史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (河出文庫 や 33-2)

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ibucchanさん  未設定  読み終わった 

東洋哲学は「ゴール(真理)を目指す」のではなく、「ゴールした(真理に到達した)」ところからスタートする。よって、東洋哲学者の哲学を引き継いだ後世の人間たちは、西洋のように、その哲学を批判したり打ち砕くことに躍起になったりはしない。

認識するものを認識することはできない。

あらゆる不幸は勘違い。

私(アートマン)については「に非ず、に非ず」としか言えない。
それは捉えることが出来ない。なぜなら捉えようがないからである。
それは破壊することが出来ない。なぜなら破壊しようがないからである。
それは執着することが出来ない。なぜなら執着しようがないからである。
それは束縛されることもなく、動揺することもなく、害されることもない。

どんな雑念が浮かぼうと、それらはただの「認識の対象物」にすぎない。どんな認識の対象物が現れようと、純粋な観察者である自己には何の関わりもない。

私(アートマン)は概念ではない。認識の対象物とすらなりえない。私(アートマン)は存在しない。

「歩く」という現象1つとっても、とてつもなく大量で複雑な縁(間接的原因)の絡みによって成り立っており、単独で引き起こすことは決して出来ない。それと同様に、どのような物事や現象であろうとそれは単独で存在出来るものではなく、沢山の縁(間接的原因)の絡み合いによって起こり、浮かんでは消えていく実体のないものである。

物理法則は人間が経験的習慣から勝手に思い込んで信仰化しただけのものであり、本当にそのような法則があるかどうかなどわかったものではない(デイビット・ヒューム)。

我々が「存在している」と認識しているものはすべて、我々自身がそういうふうに存在するように区別しているからこそそのように存在しているのであり、決して「そのような実体が存在している」というわけではない。

人間がなんらかの価値基準(人それぞれの勝手な区切り方)に照らし合わせない限り、この世界に「長いもの」「短いもの」といったものが存在しえないのと同様、「汚いもの」「綺麗なもの」といったものも存在しえない。さらには、「自転車」も「鉄原子」も「銀河系」も同様に存在しえない。なぜなら、それらもなんらかの価値基準によって切り出されたものであり、「長いもの」「短いもの」といったものと同レベルの存在と言えるからである。

眼も、耳も、鼻も、舌も、身体も、意識も無い。それらが感知する色も、音も、匂いも、味も、感触も、意識の対象も無い。眼で見た世界から、意識で思われた世界まで、その全てが無い。

明確に切り分けられる「物事の境界」など世界のどこにもない。だが人間はその切り分けられないはずの世界を強引にサクッ、サクッ、と切り刻み、世界を「これ」と「これ以外」に分けてしまう。そして「これ」に「A」という名前をつけて「Aがある」などと語り始めるわけだが、当然その「A」という言葉が指し示す「これ」に実体があるわけではない。なぜなら、「これ」なるものは何もないところに無理やり境界線を引いて「これ」と「これ以外」に分けることによって生じたものにすぎないからである。

つまるところ、いっさいの言葉は「世界にあるモノ(実体)」を指し示しているのではなく、何らかの価値基準に従って世界に引いた境界線を指し示しているのである。よって、言葉とは「区別(境界線)そのもの」だと言ってよい。これを分別智という。人間のあらゆる知的活動は分別智である。

人間には分別智以外にも無分別智という理解の仕方がある。無分別智とは物事を直感で理解することである。釈迦が悟った「真理」とはこの「無分別智(智慧)」でしか理解することが出来ないものである。

仏教とは釈迦の哲学を知識として伝えるための教団ではない。仏教とは釈迦、そして古代インドの哲人たちが到達した「あの境地」を人々に体験させようとその方法を何千年も研鑽し続けた学徒の集団である。
もし釈迦が到達した「真理」を知りたければ、釈迦と同じ「ああ、そういうことか!」という強烈な体験、悟りの体験をすることが前提となる。東洋ではリアルな体験としての「理解」を味わって初めて「知った」と言えるのである。

ある特定の物質なり概念自体に固有の価値があるのではなく、個人個人の「思い込み」によって「そのような価値」が作り出されているに過ぎない。

釈迦はあらゆる先入観をなくし、自分の欲望に善悪の評価をすることを止め、浮かび上がる思考をただ「無い、無い」と否定し、自分の中で起きていることをしっかりと見続けた。そしてついに思考が途切れ、分別が消え去ったその瞬間に「智慧」が現れた。

人間が勝手に分別して名前をつけない限り、この世界は「すべてが混じりあった混沌としたドロドロの海」としてあり、その意味において「万物」は存在していない。「万物(リンゴや机、ハンマーなど私達が普段存在していると言っているモノ)」が存在するのは人間が「名前をつけた」からであり、そのように分別して名付けたからこそそのような形で「(私達にとって)存在する」のである。

何の価値観も持たずに無欲になれば万物が存在する前の混沌とした世界を見ることが出来る。何らかの価値観を持ち込んで有欲になり分別を始めれば、万物の境界線がはっきりとした世界を見ることが出来る。だが、その世界は両方とも同じ世界である。

私達の身体的な動作をよくよく観察してみれば、「細かいことは何も決めていないにも関わらず、いつの間にか筋肉が勝手に収縮して指が動いており、私自身はその一連の行動にまったく関わっていない」ということに気づくはずである。これはすなわち日常的に「私が自分でやっている」と思い込んでいる行為でも、実は身体が自動的に勝手にやっているのであって「私」はそれをただ「見ているだけ」に過ぎないということである。

身体を動かしたり思考したりするのはそれぞれの専門家(身体や脳)に任せた方が断然うまくいく。仮にうまくいかないにしても、少なくとも本来持っている能力を最大限に発揮した行いが出来るはずである。「私」は行動や思考の複雑なカラクリを理解していない素人であるのだから、事は専門家に任せ邪魔にならないよう静かに見守っているのが吉である。

東洋は論理や知識というものをそれほど有効だとは信じていない。なぜなら、東洋にとって「真理」とは「ああ、そうかわかったぞ!」という体験として得られるものであり、体験とは言葉では表せられないものであるからだ。そのため「思考を磨き続ければいつか真理に到達出来る。言語の構造物で真理を表現出来る」といった幻想を東洋哲学は最初から持っていないのである。

東洋哲学は「とにかく釈迦と同じ体験をすること」を目的とし、「その体験が起こせるなら理屈や根拠なんかどうだっていい!ウソだろうと何だろうと使ってやる!」という気概でやってきた。なぜなら彼らは「不可能を可能にする(伝達できないものを伝達する)」という絶望的な戦いに挑んでいるからだ。そういう「気概」でもなければ、とてもじゃないがやってられない。

突然宇宙から巨大な隕石が落ちてくることがわかった。それは地球よりも大きく、あまりに巨大で人類の叡智を持ってしても避けようもないことが明らかとなった。その隕石は地球に近づくにつれ気温を上昇させ、すでに地上は灼熱地獄と化している。そんな苦痛の中では、ニーチェもカントも全て吹き飛ぶ。どれほど学問を積み重ね、深淵な哲学を脳内に蓄えていようとその生き地獄の瞬間においては何の役にも立たない。そのような瞬間でも、「今起きていること」を受け入れ、その瞬間瞬間を「真っ直ぐに生き抜いていく」にはどうすればよいか。きっとその時には「念仏」−暴れる思考を静め、他力に委ねて今を生きる親鸞の哲学−しかないのではないか。

慧可は達磨に対して自らの覚悟と決意を言葉ではない方法(自らの腕を切り落とし、達磨に向かって投げつける)で示してみせた。それによって、達磨への弟子入りを果たすのである。

不安とは脳が出しているただの信号、物理的な作用によって排出された化学物質の刺激情報に過ぎない。

そもそも思考とは肉体が持っている機能の1つに過ぎない。だが、たいてい私たちはその機能をとても重要視し、それどころかそれこそが「私」なのだと「同化」してしまうのである。

私たちはどうしても思考(言葉、論理、理屈)でどんな物事でも表現可能であり、理解可能であると思い込んでしまう。「分別を停止して無分別智の境地に達した状態が『仏』なのですね」「思考ではなく体験することでしか『悟り』には到達できないのですね」と言葉で表現して思考の一部とし、一度も体験したことのない「それ」を「わかったつもり」になるというあり得ない愚を犯してしまうのである。

禅は「問題」に対して論理的な思索をもって関わらない。禅は「問題」を破壊し、革命し、飛び越える。禅とは「問題を分析し解き明かす」のではなく、「問題から飛躍し『答え』を直接体験する」ことを目指して洗練されてきた哲学体系なのである。

レビュー投稿日
2019年8月7日
読了日
2019年8月7日
本棚登録日
2019年8月7日
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