澄ましたりして過ごした。
最後、クララはお払い箱になって廃品置き場に捨てられていた。おそらく動けない状態にされているが、見えるし話せるし意識もある。親切な作業員が、AFが置いてある別のエリアに運んであげようかと言ってくれたが、ここが気に入っていると断る。そして、行き届いた配置で置かれているなあと思ったり、舞い降りてくる鳥を見たりしながら過ごす。ジョジーの家に来てから見た記憶が次々と甦る。あのシーン、このシーン。ある日、自分が以前に販売されていた店長が来てくれた。会いたかった、探した、とのことだった。うれしくなった2人は話しこんだ。そして、最後にB3型がいるところに運んでくれるように頼んであげようかと店長が提案。クララは「いえ、店長さん。ご親切に感謝します。でも、わたしはこの場所が好きですし、当面、振り返って整理すべきたくさんの記憶がありますから」と答える。
この最後の言葉、ずしんと来る。人間が死ぬ前、あるいは、例えば長年働いた職場を定年退職で離れる時など、こういうことをするのではないだろうか。振り返って記憶を整理する。まさに人間。
店の中では指定している場所で動かず、その中で精一杯の観察をし、情報を得て、学んでいく。ジョジーの家に来てからも、居なければいけない場所で向くべき方向を向きながら、見たり聞いたりした情報から学び、よりよい方策を常に考える。物置小屋から眺める、そして廃品置き場で動けない状態で眺める・・・クララは一定の条件の中でしか行動できない宿命にあり、その中で最大限のことをしている存在なのであり、そこに現代社会に生きる我々が共感できる部分があるように思える。
- 感想投稿日 : 2021年9月7日
- 読了日 : 2021年9月6日
- 本棚登録日 : 2021年9月7日
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