こいつはおもしろかった。時空を越えて二つの物語が進行し、一つの結末にいたる。そしてあの日本赤軍が懐かしい。

2011年7月14日

読書状況 読み終わった [2011年5月14日]
カテゴリ 小説
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 新学力観とか生きる力とか、はたまた学習指導要領における授業時間の削減とか、教育現場に押し寄せる改革の波には教員の九割がとまどっているというデータが日本教育社会学会で発表されたという(「朝日新聞」二〇〇二・九・二二)。総合学習(総合的な学習の時間)についても半分以上の教師に不信感があるようだ。
 その根幹にあるのはこんなことで子どもたちに学力は保障できるのかってことだよな。口先だけの観念的な学力をどうこう言ったって、子どもたちが生きていくのに必要な知識や能力が身についていなければそれは教師だけの授業改革ごっこに終わってしまうからだ。
 言うまでもなく、授業(改革)の目的は子どもたちにどれだけ学力をつけたかということで、その学力っていうのは何だろうか。私たちは学力保障という形で子どもたちに学力をつけてきたけれど、「同和」教育の中では解放の学力とか何とかわけのわからない抽象的な学力観を語り、基礎・基本だとか、新学力観とか、生きる力とかいう文部(科学)省のもっともらしい学力観も鵜呑みにして、お茶を濁してきたのではなかろうか。
 本書の著者は兵庫県朝来町立山口小学校という田舎の小さな小学校の教師だ。この田舎教師の実践がなんでわざわざ本になったりしているのか、というと彼が四年間教えた五〇人の卒業生のうち二割くらい(十人ばっかり)の子どもたちが難関大学に合格していたという自慢話によるのだ。実際、この数字は都市部の有力進学校の数字を凌ぐものかもしれない。学力が進学実績だけではかれるものではないと多くの偽善的な教師は言うかもしれない。しかし、この教師は小学校の教師であって、受験指導をしたわけじゃない。受験勉強をしたのは子どもたち自身であり、子どもたちに何らかの学ぶ力がついてたってことだと考えることもできる。
 で、その秘密を本書に求めてみるとそれは基礎学力だというのだ。さて、それじゃ基礎学力とはなんじゃい、ということになる。本書によれば「山口小学校の一〇年余にわたるプログラムの基本は『読み、書き、計算』という基礎学力を反復練習によって徹底させるということ」だったそうな。「なんだ、それだけかい!」とムッとくるかもしれないけれど、けっこう大切なことをこの陰山センセは言っている。基礎学力というのは後々自分で学ぶときのまさしくモトになる力だ。その意味ではきちんと読み書きができなければ何も学習できないし、理系ならばきちんと計算するという力がなければ前へは進めない。ただそれだけのことなのだけれど、それを愚かな高校教師のように詰め込んだって基礎学力にはならない。たとえば陰山センセは音読を薦める。音読といえば『声に出して読みたい日本語』(斎藤孝著)なんてのがベストセラーになってましたなあ。僕は買ってないけど…。とにかく体感的に言葉を学ぶ、これはだいじやね。
 そして基礎学力の上に総合的な学習をするのだという。その過程ではたとえば「歴史上の重要人物は漢字で覚える」ことを提唱している。その漢字を習ってないからといって一部を平仮名で教えるなんて総合的な学習の基礎にもとるってことだ。そういうと基礎学力とは何かが少しは想像つくのではないかと思う。
 学力論争はさかんだけれど、学力論に関しては良心的な人ほど観念的であったり、一方で受験偏重の注入的な指導がまかり通っていたり、楽しくない反復練習が押しつけられたりしているのが現状みたいだ。基礎学力とは何かの基本に立ち返って基礎学力について考えてみようや。


★★★★ 「百ます計算」にはじまり、具体的に基礎学力を与えていくノウハウが載せられているのでハウツーものとしても使える。この陰山センセ、今やあちこちで引っ張りだこらしいけど、学力保障の理論が枯渇してきたり、実績が上がっていないと思ったら読んで見るべし。ふと振り返るとわ...

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2010年4月5日

読書状況 読み終わった [2010年4月5日]
カテゴリ 教育

 もちろん「近現代史の授業改革」というのは藤岡信勝氏が提唱する自由主義史観の歴史教育をめぐる動きのことである。藤岡氏らがディベートからはじまってこうした授業改革の提唱にいたったことはよく知られている。本書は「〈虚偽〉を研究することによって、正しい思考のあり方がわかる」という観点から論理的思考を鍛えるために書かれたものであり、「藤岡氏の著書・論文は様ざまな種類の虚偽が含まれている宝庫である」と宇佐美氏は見ている。宇佐美氏は藤岡氏が議論において番(turn)を守っていないこと、事実のつまみ食いという論争の基本において藤岡氏の論法の〈虚偽〉を指摘している。本書の大部分は池田久美子氏が書いているが、池田氏は藤岡氏の論理の矛盾を徹底的に析出していく。「極限事例の虚偽」、「過剰限定の虚偽」、「先決問題要求の虚偽」、「二重基準」、論点変更の虚偽」、「無知に乗ずる虚偽」、「事例による操作」、「すじちがいな比較」、「不当前提の虚偽」、「語の意味の歪曲」、「目的による操作」、「主体不問の虚偽」といった藤岡氏の〈虚偽の技法〉をあばき出していく過程は実に痛快だ。自由主義史観に対する批判としてだけではなく、論理的思考を鍛えるために日々の授業において活用したい。

 ★★★★ 自由主義史観の手口が満載。悪用しないでください。自らの論理的思考を鍛えるためにもチョーおすすめ。

2010年4月5日

読書状況 読み終わった [2010年4月5日]
カテゴリ 教育

 藤岡信勝氏ら自由主義史観を標榜する人たちの発言が喧しいので、業をにやした家永三郎、吉見義明、藤原彰、安井三吉、大日方純夫などの論客が寄稿したブックレットである。とりあえず藤岡氏らに反発を感じる人ならすぐに共感できる内容かもしれない。しかし、この批判は自由主義史観を標榜する人たちには通じない気がする。なぜならばこのブックレットの書かれ方を藤岡氏たちは「自虐史観」と呼んでいるのだろうから、である。
 もとより藤岡氏たちはこのブックレットに書かれている歴史叙述のたぐいに反発しているのだから、たぶんまじめに批判としては受け止めていないのではないかと思う。とくに大日方純夫氏による「藤岡氏らの近現代史認識を問う」という一文は藤岡氏らとの近現代史認識のちがいは鮮明にしたけれど、それまでであってまったくの平行線であることを示すにとどまっていると思える。そう思うとよけいに腹立たしいが、議論となっている史実についてきっちり学べる好著ではある。

 ★★ 手軽に学べるという意味ではいいけれど、史観をめぐる論争には向かないな。

2010年4月5日

読書状況 読み終わった [2010年4月5日]
カテゴリ 政治

 東京大学教授・藤岡信勝氏がこれまで近現代史教育を自虐史観であるとして批判し、自由主義史観なるものを提起した著作である。いまさら紹介する必要もない本ではあるけれど、読まずぎらいはよくない。一度は目を通してきちんと批判はしておかなくてはならない本だと思う。世の中には気に食わないものは見たくないと言って遠ざける人もけっこういるみたいだ。くだらないから、と無視するのは簡単だけどそれは教師としての責任を放棄したことにもなるのかもしれない。
 藤岡氏の目指すところは「元気の出る歴史」であり、「誇りの持てる歴史」教育である。しかし、歴史というのはまずは事実が何なのかが問題なのである。それをどう解釈するかは史観と言うよりその人間の人間観、人生観の問題であろう。たとえば慰安所について文部省の建物の中の民間業者が経営する食堂の例に戦地慰安所と軍の関係をなぞらえて、この食堂は文部省の経営ではない(=慰安所は軍の経営ではない)と論じている。そういうのを我々はふつう文部省の食堂と言うし、軍の施設だと言うのだけれど、それを経営の責任がないことの言い逃れに使おうとすればするほどそこで辛酸をなめた人の神経を逆なでしていることに気づいていない。その無神経さに語る人の人間観が顕れてくる。そのことが藤岡氏が言う「戦略論で近現代史を見る」に際しても「戦略」そのものを誤る原因でもある。くだらないからと無視してはいけない。きちんと読んで、しっかりと呆れるべきであろう。

 ★★★★ こういう本はちゃんと読んでおくべきだ。

2010年4月5日

読書状況 読み終わった [2010年4月5日]
カテゴリ 政治

 二〇〇一年九月十一日。覚えているわね、あの信じられない同時多発テロのあった日のことを。あのとき、みんな何をしていたのかしら。確か、夜遅くのことだったと思うわ。
 確か、私は好きな人とワインを飲みながらテレビを見ていた。
家族で団欒していた人も人もいると思う。職場の仲間と電車の時間を気にしながら酔っぱらっていた人もいると思う。机に向かって勉強していた人も、夫婦喧嘩して茶碗を投げつけていた人もいたと思うし、子作りに専念していた人もいると思うわ。
 ある国ではちょうどお父さんがお昼の支度をしていたのかもしれないし、別な国のある村では学校帰りの子どもたちが道草を食っていたのかもしれないし、また別の国のちがった町では売れ残った品物をぶつぶつ言いながら片付けている商店主の憂鬱があったかもしれない。それでまた別の国の別の町では反応の悪い客に涙目になって歌っている歌手がいたのかもしれないし、その客の中には株で一儲けして有頂天になっているふざけたやつがいたのかもしれない。
 そんなこんなでいつもと同じように時間が過ぎていたはず。幸福な人も、不幸な人も、怒っている人も、泣いている人も、行き詰まっている人も、はしゃいでいる人も、みんなそれぞれの人生という時間を過ごしていたはず。
 そしてそのときニューヨークは新しい一日が始まろうとしていた。いつもと同じようにはじまり、いつもと同じように過ぎて、いつもと同じように終わっていく一日が始まろうとしていた。ところがぎっちょん、ニューヨークは大変な惨事に包まれてしまった。あのそれが新しい世紀の何かを予兆する一撃だったのかもしれない。わたしはそんな気がした。そしてその予感はあたった。
 それから何が起こったかって?そう、アメリカの報復よ。その報復の嵐はアフガニスタンの村々をおそった。いつもと同じように一日を始めようとしていた村人の上に、テレビなんか見たこともない子どもたちの上に、テロとはまったく縁のない女たちの上に、今日の安泰を祈ろうとしていた男たちの上に。爆弾が落ちてきた。銃弾がたたきこまれた。熱い炎がそそがれた。そして多くの村が焼かれ、いやとなるくらいの人が死んだ。
 戦争が始まったんだ。戦争はどんどん広がっていった。イラクという国がずたずたになり、たくさんの人が死んだ。
 『カラー・パープル』という小説でピューリッツァ賞を受けた作家アリス・ウォーカーはこの中で戦争の恐ろしさを知ってしまった。戦争はふつうに暮らしている人々を、ふつうに暮らしている生き物たちを、ふつうに流れていく時間をぜんぶ食べ尽くしていく。そのことを人は知らなさすぎる。知らないと戦争は私たちの上に突然降ってくる。あのアフガニスタンの子どもたちが予期しなかったように。
 戦争がgood ideaだと思う人がいたから、戦争は起きたのよ。Why war is never a good idea? アリス・ウォーカーは問いかける。そのわけを。答えはほらわかっているでしょう、あの後のふつうでなくなった村や町や国を。ふつうに暮らせなくなった村人や子どもたちや女たちや男たちを。ステファーノ・ヴィタールの説得力ある絵がアリスの文に力を与えている。読み返せば読み返すほど戦争がgood ideaではないことがわかってくる。ぜひ子どもたちに読ませてほしいし、それよりおとなが読むべきかもしれないわ。

☆☆☆☆
どの教室にも一冊は置きたいわね。えっ?予算がないって。そのくらい自分で買いなさいよ、それで戦争が少しは遠のくんだから。

2010年4月5日

読書状況 読み終わった [2010年4月5日]
カテゴリ 人権

 ワールドカップがやってくるとナショナリズムが高揚する。愛国者にとってはまさに至福の時だろうし、自称左翼の方々には日の丸の旗が観客席を埋め尽くしているさまに眉を顰める御仁もあろう。しかし、いずれにしても私たちはきちんと愛国心について考えることを避けてきたのではないだろうか。その一方で、愛国心に反発を覚えつつ、ぬくぬくと「この国」の慈愛の中で日々の平安を満喫している人もいるのかもしれない。
 それはさておき、世の中には自分は愛国者だと言いつつ、実際は不忠者が多々いるようだ。記憶にあるかどうかわからないが、日の丸・君が代を無理強いしようとして「強制しないように」と天皇にたしなめられた某自治体の教育委員なんぞはその典型のようなものだ。ただただ自分の卑小な生育史の呪縛から逃れられないやつ(換言すれば、自分の都合のいいようにしか社会を見てこられなかった人々)であろう。もっともこうした人間は自称左翼の中にも多々いるようだ。
 ところで、くだんの教育委員、もとい将棋差しがただその生育史の中において純朴に日の丸・君が代大好き人間であったからということで某知事の覚えめでたく教育委員になり、自分の小さな世界観を一千万の市民に押しつけていくという姿はどう見てもこの国をよくしていこうというふうには見えない。天皇がその愚かさをたしなめたのはまさしくこの国を思う天皇の見識であろう。その点からみてもこの教育委員とそれを雇用し、日の丸・君が代を強要している某知事などはまさしく不忠者ではないのだろうか。
 不忠とは愛国者ならば国家に対して背信行為をするということである。もとよりこの国を天皇制国家と信ずる天皇主義者ならば天皇の望むところにそわない奴等である。古より天皇は何より民の平安な暮らしを望んだと言う。ならば国民を戦場に駆り立てる者ども、威嚇的な街宣車で恫喝していく者ども、言論を力で抑えようとする者ども、愛国心を強制する者、君が代斉唱を強要する者は皆不忠者と言ってよいのだろうと思う。
 それならば忠なる者とは誰か。おそらくは愛国者であるにちがいない。そしてなんと言っても愛国心といえば右翼だ。それはまっとうな右翼にちがいあるまい。ということで本書は右翼団体一水会の代表鈴木邦男による愛国者と愛国心についての提言だ。この人は元日本赤軍の連中と友誼を交わし、日教組委員長と対談したことで物議を醸すということで耳目を集めてきた人だ。愛国心についてもその立場での見識を持っているであろう。ということで、本書は世の腐敗した右翼もどき・似非愛国者たちのみならず、愛国心について考えたこともなく愛国心通信表を見過ごした左翼もどきにも是非読んでもらいたい本だ。
 鈴木邦男は暴走した愛国心や強圧的に押しつけてくる愛国心を嫌う。他人と他国を愛さない、自己愛と自国愛でしかない凶器としての愛国心をまずは嫌うのである。そしてどうしたら愛国心を暴走させない、凶器にさせないかを本書を通じて考えようとしている。
 例えば鈴木氏は拷問死したプロレタリア作家小林多喜二が仁徳天皇と同じように民の幸福を願っていたということを指摘する。そして彼を国家の名において虐殺した特高こそが自己愛と自国愛しか持たない似非愛国者であり、不忠者だったかもしれぬというのだ。
 本書のキーワードは「愛国と憂国」に尽きる。憂国ってわかるかなぁ。その辺を読み解いていくと愛国心を押しつけたり、愛国者であると傍若無人の振る舞いをするやつらが不忠者であることがよくわかる。そういうふうに考えれば御上の真意を理解しない中間管理職って多いだろう(中間管理職っていうのは天皇と下々の中間にいる管理職ってことだから、総理大臣から教務主任までを含む)。また、愛国者気取りで恩師が左翼だからといって非難してまわっているコンドーくん(誰?)やらも不忠者だし、組...

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2010年4月5日

読書状況 読み終わった [2010年4月5日]
カテゴリ 政治

 今度の選挙は小泉首相の圧勝というかたちで終わったけど、与党が衆議院の三分の二以上を占めたっていうのはちょっとおどろきだったわね。この日わたしは天神の本屋さんでこの一冊の岩波文庫を買ったんです。なぜかっていうとちょうど選挙の日だったから。そして、自民党が圧勝しそうな予感をしてたから、かな。
 だいたいカレル・チャペックって人、知ってた? チェコの作家なのね。で、この本は一九三五年に書かれたもので、日本語訳になったのは一九七〇年で早川書房から出されたんだって。そして一九七四年に早川新書から再刊され、この岩波文庫版は一九七八年に出版されている。そんな古い本を今さら紹介することもないだろうと言われるかもしれないけど、歴史的な選挙の日なんだから意味があると思うからいいでしょ。
 訳者はどの訳も栗栖継という人。この栗栖継って人は生きてればたぶん九十五歳くらいになるみたいで、去年くらいまでは確かに講演なんかしてた痕跡はあるからきっと生きているんだろうと思うけど、最初のエスペランチストなんだって。それで戦後になってチェコ語を体得してチェコ文学研究家になったとか、けっこうすごい人みたい。わざわざ訳者を紹介したのは岩波文庫なんだけど訳がすっごく読みやすいのよ。ま、元は早川書房だからあたりまえかもしれないけど。
 ところで、早川書房といえばSF小説が看板の出版社ね。そしてその名に恥じず、この『山椒魚戦争』も立派なSF小説なんだわ。しかもめっちゃ面白いのね。どんな話かっていうと、一人の船長が東南アジアのある入江でかしこい山椒魚を見つけるの。そして山椒魚に真珠を取らせて一儲けしようとある社長に掛け合って、まあ、商談が成立する。で、この山椒魚を繁殖させて労働力として使い、ビジネスは一応成功するんだけど、この山椒魚たちはやがて言葉を覚え、さらに教育を受けることによって人間並みの知性を持つようになり、やがて人間をはるかに上まわるほど数が増えたあげく、ついに人間と戦争をして世界を制覇する、っていう話なの。
 あらすじを言っちゃえばもともこもないけど、チャペックという作家のひとつのテーマが人類は自ら生み出したものによって滅ぼされるというのを持っているのね。そうしたテーマにもとづいた作品の集大成みたいなのがこの小説なんだ。問題は人間が生み出したものって何かっていうこと。最初にこのテーマで書いた小説は人間がロボットに滅ぼされるという設定の話なんだけど、『山椒魚戦争』では人間がその欲望のために繁殖させた山椒魚っていうこと。
 そんな中で、人間に戦争を仕掛けたときに宣戦布告するチーフ・サラマンダー(山椒魚総統)というのが出てくる。こいつは「大征服者、技術者で軍人、山椒魚のジンギス・カン、大陸の破壊者なんだ。すごい人物だよ。」と紹介されるんだけど、作者自身の自問自答の中で事実が明らかになるのよ。

「……ほんとうに、山椒魚なのかね?」
「……ちがう。チーフ・サラマンダーは、人間なんだ。本名は、アンドレアス・シュルツェといってね。第一次世界大戦当時は、曹長だったんだよ。」
「道理で!」

というくだりなのね。つまり、チーフ・サラマンダーってのはアドルフ・ヒトラーを想像させるでしょ。だから、増殖する山椒魚はナチズムのことかもしれないし、広い意味での全体主義のことかもしれないの。こんなことを書いたせいでチャペックはナチにかなりにらまれたのね。結局追いつめられて寿命を縮めたみたいなんだけど、そのくらい風刺には毒があるのよ。けっこう思想的にも深いと言えるかも。
 でも、この小説のおもしろさってそんな教訓じゃなくって、「いかにも」って感じで実話を集めたみたいな手法で構成ができていること。だからかなりリアルに話が進むの。船長と社長を取り持った社長宅の門番が実は主人公というか、...

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2010年4月5日

読書状況 読み終わった [2010年4月5日]
カテゴリ 小説

 『戦争論』というクラウゼヴィッツの向こうを張るような題名だけどきちんとクラウゼヴィッツの名著を読み込みその歴史的限界をわかりやすく指摘するところから始まるところは『戦争論』としてはきちんとした議論をしている。しかも新書という性格からわかりやすくなっている。わかりやすさだけを追求して国家と民族にしがみついたところからしか発想できずに「公か私か」なんて脅しをかけてくるような同名書とは比較にならない。
 二〇世紀は戦争の世紀だっていうけど、それらの戦争の本質を分析していってクラウゼヴィッツを超えたところに本書の価値はあるみたいだ。まずは近代の戦争の特長を分析した上で各論に入っている。もちろん日本がなぜ戦争をしてきたのかについて近代日本という国家が軍隊をモデルとした軍隊国家として誕生したという説明をしている。平和教育が形骸化したのはどこかに戦争そのものを見つめる視点がなかったからではないだろうか。おのれの国家と民族の利害を通じてしか戦争と平和を考えてこなかったから加害者か被害者かという立場性でしか侵略も原爆も説明されていないのではないか。歴史を哲学の目で再検討することで著者はするどく問題提起をしてくる。
 次いでナチスのホロコーストの意味、さらに戦後の冷戦からその崩壊後に訪れたいくつかの内戦の問題に触れていく。例えばルワンダにおけるツチ族とフツ族の内戦は実は植民地時代にヨーロッパが持ち込んだいかがわしい人種主義によるものだったと分析する。多木氏によれば「人種主義とは植民者のイデオロギーによる民族の歴史の捏造であり政治化である」という。これは日本についても言えることでマンガの『戦争論』はまさしくこの捏造そのものだと思ってしまう。
 旧ユーゴスラビアの内戦はその悲惨さにおいて新しい近代戦争の典型を示すものだろうが、その内戦のさなかに『サラエウォ旅行案内』という冊子が発行されたという。その皮肉な表題のみならず、内容も皮肉に満ちているようなのだが、その『サラエウォ旅行案内』は民族主義からもナショナリズムから完全に逃れており、そこに希望が見いだされるのだという。そこから著者が得た教訓は「権力の言説にはまらないこと」であり、「それを超えて希望を見いだす言説を創造することがいっそう必要」なのだということである。
 今のわれわれが問われているのもそういう言説の創造ではないだろうか。


☆☆☆☆ 平和教育を見直していくには必読!

2010年4月5日

読書状況 読み終わった [2010年4月5日]
カテゴリ 政治

 昨年九月十一日の同時多発テロは米国の報復宣言のもとにアフガニスタンへの空爆が行われ、年末にはタリバーンを軍事的に叩き潰した。この間、アフガニスタンでは多くの罪のない人々が犠牲となった。当初は誤爆を非難する報道もあったがやがてそうした声は多くの犠牲者の数の前に問題にもされなくなっていったのである。
  テロルには報復といふ良識が無辜の民らを殺戮しゆく  休呆
 この歌が示唆するように無差別殺人は米国が言う良識の名のもとに確実に実行されていったのである。米軍の使用するまさに殺人のための工夫を凝らされた兵器が紹介されるたびにいったい誰がどういう罪で殺されなければならないのか私はわからなくなっていった。この戦争で手足を失った子どもがいる。その子の人生はまだ何十年もあるのに誰がその人生を責任をもって見届けるのか。ブッシュは自らのさして長くはない政治生命のために多くの人命と数え切れない人間の人生を台無しにしたのである。ブッシュという個人の問題ではない。そうした人類に対する犯罪に荷担したのはこの報復に賛成の手を挙げた無責任な人々すべてなのではないか。我々とてその罪からは逃れられない。戦争放棄を謳った憲法を持つ日本政府は実にさりげなく自衛隊の派遣の合意を獲得してしまった。小泉政権が圧倒的国民の支持を得ているという事実から考えればあの子どものこれからの長い人生をぐちゃぐちゃの絶望の中に放り込んだ責任はともに負うべきなのではないか。もしもあなたの子どもが理不尽にその手足をもぎとられたなら…と置き換えて考えてほしい。
 しかし、微かな実に微かな希望はある。満場一致で米国下院がこの報復を決議しようとしたときただ一人反対した人物がいた。バーバラ・リーという議員だ。今、この戦争を否とする勢力は米国の議会の中ではたったの一でしかない。日本の国内ではどうなのだろうか。世論がどこで測れるのかはわからないが、無差別テロへの憎しみは語られても米国の報復を否定する意見が多数派であるようには思えない。何しろ目の前で行われた理不尽なテロに憎しみを持つことは簡単である。しかし、憎しみを新たな殺戮に転化するのではなく、その憎しみを再生産しない努力こそがいま求められているのである。私たちの問題として言い換えるならば、私たちの実践してきた平和教育がどういう実績を重ね、どういう成果を挙げているかが問われているということである。果たして子どもたちはきっぱりとこの戦争を否定するように育っているのか。これは私たち教師の平和教育に対する厳しく的確な評価である。その結果は真摯に受け止めなければなるまい。
 それはともかく無差別テロへの報復を是とする風潮の中で勇気をもって戦争に《否》を唱えたのが本書である。監修の代表名になっている坂本龍一とはあのYMOの坂本龍一である。彼が国際政治の専門家でもなく芸能という業界人であるということは何の問題でもない。インターネットを通じて世界中から戦争を否定する意見が集まり、それをまとめたのがこの本だ。sustainability for peace(平和のための持続可能性)というのはそうした平和を希求することで意志一致した人々だということである。
 だからこの本には世界中から戦争を否定するいろんな人のメッセージが寄せられている。先述のバーバラ・リーの議会演説も入っている。坂本と同じ桜井和寿、大貫妙子、佐野元春、マドンナ、TAKUROといったミュージシャンもいる。だから芸能本の感覚で読みたければそれでもいい。アフガンで名を馳せた中村哲も書いているから。梁石日、重信メイ(重信房子の娘)なんかもいる。ガンジーやキング牧師のような故人の発言も採録されている。とにかくめいっぱい「戦争が答えではない」というメッセージを徹底的に伝えようとしている。理屈はどうでもいい。国家や民...

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2010年4月5日

読書状況 読み終わった [2010年4月5日]
カテゴリ 政治

 南京大虐殺について『教科書が教えない歴史』③には「突如持ち出された虚報の『南京大虐殺』」という一文が載っている。南京では合法的な処刑は行われたが、その一カ月後に「虐殺」という「誤報」が流れたことはあったということ、虐殺を証明する公式資料は一つもなかったということ、そして敗戦後の東京裁判で突如として持ち出されたものであることなどが述べられ、「南京虐殺はこのように不可解な点の多い事件なのです」と結んでいる。たぶん南京大虐殺は政治的に作られた虚構だったとでも言いたいのだろうか。そうでなければ、この話を「教科書が教えない歴史」として掲載する理由が
わからない。
 で、本書は当時ドイツのジーメンス社南京支社長であったジョン・ラーベという人物の日記である。この日記は一九九六年十二月にニューヨーク・タイムズでされたもので、この日記の発見によってラーベは一躍「南京のシンドラー」と称賛されたということである。ラーベはナチの党員であり、当然のようにヒトラーの崇拝者であった。また、ラーベは日本人でもなく中国人でもない第三者であり、その意味では南京で起こった事実を見たままに伝えているといえよう。
 まずいことについては証拠は残さないし、隠滅もするし、否定もするだろう。たとえ不良行為を認めたとしても罪の軽さを主張するだろう。しかし、誰かがちゃんと見ているものだ。ところで、今、南京大虐殺を否定しようとする人たちは何のために何を隠したいのだろうか。

 ★★★★ 事実は小説より奇なり。手軽に見たい人は『現代』一九九七年十一月号に抄訳が載っている。

2010年4月5日

読書状況 読み終わった [2010年4月5日]
カテゴリ 政治史

 平和教育であるとか、同和教育であるとか、はたまた昨今で言う人権教育のようなものが繰り返し、戦争の悲惨さ、平和のたいせつさ、いのちの尊さ、差別の不当さを子どもたちに教え込んできた。そして、その成果がはたして子どもたちに反映しているかというと甚だ心許無い。あの湾岸戦争に際して日本は参戦国であったにもかかわらず、「参戦」の是非についてよりほとんどの議論がいかなる「参戦」のしかたをすべきかというところに集中していた観があった。そして最近では旧ユーゴスラビアの内戦やルワンダにおけるツチ族とフツ族の内戦など局地的な民族間の殺しあいに対しても同情以上の堀下げが行われているようには見えないし、子どもたちに伝えられているようにも思えない。しかし、今あげたいくつかの例は不謹慎な表現をするけれど戦後の平和教育や同和教育の練習問題なのだと思う。ところが子どもたちはおろか、教師も、そしてそこに理論的な情報を提供すべき教育学研究者もろくな答案を書くことはできていないのではあるまいか。なかんずく教育史研究を含むところの歴史研究が積年語られてつづけてきた戦争と差別をめぐるある種の定説に呪縛されてきており、そのことが研究そのものの目を曇らせてきた、その結果が平和教育や同和教育、ひいては解放運動や反差別運動までを硬直化させているのではないだろうか。
 そんな思いを持ちながら本書をひもといてみた。本書は「あとがき」によれば、名古屋大学を退官したばかりの安川寿之輔氏と安川氏の埼玉大学時代及び名古屋大学時代のゼミナール参加者を中心に作られた「差別と戦争」研究会の共同研究の成果だという。著者たちは好まないだろうけれど、旧来の学界的表現で言えば安川門下生による退官記念出版とでもいうものである。それゆえに一番はじめに書かれている安川氏の発言は全体を通す論理を導く上で重要な意味があるようだ。
 それは差別と戦争についての常識の再確認であろうかと思う。まず「差別」について「差別とは、被差別者が、被差別者集団(ユダヤ人、アフリカ系アメリカ人、在日韓国・朝鮮人、被差別部落民、障害者、女性など)に所属しているただ一つの理由で、言いかえれば、被差別者個人に何の責任もない理由によって、蔑視や憎悪や排除(政治への参加、教育の機会、就職、居住、恋愛など、いろいろなレベルで)の対象とされることである。」(10頁)という説明である。被差別者集団への所属が蔑視や憎悪や排除の対象となることを差別というのだと安川氏は明確に断言しているのだが、その程度のことは差別の問題を考える人間ならばいまさら問われることでもなく自明のことだと思い込んでいるのかもしれない。しかし、この自明のことをほとんどの研究者のおごりは見落としているのではないだろうか。
 次いで安川氏は「戦争は、人間が敵の軍隊や敵の国民に所属しているという唯一の理由で、蔑視・憎悪・排除が殺人・殺戮にまで拡大することが合法化される点において、人間社会における最大の差別である。」(13頁)とする戦争観を呈示している。戦争を考えるときに差別との関係をどれだけの研究者がこのように持ち得ているかということも本書を通底する批判的視座である。
 本書は8名の執筆者により9章からなる構成をとっている。各章の構成と執筆者は以下の通りである。
序章  課題と分析視角
 一 近代社会と差別と戦争                    安川寿之輔
 二 「差別と戦争」めぐる研究の現状               松浦  勉
第1章 「同化」と「文明化」―矢内原忠雄の植民地教育論    佐藤 広美
第2章 アジア太平洋戦争と被差別部落
     ―全国水平社・松本治一郎の戦争協力とその論理      松浦  勉
第3章 十五年戦争期における廃娼運動と教育
―日本キ...

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2010年4月5日

読書状況 読み終わった [2010年4月5日]
カテゴリ 教育学

 九・一一の後、アメリカはイスラム世界に対して攻撃を始めた。対テロという名目によって。決して人気の高くなかった(何しろ最後まで当選が不確定だったのは記憶に新しい)ブッシュ大統領がここぞとばかりに「われわれは十字軍だあ!」と叫んで支持率を伸ばしたのだった。そしてアフガニスタンを攻撃した。あのテロの犯人の中にアフガニスタン人はいなかったにもかかわらず、である。理由は明確である。アメリカの嫌いなウサマ・ビン・ラディン一人を殺すためである。そのためにどれだけのアフガニスタンの人々がアメリカの攻撃によって、そしてその後の内戦によって生活と生命を奪われつづけているのである。「~つづけている」と書いたけれど、このあいだ福岡県人権研究所の創立総会の時にペシャワール会の活動でアフガニスタンで医療活動をしている中村哲さんの記念講演を聴いたのだけど、アフガニスタンに平和は戻っていないのだそうである。あの空爆の前がいちばんよかったのだと言う。そして今もアフガンは悲惨な状態にあるというのだ。しかし、イラク戦争で世界はアフガンを見捨てつつある。
 いったいアフガン攻撃でアメリカは何を得たのであろうか。そしてアフガンの民はなにゆえに殺されなければならなかったのか。おそらくほとんどのアフガンの民は貿易センタービルのテロの存在すら知らなかったと思われる。タリバーン政権下で彼らはテレビすら見ていなかったのであるからだ。
 そうしたらイラク戦争だ。この戦争の理由は何だったのだろうか。記憶の隅にある限り大量破壊兵器かなんかが隠されているということだった。で、フセインはそれをまったく使わずにどっかに消えてしまってイラクはずたずただ。もっともフセイン時代に不遇であった人々は解放されたようだが、フセインにしてもビン・ラディンにしてももとはアメリカが育て上げた人物だということは周知のことだ。つまりはアメリカにとって彼らは用済みだったということだ。
 そうやって近代戦争の歴史を振り返ると必ず絡んでくるのがアメリカだということだけは確かなことだ。本書はそうしたアメリカを戦争中毒とみなし、その理由を模索していくマンガだ。週刊誌大でやや大判、七〇頁程度の読みやすい厚さだ。まさにお手頃の絵入り本だ。初版は一九九三年の湾岸戦争の直後に刊行された。しかし、「あの9月11日の事件が起こり、ブッシュ/チェニー政権に「世界に対する終わりのない戦争」を始める口実を与えてしまった」(「日本のみなさまへ」)ことが対テロ戦争新しい章を書き加えさせ改訂版として刊行にいたったということである。
 基本的にマンガであるので、誰でも気軽に読める。但し、マンガでもこういう内容だから文字は多いぞ。
 アメリカがいろいろな正義を主張したとしてもすべてがアメリカの権力者と企業の利権に基づいていること、そしてそのツケが世界の小国のなも無き人々の生活と生命であり、アメリカ国民の貧困な福利厚生(これはアメリカ人向けに書かれている)にまわっていることなどが、明瞭に説明されている。
 ごじゃごじゃ言い訳がましい国際政治の本を読むよりも戦争中毒の構図が手に取るようにわかるのが日頃じっくり社会的な本を読むことのできない中学生や高校生にはぴったりかもしれない。そういう意味で教師も生徒と一緒に読んで語り合うとなかなかの教材にもなると思う。


★★★★ アメリカではあまりに真実に近いんで少数派なんだろうな。日本版の「戦争やりたがり中毒」の本も欲しいと思うんだけど、誰かつくってくんないかな。

2010年4月5日

読書状況 読み終わった [2010年4月5日]
カテゴリ 政治

要は軍隊が横暴で会ったことは否定していない。ただ、あれは仕方なかったというだけである。そういう意味では正直だ。

2010年4月5日

読書状況 読み終わった [2010年4月5日]
カテゴリ 政治

 また、沖縄で米兵による少女暴行事件が起きましたね。なんべん同じことが繰り返されたら気が済むのでしょうか。いきどおりで胸がいっぱいになりました。このニュース、朝の報道番組でやっていました。アナウンサーが「沖縄は今、怒っています!」と訴えていました。わたしも「そうだ!」と思ったんですけど、その番組に出ていた出ていた評論家みたいな人が「今、○○さんは原稿を読んだだけだろうけど、沖縄はいま怒っています、って言うのは沖縄は日本とは別だろうということになりますよ。日本が怒っていると言うべきじゃないかな」というふうな意見を言ったんです。これってけっこうショックだった。わたしもそのアナウンサーの方と同じに「沖縄は怒っている」って思いこんでいたんですから。ていうより、与えられた原稿を読むように沖縄に同情的な言葉だけをいじくっている自分に気がついたんです。そうなんですね、沖縄のことをわたしたちはなんか他人事みたいにいつも思っているんじゃないかなあ。この事件は確かに日本の問題だし、そういうことは自分自身の問題でもあるはずなんですね。だけど、私たちの頭の中には沖縄=米軍基地って結びつけるだけじゃなく、自分たちとは関係ないって処理しているところがあるんだと思う。
 いや、それだけじゃないね。相前後して岩国の市長選挙もあって、米軍の再編の問題が問われたんだけれど、岩国と沖縄はやっぱりなんか違う感じがするのね。どうしてだろう。沖縄って、昔は琉球王国で、ひとつの国だったんですよね。それが琉球処分という形で日本に属することになり、そして戦争を理不尽に体験したところであるし、戦後二十七年間アメリカの支配下にあったってのは岩国とはまったくちがうとこかな。
 そしたらこの本を思い出したんですね。『沖縄ノート』。これが本棚の隅にあったわけですよ。岩波新書で薄いから目立たなくってね。手に取ってみたらずいぶん昔の本みたいなので奥付を見ると一九七〇年九月だって。母に聞いたら学生時代に読んだ本なんだって懐かしがってました。
 一九七〇年といえば、沖縄は復帰前。まだアメリカの支配下にあった時代ですよね。それでベトナム戦争なんかがあって、沖縄は重要な軍事拠点だったってんですよね。そして、沖縄の本土復帰って一九七二年だったのだから、ちょうどこの本は復帰のちょっと前に書かれたことになる。この頃大江健三郎は沖縄に通ってこの本を書いたんだ。
 この本で大江は日本人とは何かということを問い続けている。これが本書の主題だ。日本人とは何か、っていうのはナショナリズムを鼓舞するために問うているのではないのね。沖縄という存在と向き合いことで日本人に生まれてしまった自分を問い直す作業のようにわたしには思えた。たとえば「沖縄の、琉球処分以後の近代、現代史にかぎっても、沖縄とそこに住む人間とにたいする本土の日本人の観察と批評の積み重ねには、まことに大量の、意識的、無意識的とを問わぬ恥知らずな歪曲と錯誤とがある。それは沖縄への差別であることにちがいはないが、それにもまして、日本人のもっとも厭らしい属性について自己宣伝するたぐいの歪曲と、錯誤である」なんてね、すごい問題意識だと思う。
 そして大江健三郎は「日本が沖縄に属する」という命題を提起するんです。えっ?だよね。沖縄の本土復帰運動のさなかに「沖縄が日本に属する」と言う人は数多いただろうけど、「日本が沖縄に属する」なんて倒錯した命題を立てるに至った大江はすごいなあ。でも、それってどういうことかって?それは自分で読んでよ。
 ともかくね、プロローグも入れて十編の大江健三郎の思索が詰まっている。それらをひとつずつ読みながら大江と一緒に思索していくと、一九七〇年という時代の中で沖縄と日本を問い詰めていった大江の問題意識はちっとも古くはないと感じました。ていうより...

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2010年4月5日

読書状況 読み終わった [2010年4月5日]
カテゴリ 政治

 今、君は元気かな。そして、いつまで元気かな。今は自分の健康に自信を持っているのかもしれないが、いつ何が起きるのかわからないのが人生というものだ。突然病気や怪我に襲われて、障害を負ってしまうということは誰にでも起こりうることなのだな。
 本書の著者の多田富雄氏は免疫学の世界的権威で、一九七一年に国際免疫学会で報告した「サプレッサーT細胞」の発見はノーベル賞級の研究と注目されたのだそうだ(本書の腰巻にある著者紹介による)。この偉大な免疫学者があろうことか二〇〇一年五月に旅先で脳梗塞の発作に襲われたのだ。まだまだ若い六十七歳だった。脳梗塞というのは「脳血栓または脳塞栓の結果、脳血管の一部が閉塞し、その支配域の脳実質が壊死・軟化に至る陥る疾患」(『広辞苑』第五版)なんだそうな。まあ、脳のどっかが詰まる病気だな。ご承知のように身体の麻痺をはじめいろいろな後遺症をもたらす病気である。突然、襲って来るので、こいつに当たったらそれまで健康自慢だった人も障害者とならざるを得ないのだ。嗚呼運命の過酷なることよ。神の意思の気まぐれなることよ。
 ともかく、不幸なことに多田氏は脳梗塞に当たってしまった。そして、右半身麻痺、重度の嚥下障害(呑み込みにくい)及び構音障害(喋りにくい)を後遺症として引き受けてしまったのだ。この状態になったらどうすればいいのか。そう、リハビリをするしかない。リハビリによって身体能力の回復をはかるのだ。リハビリというのはリハビリなんだから、即効果があるわけではない。麻痺が完全にとれるかというとそんなに簡単ではない。気長に続けることが何よりだし、これで完治するほど脳梗塞の障害は甘いものではない。少なくともリハビリを続けることで症状の悪化は防げるのだが、悪化を防ぐだけでも高齢者になればたいへんなことなのだ。
 多田氏も理学療法士と言語聴覚士について毎週二回のリハビリを続けたそうな。ところが、二〇〇六年三月(発症から五年経ってる)診療報酬の改定が行われて公的医療保険で受けられるリハビリは発症から九〇~一八〇日までしか受けられないという上限を設けたのである。信じられないだろう。五年経ったって完治しないものを一八〇日までしか認めないというのだ。少なくともリハビリを受けなくては生きていくことがたいへんになるにもかかわらずだ。改善の見込みのない慢性疾患にはリハビリは認めないというのが意味のわからないところだ。慢性疾患というのはなかなか治らないということだ。そういう病気にかかったら治療はやめてしまえ、というのが、この診療報酬改定の意味するところなのだ。やめたらどうなるか。多田氏は三週間ほどリハビリを休んだら、五十メートルばかり歩けたのが、立つのも難しくなったというのである。つまり、衰えて寝たきりになり、死期を早めることになるのである。そうして亡くなったのが社会学者で歌人の鶴見和子さんだ。鶴見和子さんは一九九五年に脳出血で左半身麻痺となったが、十年以上リハビリを続けながら執筆活動をしてきた。それはそれは驚くべき知的エネルギーだ。その彼女がリハビリを打ち切られるやたちどころに寝たきりとなり、その年の夏に亡くなったのだ。彼女を死に至らしめたのは誰か。診療報酬改定に他ならない。公害研究の第一人者宇井純氏もリハビリを打ち切られてまもなく亡くなった。彼らは著名人であるからその死を惜しむ声が少なくともこのように活字で残る。しかし、膨大な数の患者がリハビリを受けられなくなって亡くなっていることはまちがいない。
 どうしてこういうことが起きたのか。医療費を減らしたい一心で無駄なものは削減しようという小泉路線の中で起きたことなのだ。それを新自由主義という。新自由主義者によれば長引くリハビリは無駄なものであり、そのような病を抱えている人間は無駄な人間なのだ。後期高齢者な...

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2010年4月4日

読書状況 読み終わった [2010年4月4日]
カテゴリ 人権
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 教育基本法が改正されて、その後教育現場は何も変わっていないというので、日々の安穏の生活に戻り、子どもを追いかけまわしているあなた。突然総理大臣が辞めてしまうこの美しい国に対してとりあえず何とかなるだろうという根拠のない信頼を置きながら不平不満を言っているあなた。自由と言われれば無条件にいいことだと思い、自由を少しでも抑制すれば管理だ、弾圧だと不平を唱えてしまうあなた。人間はみんな無条件に平等で人権は天から与えられたと思っているあなた。日の丸は嫌いだけど星条旗やトリコロール(フランスの三色旗)については敬意を表し、君が代は嫌いだけどゴッド・セイブ・ザ・クィーンやラ・マルセイエーズは無自覚に受け入れているあなた。日本の民族主義は嫌悪するのに在日外国人の民族主義には同調しちゃうあなた。そのくせワールドカップやオリンピックは日本選手団を応援してしまうあなた。もしくはそんなものは愛国心を助長するものだと言ってテレビを消してしまうあなた。この国と、この国に対する自分自身の責任について考えているかい?
 この国というのはもちろん日本国のことだ。天皇制国家でありながら帝国とか皇国を名乗らずに敢えて日本国と称している謙虚なこの国のことだ。少しは深刻に考えた方がいいと思う。なぜならばこの国は戦後六〇年を過ぎて戦後民主主義の制度疲労が末期的な症状を来たしているからだ。戦後民主主義が朽ちて滅ぶならば次に来るものは何か。それを考えるだけで恐ろしいから何とかしなくてはならないのだ。先にあげた「あなた」の症状はすべて戦後民主主義制度疲労症候群だ。その最大の症状は国家に対する無責任性だと言っていい。
 自国に対する無責任さは突然その食を放棄した首相のみならず、無原則にアメリカに追従していれば愛国者だと勘違いしている人びと、日本嫌い(反国家的)であれば進歩主義者だと勘違いしている人びと、選挙にも行かず、組合にも入らず、愚痴や不満も言わない人びと、そういう日本国民全体に蔓延している。このところ下がりっぱなしの投票率は国家と国民の乖離を端的に示している。
 私たちが自由とか、人権とかを主張するときそれは国家との関係においてどのように位置づけて語っているのだろうか。おそらく幼子が駄々をこねるように欲しい欲しいと叫んでいるに過ぎないのではないだろうか。そしてそのような駄々が説得力を持つ論理であるはずもないのだ。
 本書のタイトルは『思想としての〈共和国〉』だ。世界が近代化という時代転換をしたのは近代市民社会の成立による。そして、その近代市民社会がフランス革命によって生み出されたものであるということは世界史をちょっとかじった方には覚えがあるだろう(未履修の人はいざ知らず)。〈共和国〉というのはその近代市民社会の基本原理だと言えば理解してもらえるだろうか。トリコロールが示しているように基本原則は自由、平等、博愛だ。人権思想はここから生まれている。サブタイトルに「日本のデモクラシーのために」とあるのは日本社会ないしは日本国家のありように国家・社会の基本原理からものを言いたいという著者たちの願いが込められている。
 本書はフランス文学・思想の研究者である水林章氏らがフランスの思想家レジス・ドゥブレの一篇の論文に刺激を受け、その論文をたたき台に日本のデモクラシーを再考しようとしている挑発的な著作だ。冒頭にドゥブレの「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」という問題の論文を載せている。次いでフランス研究の三浦信孝氏とドゥブレ氏の対談、更に水林氏の論文、そして憲法学の樋口陽一氏と三浦、水林氏の三人に「共和国の精神について」という鼎談でまとめられている。
 まずはドゥブレの「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」という論文を読んでみよう。この論文は長いものではないし、水...

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2010年4月4日

読書状況 読み終わった [2010年4月4日]
カテゴリ 社会科学

 昨年、福岡県内で哀しいいじめによる自殺が起きた。福岡県内では今までに何度もマスコミを騒がせるいじめ自殺が起きている。ある地域では生徒の死を受け止めて二度といじめを起こさない教育に取り組む努力をしているとは聞いているけれど、多くの学校や地域では時間と共にできるだけ忘れてしまいたいことになってしまっているんじゃないだろうか。いじめ自殺なんていうのが大々的にマスコミを賑わせたのは東京の中学生が自殺した「葬式ごっこ」事件だったかな。中野富士見中学の鹿川裕史君が盛岡駅構内で自殺した事件だ。それが一九八六年二月。たぶん、「いじめ」という言葉が教育用語になったのはこの事件が最初だったんじゃないかなと思う。
 昨年の事件が起きたから騒ぎが再燃したようにはなっているけれど、現場ではずっといじめは課題としてついてまわっているよね。それは実感だよね。ということは自殺にいたるかどうかはともかく、いじめによって学校から切り捨てられた子どもってものすごく多いんじゃないだろうか。そんなことを思って思い出したのがこの絵本。本棚を探して久しぶりの対面をした。古くてもいい。いいものは紹介しなくっちゃ。
 この本は松谷みよ子という超ビッグな童話作家が作った絵本だ。初版が一九八七年十二月。鹿川君が亡くなった翌年だ。そして現在も出ている。私が買ったときは税込み一二〇〇円だったけど、今は税込みだと一二六〇円。内税から外税になっただけ、かな。偕成社の〈新編・絵本平和のために〉シリーズの五冊目に入っている。平和のための本なのだという。えっ?いじめと平和がなんで関係あるの?と思うかもしれないけどそれにはわけがある。松谷さんの『私のアンネ・フランク』(偕成社、一九七九年)という本を読んだ女性から手紙が来たそうな。本書はその手紙がもとになっている。その手紙には「差別こそが戦争への道を切り拓くのではないでしょうか…」とあったという。だから、いじめを見すごすことはアウシュビッツへの道なのだということで〈平和のために〉シリーズに入れてもらったんだと。
 本書は「この子は わたしのいもうと ……いもうとのはなし きいてください」というふうに、その女性からの手紙の形をとって語られていく。転校した先で出遭ったいじめ。そのいじめが淡々と語られる。そうあなたのクラスにもあるごくあたりまえの、そう、何でもないいじめ。ただのいじめ、ちょっとした遊び。でも、それが重なっていくと…味戸ケイコさんの絵がせつない。もともとが松谷さんに送られてきた手紙だから、いつわりのない説得力がある。
 私はもう何度この絵本を読んだかしれない。しばらくぶりでこの本を読んでみたけど涙がぽろぽろ出てきてとまらなくなる。でも前とは悲しさがちがうみたいだ。出会った子どもの数だけ悲しみが広くなる。抱きしめた子どもの数だけ悲しみが深くなる。最後の頁はほんとうにつらい。初めていもうと自身の言葉が出てくるのだから…。
 最初に紹介したように本書の初版は二十年近く前。でもいじめの本質は何にも変わっていない。だからこそ今、みんなに読んでもらいたい。

★★★★ いじめの残酷さにここまで迫った本ってそうないだろう。そして現場ではたくさんの「わたしのいもうと」を見すごしているのかもしれない。そして、それは戦争への道につながるものなのだ、と松谷さんは言う。たぶん読んだ人も多いだろうし、図書室にも置いてあるかもしれない。でも、教室に一冊ずつ置いて欲しいな。センセイが自腹切っても子どもたちに読ませてほしい。もちろんセンセイに読んでもらいたい。だっていじめを見すごしているのはセンセイなんだから。

2010年4月4日

読書状況 読み終わった [2010年4月4日]
カテゴリ 教育

 「きっついお仕事」にはいろいろあるだろうけれど、和田虫像氏が体験できなかったお仕事にデリヘル嬢がある。なにしろこれは女性にしかできない仕事なのね。この著者の大森みゆきという名前は仮名です。仮名であるところに風俗という世界へのこの世の偏見ちゅうものがあるのかもね。
 で、この著者、デザイナーとして働きはじめたところ、いろいろな壁にぶち当たっていわゆるソープ嬢になったんだって。その彼女がひょんなことで「障害者専用のデリバリーヘルス」という業界に入ってしまう。なにしろ、ソープ嬢を半年したというのが、このお仕事に就くまでの彼女の風俗と介護(こっちは経験ゼロ)のキャリアなのね。それではじめちゃったんだから、この業界もすごいよね。
 まず、謹厳実直な読者の方々にはデリバリーヘルス、略称デリヘルって何だか説明しないと、この本の意味からしてわかんないわよね。あたし?あたしだってわかってるわけないじゃない。ま、読んでみて推測するにデリバリーってのは出前ってことだから、店舗を持たない仕事なの。そしてヘルスって、べつに健康食品とかじゃなくて、性的なサービスをすることだと考えたらいいようね。性的なサービスといっても性交渉は売春だから、これは法律違反。そうならない範囲で顧客の性的欲求を処理する仕事と考えたらいいみたい。まあ、「きっついお仕事」の一つに入るといえそう。
 それで本書は大森みゆき(仮名)さんが障害者専用デリヘルというお仕事の体験を紹介してくれている本なの。でもキワモノではないよ。最初に書いたように世間ではいわゆる風俗っていう世界はやっぱり陰の世界なのね。例えば「同和」教育に熱心なセンセイがデリヘル嬢を呼んで遊んだ、なんて言うとみんなから顰蹙を買うことはまちがいない。例えば「風俗っていうのは性の売買で、性の売買は女性の尊厳を否定しているから人権・同和教育に携わる人がなんてことをするのだっ!」なんて批難する人がいるかもしれないし、「そもそもそれはジェンダーの問題でして、そのようにジェンダーを一方的に押しつけることが……」なんて理屈をたれる人もいるかもしれない。
 しかし、障害者が性欲を持たないはずはないし、性欲を満たしたいということも一つの自己実現じゃないのかなあ。ところが、障害を持っているがゆえにその性欲の処理は健常者のようにはいかないことって想像がつくでしょ。実際に自慰そのものがままならない人だっているんだと思うの。彼女はこのお仕事を通じていろんな障害者の方と出会う。そして、いろんな形で彼らの性欲の処理に貢献するんだけど、世間っていうのはきっとこういうお仕事についてはフツーの風俗産業以上に眉をひそめるんだろうな。逆に言えば障害者は性欲を持っちゃいけない、恋愛や結婚は許されても風俗産業で遊んじゃいけないって思ってんじゃないかな。ともかくそういう偏見を彼女はどんどん打破していくんだ。
 ところで、彼女は介護体験はまったくゼロでこのお仕事に就いたのね。で、お客様と出会うたびに少しずついろんな技術を体得していくんだけど、あるお客様の時に性器を清浄綿で拭こうとしたとき本人はデイサービスで入浴しているからきれいだと思っていたらしいんだけど、そこには垢が真っ白にこびりついていたんだと。介護というのはきっと「性」の部分から目をそらしてしまうものなんでしょうね。だから見えないそういう部分には手は触れないのでしょうね。それにそこまでていねいに洗うべきだとも言えないしぃ。何しろすごくプライベートな部分だものね。
 これは介護の問題ではないと思う。そうではなくて介護と人間の「生」(生きるほうだよ)との〈はざま〉みたいなものがあるような気がして、だからそこって介護には絶対手の届かないところなのかもしれない。障害者の「性」(りっしんべんだよ)に向き合うことになった彼女は...

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2010年4月4日

読書状況 読み終わった [2010年4月4日]
カテゴリ 人権

 部落史研究の中で差別の淵源についてケガレ意識について云々されるようになってきたことは教育現場においてはよく知られるようになってきた。しかし、そのケガレ意識とはどういうものかについては体感した人はいない。なにしろ中世におけるケガレ意識なんて議論なのだから想像を超えているのである。それは手にウンコがついてしまったというものとはまた別のケガレ観なのであろうとは推測しつつも私たちは抽象的な観念としてしかケガレ意識を理解していないのではないか。そうすると学校で部落問題学習、ないしは部落史学習を行ったとしても観念的なものにとどまらざるをえなくなるし、汚れたら手を洗えばいいという程度のところにとどまり、差別の根拠となったケガレ意識には実は手が届いていないのである。
 さらに重要なことは部落史研究でケガレ意識が提起されたことによって近世政治起源説は追いやられたことである。これにより、短絡的な行政責任からより民衆の生き方そのものにかかわる差別問題の本質を克服することに今後の人権問題の課題を置くことができるようになったのである。このことは私たちの差別意識の根幹にあるものを解明しなければならないことを意味している。つまりはケガレ意識とは何なのかを具体的に問うことである。
 ケガレ意識が死穢(しにえ)と結びついていたことはよく言われることである。具体的に私たちの暮らしにそれを求めるならば葬儀の返しに塩の小袋を付して、これを撒くことでケガレを払うというようなしきたりが最近まではあった(近年はあまり見なくなった気がするのだが)。その程度のことはあまりに迷信じみていると新しい世代の人間ならば気にすることなく廃止していく習慣でしかない。しかし、死というものを遠ざけようという意識は克服されていないと思うのである。先般JR西日本の悲惨な事故があったが、テレビで遺族の不満を流している中に「開いたままの目を閉じてやってください」とJRの職員に訴えたところ、「それは葬儀屋の仕事です」と断られたことを非難している映像があった。そこに遺体の取り扱いに関する微妙な意識が見え隠れするのを感じてしまった。
 本書は毎日新聞社西武本社版に二〇〇〇年九月から二〇〇一年十月にかけての連載記事がもとになっていて、内容は三部に分かれている。
 第一部はペットの行方と題され、ペットとなるはずの犬や猫がさまざまな理由で不要となったときになされている「処分」のルポである。ペットとなるはずの犬や猫は人間によって不必要に増やされ、その数的なバランスを崩し、結果的に「処分」という処理をされなければ実は私たちの生活そのものがなりゆかなくなる。そのペットたちの「処分」にかかわる人たちは自らを「必要悪」であると自嘲的に言う。それを著者は「善」であるとしなければならないと当事者の方々に約束をしてこの記事を書いていった。安直な動物愛護精神では解決できない生と死の矛盾、それを解きほぐすことがどうして「善」ではないのか。私たちの多くはそうした矛盾からは視線をそらし、皮相的にペットたちの生と死をながめ、そらぞらしく「いのちの尊さ」について語る。著者はそのことを鋭く糾弾しているのである。
 さらに重要なことはペットの死にかかわる人々がその仕事を隠さざるを得ないほど社会の、すなわち私たちの差別の視線にさらされているということである。それは明らかに死にまつわる差別意識であると言える。職員たちはこの差別のまなざしをつよく感じながら、時に「必要悪」と自嘲しつつもっとも社会にとって重要な職務を遂行しているのである。また、記事の中に被差別部落出身の職員の方が登場する。それは何を意味しているのか。前近代的なケガレ意識は未だに社会的差別の根となっていることを意味してはいないか。そういうことも押し隠して私たちはペットを飼い、不要になると処...

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2010年4月4日

読書状況 読み終わった [2010年4月4日]
カテゴリ 人権

 もう一つ学童疎開の本で~す。著者はあの藤子不二雄A。モチロン漫画ですよ。藤子氏は柏原兵三の長編小説『長い道』を読み、その全く同じ疎開体験(同じ年齢で隣の村に疎開していたのだという)に触発されてこの漫画を描いたのだそうです。逸見氏は同じ集団疎開を体験した人が一人はそれを「よき試練」と語り、他の一人は「残酷な仕打ち」と語っていることをあげてこの問題の苦い解答にしているのね(『学童集団疎開史』二三四頁)。 
 『少年時代』も同じような課題性を持っていると言ってもいい。冒頭、主人公は三十四年ぶりにかつて疎開していた村の地を踏むのである。物語はそうした少年時代に対する懐古談として展開していくのである。こちらは集団疎開ではなく、縁故疎開であった。縁故疎開では子どもは一人きりで村の子どもたちの仲間に入っていかなければならないのだから、集団疎開とはまた別の人間関係がそこではつくられていく。この本で描かれるのは集団疎開が政策として子どもたちの戦場を作っていったのとはやや異なり、この時代の子どもの社会である。そこで主人公が体験するのは教室の中の権力争いであったり、残酷なまでのいじめであったり、疎開体験を持たないあたしには残酷な思い出にしか見えないのだが、著者のそれはある種の懐かしさをともなった体験として描かれているのである。たぶんその時代の空気が酷薄な人間関係をも「よき試練」として思い出にとどめさせているのだろう。
 そしてそんな人間関係の原点は村の階級性とでもいうものと教室という場が示す教育の問題である。逸見氏が虐待も教育の中に読み込まれてしまっていたことをあげていたが、藤子氏が図らずも描き出してしまったのはまさしく教育の枠組みが作り出したいじめと暴力の構図である。疎開という主人公にとっての一種の極限状況であるが故に浮き彫りにされる世界は現代の教室の構図にもあてはまるのかもしれない。
 そうそう、この本は映画化されているのでそっちも一度見てみるといい。主題歌は井上陽水の歌うあの「少年時代」なのだ。

★★★  こんなにおもしろそうなのになぜ★が三つかって? まず『学童集団疎開』を読んで史実を知ってから読んだほうがいいからだ。活字離れのご時世にちょいとケチをつけたくってね。

2010年4月4日

読書状況 読み終わった [2010年4月4日]
カテゴリ マンガ

 『ブラックジャック』というのは今は亡き手塚治虫氏の名作で、大金で神業の手術を請け負う無免許医が主人公の話であった。それなりに人間の命みたいなものがテーマであたいも好きな作品だから全部持ってる。だけどその破天荒な設定から、現実離れしたマンガの世界として奇想天外な話が展開する。
 ところでその名作をタイトルに盛り込んだ本書もやはり医学の世界に題材をとった作品なのだ。まあ、結構ヒットして昨年はテレビドラマ化されたから知っている人も多いと思う。実はあたいもこのドラマを見て、本を買う気になったのよ。けっこうミーハーなのかもね。
 本書はマンガっちうより劇画だね。主人公は斉藤英二郎という研修医だ。研修医というのは国家試験を受けて医師免許をとったあと指導医のもとで臨床研修を受けている医師をいう。医師免許は持っているものの実地経験はなく、初めて医療の現場を体験することになるのだ。もちろん医師なのだから医療行為に直接携わることになるし、病院にとっては貴重な労働力でもあるし、かなりハードな(研修という名の)労働を強いられるし、その対価の賃金もきわめて低い(本書中では三万八千円と示されている)。だからアルバイトをせざるを得ないし(これは高い!)、もっとも今年(二〇〇四年四月)からだいぶ改善されたとは聞いているけど(研修の義務化、適正な給与支給とアルバイト禁止など)。
 制度的なことはともかく、研修医として、またアルバイト医師として医療現場で主人公斉藤英二郎が初めて人間の生き死にと出会い、それに向き合う様々な医師の所為をまのあたりにして、葛藤する姿を描いたのがこの作品だ。題名の「ブラックジャック」が手塚の『ブラックジャック』のことであるが、それは医師の心を指し示している。手塚の『ブラックジャック』は無免許医という医師にあらざる医師が医師である医師の倫理を批判していくことで人間の命や生き方を問い詰めているのであるが、本作品はそうした手塚の『ブラックジャック』に描かれた医師の目指すべき心を追い求めるがゆえにぶつかってしまう現実の医療の矛盾を描こうとしているのだ。
 そう教育の現場でも言うではないか、「理想と現実はちがう」と。それですよ。
 「人間の命のたいせつさ」については誰でも言うし、「同和」教育でもキーワードになっているんじゃないかな。しかし、それはただ「命はたいせつです」とお題目を唱えているのにすぎない。人権作文には「命はたいせつでぇす」とかなんとか書きながらお友だちナイフを突きつけたり、シカトして死にたくなるまで追い詰めたりすることはよくあることでしょ。
 問題は生と死が具体的に自分の問題として体験していないことにあるんじゃないかな。手塚版『ブラックジャック』は言うならばフィクションの中の理念としての「いのちのたいせつさ」なんだろうね。そして、現実の医師はもっと割り切れない生と死の現場に出会うんじゃないかな。そして子どもたちも(教師たちも)ほんとうは現実の割り切れない生と死の問題に直面してみる必要があるんじゃないかな。まぁ、マンガの中でいいからさ。このマンガは研修医(まさに現実に人の生き死にと初めて出会う人間、つまりキミの分身さ)の眼を通してそういう現実と向き合わせてくれる。
 研修医の話だから、いろんな科を回って行くことで話は展開する。とりあえず、今刊行されているところまではどういうふうになっているかを見てみようか。
 第1巻 第一外科編   第2巻 循環器内科編
 第3巻 ベビーER編① 第4巻 ベビーER編②
 第5巻 がん医療編①  第6巻 がん医療編②
 第7巻 がん医療編③  第8巻 がん医療編④
 第9巻 精神科編①
 まずは、外科という派手な世界から話が始まる。第1巻、第2巻ですでにこの主人公は安直に医師であることにな...

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2010年4月4日

読書状況 読み終わった [2010年4月4日]
カテゴリ 人権

 「やっぱり、ラスベガスといえばカジノ。というわけで、ボクたちはビンゴの会場へと向かった。大画面いっぱいに映し出されるナンバーを確認するたびに、手に汗を握る。え、握る手がないって?まぁ、細かいことは……。」(本書二三八頁)
 あまりに売れている本だから、いまさら書評もなんだけど、この本が売れたってのはこんな具合に自分自身の障害と障害に対する差別を著者自身が相対化できているところなのね。書名の『五体不満足』だって型にはまった人権教育しかしてこなかった人には不愉快なタイトルかもしれない。アタシだって最初に見た時にはドキッとしたっけ。たしかに健常者中心につくられてきたこの社会では障害者のことはあまり配慮しない文化がまかり通ってきた。そんな社会をバリアフリーにしていくには社会が障害者の位置に寄り添っていくことも必要だけど、障害者が社会に参加していく道を開くことも必要なんだなってことを著者は言いたいみたい。
 著者の乙武クンは先天性四肢切断、つまり生まれつき手足がないという障害を抱えた人なんだけど、フツーの学校へ通ってチョットイイ高校に進んで、あの早稲田大学に入っちゃった。この本はそんな著者の「自伝」といっていいのだろうか、生まれてから二十年余のあいだに出会ったいろんな出来事を書き綴ったものだ。いまどきの若者らしい軽佻浮薄な文体で書かれているので読みやすい(意識的に軽いタッチで書いてるみたいだけど……アタシみたいに。)。これまでの障害者問題を扱ったものはけっこう深刻なトーンで書くのが多かったよね。その点でこれはすっごく意味のあることだと思う。
 ひょっとして乙武クンは障害者のチョーエリートかもしれない、と思ったらそれはまちがいなのね。エリートに障害者のエリートがいたり、健常者のエリートがいたりするわけではないから……。早稲田までいったのだから、とりあえず受験生のエリートではあったって見るべきなのかな。(アタシは落ちたけど)
 それは運もよかったし、彼自身の努力もあったでしょう。だけど乙武クンの努力は格別すごい努力だったわけではなく、フツーの受験生が早稲田に入ったのと同じ努力だったと〈本人が思っていること〉なのね。そして本書で彼が言いたいのもそのことなのだと思う。「(生き方には)関係ないのだ、障害なんて。」(あとがき)という言葉がそれを語っているんだな。
 それにしても乙武クンは運がイイ。彼の運のよさというのは両親、友人、教師……出会った人々に恵まれたことなんだと思う。っていうより、乙武クンはそうした出会いの数々を本書で紹介しようとしている。そのひとつひとつに学ぶことは多い。
 例えば小学校で出会った二人の教師、低学年と高学年のちがいはあるけど最初の高木先生は乙武クンを障害者として特別扱いしない教育を本人にもクラスの子どもたちにもしてきた。一方、五年生から担任になった岡先生は乙武クンにワープロを与え、乙武クンにしかできない仕事をさせた。どっちが正しかったかって問題じゃないよ。どっちも的確に子どもの個性を受けとめた教育だったんじゃないかな。
 そうやってひとつひとつのエピソードを拾っていくとバリアフリーっていったい何だ、って問題になっちゃう。バリアフリーっていうのは「障害者にやさしい」っていうだけじゃだめなのね。乙武クンの子どもの頃の友だちが遊ぶときに「オトちゃんルール」って特別ルールを作ったことが書いてあるけど、それは乙武クンを仲間に入れてあげるためではなくて、仲間の乙武クンと遊ぶためだったんだ。きっとそんな姿勢のとり方がバリアフリーの基本なんだろうね。それがわかっているから乙武クンはわざわざ『五体不満足』なんてタイトルにしたんでしょう。ミョーに言葉にこだわっている人のほうがバリアが堅いのカモ…。

★★★★障害者がフツーに生きるって、...

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2010年4月4日

読書状況 読み終わった [2010年4月4日]
カテゴリ 人権

 ウィンズを読んでいて著者の川向秀武氏を知らない人はいないはずだ。えっ、知らない?それはもぐりというものではないだろうか。ご承知のように川向氏は一九七七年に福岡教育大学に着任してから二十三年間福岡のそして九州の同和教育に尽力して来られた。福岡で同和教育にかかわった人間なら川向氏の同和教育に対する知見をまとめて読みたいという思いを持ったことがあるはずだ。なかったとは言わせない。そう思わなかったら福岡で何を頼りに同和教育をしていこうと言うのだろうか。そんな本を待ち焦がれていたあなたのために「ブックレット 菜の花6」として刊行されたのが本書だ。
 本書は川向氏が福岡に来てから今日に至るまでにあちこちに書いてきた文章をまとめたものだ。副題にもあるように部落史であり、同和教育であり、社会啓発であり、解放運動であり川向氏がいろんな場面で発言してきたことがこの一冊で手に取るようにわかる。そして川向氏自身の生き様とでも言うべきものがそれらの発言を綴る一本の糸となっているのだ。
 まず川向氏の志した学問が実は川向氏が出会ってきた教師たちへの「不信」と「憎悪」に端を発していること、そしてその「非教育学」への「こだわり」がエネルギーであることが衝撃的に示される。そして全部で11の川向発言が収録されている。とくに「4 人権思想の歴史を子どもに伝えるために」はそれじたいが史論であると同時に人権教育やその思想を伝えるべき歴史教育の形骸化への痛烈な批判を含んでいて僕は好きだ。「5 抑圧の文字から解放の文字へ」は識字運動についての発言であるがその前提として語られる識字の観点から叙述される教育史の素描は若き日に「小学簡易科論」といった重厚な教育史研究を積み上げていた川向さんの研究者としてのかがやきがにじみ出ていて僕は好きだ。「7 部落の子どもたちの『学力』の背景」は福岡、久留米の実態調査をふまえての分析であり、低学力の克服という課題を背負った人には必読の一節だろう。「8 これからの教育・啓発をどうするか」「9 『いつでもどこでも学べる場』の保障を」「同和問題の解決は、すべての人に」なんかは運動家としての川向さんが出ていて今同和教育にさし迫った課題を抱えた人は飛びつきたくなる内容だ。そして{10 おわりに―どんな出会いも大切に」は単なる「おわりに」ではない。川向さん自身の自分史を語りつつ人間というものについて深い洞察がなされている。この節は毎晩寝る前に必ず読み返している珠玉の一節で僕はいちばん好きだ。さてあなたは……

★★★★ 福岡の教師でこの本を読まないというのはひとつの犯罪かもしれない。

2010年4月4日

読書状況 読み終わった [2010年4月3日]
カテゴリ 人権

 西日本屈指!の人権教育誌『ウィンズ』にこんなふざけた題名の本を採り上げるとしたら、けちょんけちょんに罵倒してポイッしちゃうような書き方を期待されているんだろうね。
 しかし、あたいは敢えて★をいっぱいつけてやる。な~んでか。それはこの本が「人権論の再構成」を社会評論レヴェルで試みようとした(らしい)からでっす(宮崎哲弥「はじめに」8頁)。この本(新書だよ)を読んでいて、昨年の春に福岡県部落解放・人権研究所主催の横田耕一センセの講演を聴いたのを思い出したんだけど~。横田センセも人権という言葉は自明ではないし、国によっても理解はちがうし、これが人権だという定義も無いというようなことを言っていたんですよね、確か…。
 そういう言い方ってさ、人権は絶対的普遍的真理だって信じ込んでいる人には腹も立つことだろうけど、人権ってやっぱりひとつの価値観なんだって思ったほうがいいよね。もっと正確に言えば西洋近代の価値観であって、東洋的な人権やアジア的ないしはアフリカ的人権も人権のひとつの正しい見方としてあるんじゃないかなってこと。
 そんなこと思いながらこの本を読んでみるとけっこうおもしろいんだな。福岡にいると人権問題っていうと部落差別とか、民族差別とか、障害者差別というのがすぐに出てくるけど、この本のなかでは全然出てこない。あるとすれば「問題がないとはいえない。セクハラもあるだろう。在日韓国人・朝鮮人、同和の差別もあるだろう」(192頁)というところくらいなのね。つまり、こういう差別はあって問題だけど、その話はさておきっていうみたいに全然ちがう話をしているようなのね。で、何のことがいちばん書かれているかっていうと「加害者の人権と被害者の人権」のことにほとんどの執筆者が言及しているのよ。だからそっちがこの人たちの問題みたい。つまり、ここに書いている人たちの多くはいわゆる「人権派弁護士」を標的にしているみたいなのね。つまり、法律を盾に人権を語る人たちよね。
 例えばこの本の中で高山文彦っていう人が「実名報道こそが加害者の人権を認め更正を促す行為である」ちゅう文章を書いてるのね。彼は堺通り魔事件というのを取材して〈19歳と半年の少年〉だった犯人をあろうことか『新潮45』という雑誌に実名で書いちゃったちゅうことなのね。新潮社っていうのはみんな知っているように『フォーカス』やら『週刊新潮』やらいうのも出してて、人権に関してはいつも挑発的な出版社ね。だから、少年の実名をあげた文章をうれしそうに載せたんだと思う。
 高山って人は現行少年法に抵触することを承知で書いたワケなんだけど(おんなじことは永山則夫のときに『朝日新聞』だってやったよね)、彼の言い分はそのほうが少年(すぐ成人になったけど)の(高山的)「人権」の尊重だっていうワケ(詳しくは自分で読んでね)。それは一つの主義だとは思うけど、とりあえず彼は犯人から名誉毀損で告訴されたのね。そこまではよくあることとして、実はそこに弁護士が六十八人(民事は一〇人)もついたんだって。すごいよね。ところが、訴訟の結果得られた賠償金は被害者への賠償資金に充てるか、薬物乱用撲滅のNGOに寄付するとか弁護団が声明を出したというのだから、少し変だなって思わない?ぜんぜん筋違いだと思うの、あたしは。そういう経緯を示されるとこの訴訟って何だろう?って思うのよ。名誉毀損されて訴えてんだから、賠償金は黙ってもらえばいいじゃん。被害者への賠償とは別問題で、それはそれで示談でも裁判でもすればいいじゃん、ねぇ。別の裁判を起こして自分の支払うべき賠償金を肩代わりさせるってやっぱりこういう人たちってホントの「人権主義者」じゃないみたい。
 それでさ、一方で被害者の人たちはその町にいられなくなって引っ越していったりしてるらしいのよね。だからここで言...

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2010年4月3日

読書状況 読み終わった [2010年4月3日]
カテゴリ 人権
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