「ところが、社会学による行為の理解的解釈から見れば、右のような集団は、諸個人の営む特殊な行為の過程および関連にほかならない。なぜなら、私達にとっては、諸個人だけが意味のある方向を含む行為の理解可能な主体であるから」 ー 23ページ
『プロ倫』を書いた人なので当然といえば当然なのかもしれないが、ウェーバーの着眼はあくまでも個人にあることを再確認した次第。よく比較されるデュルケームは個人というよりは環境とか社会組織のほうにより着目している印象があるけれども、どちらが正しいというよりも、理解するべき事柄によってどちらを強調するべきかは変わるのだろう。
というかプロテスタントって個人主義的なイメージが強いし、実際慣習や思想体系にも個人主義色の強さがにじみ出ているってよく強調されているけれど、そういった認識の強化に『プロ倫』が貢献したところは少なからずあると思うのだけどどうなんだろう。プロテスタントは現在ではあまりにも分化しすぎていて一般的な特徴を挙げるということがとてもじゃないけど困難になってきている昨今、くしくもウェーバーの挙げた「理念型」という概念とともに、プロテスタントの一般的イメージも保存されているような気がしてならない。
いやウェーバーほとんど真面目に読んでないしプロテスタントに関しても詳しくないのでマジで小並感なんですけどね!(言い訳)
読書状況:読み終わった
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- 感想投稿日 : 2013年6月14日
- 読了日 : 2013年6月14日
- 本棚登録日 : 2013年5月20日
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