尾張春風伝 上

著者 :
  • 幻冬舎 (1997年11月1日発売)
3.45
  • (1)
  • (4)
  • (5)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 26
感想 : 6
3

徳川御三家筆頭、知行六十二万石尾張徳川家第三代藩主綱誠(つなのぶ)の第二十男、江戸中期生まれの松平通春、後に徳川宗春の物語。二十男とは言うものの、当時は乳幼児の死亡率が非常に高かったので、幕府の正史では第七子とされている。通春は尾張の殿様の子ではあるが、一番下のほうのみそっかすの子であり、いずれは藩主の可能性というようなことはほとんど有り得なかった。いわゆる一生部屋住みの身である。もし運がよければ、どこかの小藩の養子にもらわれて、小大名になることがあるかもしれない、というぐらいが関の山のようなものであった。

しかし、通春が巻き起こした風が、江戸時代の尾張藩の性格を決め、尾張人の性格を決定したとまで言える。御三家筆頭たる名家を守り抜くことだけを願っている、お家大事の家老達を嫌い、そのような徳川本家ばかりを上目遣いする境遇に育ったこともあるからか、人に対しても、自分に対しても自由というものを認めたかった。そんな通春が十八になるとき、江戸に長旅に出ることとなった。

江戸では、荻生徂徠の興した、けん園学という学問に出会い、勉強している。けん園学は、”君子は聖人でなければならぬ”とするような古い朱子学とは対立し、”人間の欲望を認めた上で、天下万民に平和な世はどうすれば実現できるか”を求める学問であり、通春の思想に大いに影響を与えた。また通春は物事を悲観的に感じない。人は人と関わって生きている。自分のことを心にかけてくれている人の人数は、自分が思っているより多いかもしれない。物事をあまり寂しく考えてはいけない。この世に生きているということは、それだけで面白いことなのだからと、通春は思うのである。

また、通春の兄で尾張藩当主の吉通から、尾張藩の当主に代々、言い伝えられていることを教わった。それは、水戸光圀に尊王の思想を教授したのが、尾張藩の藩祖義直公であるということと関係がある。御三家は将軍の家来ではなく、朝廷より官位を頂く、朝廷の家来であるということだ。したがって、いったん朝廷に事があれば、朝廷に従って、官軍になるべし。一門なりとて公方に属して逆賊となるべからず、ということだった。驚くべき尊王宣言である。尾張家とは、もともとそういう思想を持った藩なのである。ただし、前期の藩主たちがそうだっただけで、後期の藩主はそうではなかった。また、家老以下の重臣達は必ずしもこの思想に同意していたわけではないので、尾張藩の行動はそうきっぱりしたものではない。でも、とりあえず、前期の藩主たちにはこの考え方が伝えられてきたのある。

そんな十八歳の通春に初恋が訪れる。しかも、相手が今は亡き前将軍家宣の側室の一人、未だ二一歳で未亡人となった寂香院であったが、胸の病で亡くなってしまった。通春は、初恋の刺激が大きすぎたせいか、寂香院への想いを断ち切れず、生涯妻は娶らないと誓い、女は楽しく遊ぶだけだという考えが、女性関係の基本となっていったのだった。

通春は吉原を愛した。遊郭とは良きものという考えを一生持ち続けた。ひとつに、吉原には自由と平等がある。侍だろうが、町人だろうが、豪商だろうが、その中では同格であり、金と才覚だけで計られるのだ。金は余りなくても、男気と伊達ぶりでもモテるのである。その風通しのよさが、通春の性格と考え方にピッタリだった。そして、もう一つは、吉原が派手なことである。無数の提灯の不夜城であり、豪華絢爛の花魁道中で、この世とも思えぬ贅沢な祭りで、それが一年中続いているのである。自由と派手がそこにはあった。また、吉原は目立ちたがりの洒落っ気のあるかぶき者が集まり、新趣向で人目を惹こうとした。新しいものとは古いものを捨てて変革するものである。過去の常識を軽蔑し、進んで未来を受け入れることであると通春は思っており、そういう男にとって、吉原は天国そのものであった。後年、通春は名古屋で自らの思想に基づく治世を行ったとき、名古屋に遊郭を作っているほどだ。そこには通春なりのちゃんとした考えがあった。『総じて人と言うものは、老いも若きも、気にしまりとゆるみがなくては、万事勤まりがたく、中にも好色は本心の真実より出るゆえ、飯食うと同じことなり。それゆえ、その場所なければ男女のしまりなし。この度、方々に見物所遊興所免許せしめたるは、諸人の気鬱を散じ、相応の楽しみも出来、心も勇み、悪くかたまる心も解け、田舎風の士気も放たれ、万事融通のためなり』と。

そのようなことで、通春は、尾張藩のことなんか糞くらえで、したい放題に生きていたが、尾張藩そのものが、紀伊藩との将軍争奪戦に知らず知らずのうちに巻き込まれ、そして破れ、紀伊藩の徳川吉宗が第八代将軍になってしまったのである。徳川将軍は十五代まで続いた。そのうちの八代なので、ちょうど中間期にあたる。一般的には吉宗は徳川中興の祖と言われ、吉宗が出現しなかったら、徳川幕府はもっと早く崩壊しただろうと言われている。開幕以来百十年ばかり経ち、少々ダレてきていたのである。吉宗は御三家の一つから抜擢されて思いがけなく権力者となったのであれば、従来の将軍にはない斬新な改革を持ち込むのが普通である。ところが吉宗は逆で、守旧派であった。すべてを権現様の御世の通りに、というのが吉宗の方針であった。今の世は贅沢になりすぎている。家康公の時代はこうではなかった。そこで、贅沢を廃し、諸事倹約で行こうということになったのだ。また、吉宗は農業改革を行った。年貢米を取れ高に応じて取る方式から、常に耕作地の一定の率で取る方式に変えた。これは不作の時は農民はつらいが、豊作だと取り分が増えるので、農民にやる気が出たのだ。

大きなことを考える人間は、ゆっくり考えるものだ。事に対して反応が鋭すぎる人間は考えることも小さい。通春は、興奮するのであれば、大興奮すべきであろうと思うのだ。日々の出来事にいちいち反応しているのでは、いかにも小さい。ゆるゆると考え、騒ぐべき時が来たとなれば、天下がひっくり返るほどの大騒ぎをしなければならないと思っている。それが祭りである。人生にも祭りがなければ面白くない。その祭りを盛大にやるためには、日ごろから大きく思考する人間でなければならない。

そんな通春も数多くいる兄の度重なる死により、上には尾張藩主の兄一人になってしまい、梁川三万石の藩主となる。小国と言えども藩主である。そこで通春は領地を治める上での基本の心構えをまとめた。当時、自分の政治哲学をまとめて一冊の本にし、その方針に沿って政治をしようと考える大名など通春の他にはまずいない。梁川を極楽にしてみたいということだった。

通春の政治哲学の根本となる2文字がある。一つは”慈”だ。民を慈しむ心がなければ、それは冷たい国となる。民に生きていることを喜ばせずしてなんの施政者だということである。もう一つは”忍”だ。これは民が忍ぶということではない。通春が忍ぶのだ。慈を持って民に楽しみを与えると、民は喜んで正直によく働くというものではない。通春が民を慈しんで悦びを与えれば、おそらく民は快楽を求めて暴走し、働くこともおろそかになり、なまけものになるだろう。それを通春がどこまで忍べるかが、度量と言うことになる。忍びつつ、幸せになりたいという民の意欲を前向きなものに導いていく。我欲を束ねて国の欲に育てていく。そこが重要なのだ。民の欲望を認めつつ、それを導いて健全な国を作っていくのだから、よほどの”忍”が必要だ。通春が書き進めているものは、後に『温知政要』という書物になる。

突然、健康だった兄継友がはしかにかかって急死し、なんと通春が尾張藩主になってしまうのである。御三家筆頭尾張六十二万石の当主なのだ。通春は尾張藩主になった際に、将軍吉宗から一字を賜り、宗春と名を変え、苗字も分家の松平から徳川に代わり、徳川宗春が誕生した。尾張藩主となってからも、”慈忍”の精神で国を治めるつもりである。ただ、そこには大きな問題があった。将軍吉宗の倹約令と真っ向から対立する政治思想であり、革命思想であったからだ。宗春は吉宗に言う。『無駄な出費を抑え、浪費をつつしみ、一国の経済を健全に運営することこそ民の幸せにつながる。無節操な奢侈は一時民をよろこばせても、そのツケによって人々を苦しめることになる。さりながら、倹約ばかりに目をむけ、世に潤いのないのもまた寂しきこと。欲を抑え、切り詰める生活の中に、憩いとしての楽しみ、喜びもなければ、生きている価値がそこなわれる。私は民が生き生きと喜び、楽しむ治世をしてみたいと望んでいる』と。温知政要は印刷され、尾張藩士達に配られた。その第1条には慈と忍の文字にこめたものについて語る。慈と忍の2文字を掛け軸にこしらえ、慈の上には日の丸を描かせた。慈というものは心の中にだけ隠れてあるのでは意味がない。外へ現れ、末々へと及び、隅々まで照らしたいと考え、太陽の画とした。忍の字の上には月の丸を描かせた。堪忍は心の中にあって、外へは現れないものだから、月の形を現したのである。

しかし、遂に将軍吉宗も温知政要が京でも出版されることになり、これを看過できなくなった。出版禁止が言い渡されたのである。これは宗春にとっても意外なことであった。というのも、将軍は度量の大きい人物であり、目安箱を設置したほどの人なので、これぐらいの書物の差し止めなど、みみっちいことなど言わないだろうと思っていた。宗春の思っていたほど、将軍は人物ではなかったということだ。書は禁止されたが、そんなことで自説を曲げるような宗春ではない。結局、この時から表立って、吉宗と宗春は対立を深めていくこととなった。彩のない政治と華のある政治との、どちらが優れているかの競争である。最悪の場合、宗春は尾張藩をつぶすぐらいの覚悟をもって望まなければならない。それが出来ないのなら、端からこの勝負は負けである。倹約、倹約と将軍は言うが、聖人賢者の好む倹約とは、上に立つ者が、下の者をむさぼらず、身を慎むことであり、そうであればこそ万民が心安らかに暮らせるのである。つまり、下を苦しめず、むしろこれを守るために上の者が慎むのが倹約ということである。たとえば国に米穀が乏しければ、いったん困窮ある時に民を救うことができない。だからこそ聖人賢者は倹約を政治の根本にするのである。いま、天下の大名や小名は表向き倹約を口にしているが、やっていることは、上の者の財政を助けるために下の者に押し付ける倹約である、と。

しかし、宗春の政策も破綻しかけてきた。ふと気づけば、尾張の領民も、藩士も、そして藩自体も借金だらけであった。また、将軍吉宗の享保の改革も、うまくいっていない。米の値は上がる一方、新田開発が進まない、インフレ状態であった。吉宗と真っ向から対立した宗春のやり方も、一時的には繁栄をもたらしたが、結果的には借金の泥沼だ。一方はすべてを昔に戻せ(商人の好きにさせるな)と言うやり方で時代に合わず、もう一方は、時代的に先走りすぎて失敗している。

その後、宗春は嫡男の死、次に生まれた男の子も亡くなり、失意のどん底にいた。結局、宗春は自分の意志を継いでくれる跡継ぎを失ったからか、改革の意欲がうせたのか、芝居の禁止令や遊郭の廃止を告げる。領民や藩士達の馬鹿さかげんさに嫌気がさしたのか。そうだとしたら、それも最初の見通しがお殿様的に甘かったと言うことになろう。思いつきで色々とはじめてみるが、上手くいかなくなるとポイと投げ出すような。そういうのも事実の一面としてはあったであろう。自分のやりかけたことを、安易にひっくり返していくのは、信念の弱さ、判断の甘さを批判されてもしょうがない。少なくとも、将軍吉宗は、ちっともうまくいかない改革にくらいつき、投げ出さずに粘り抜いてやっている。その執拗さが宗春にはなかった。というか、将軍は嫌でも放り投げるわけにはいかないのだ。宗春が尾張の藩主であったのは、八年と二カ月だ。名古屋が日本の中で唯一浮かれていたのは十年に満たない期間だった。宗春は尾張の老臣たちに背かれ、いわばクーデターのようなことを起こされ、藩主を追われ、隠居謹慎させられた。謹慎とは、屋敷を出ることも、人と会うことも自由に出来ないということだ。

宗春のお墓であるが、見た人がぎょっとするような特別なことが為されていた。大きな墓石にすっぽりと金網がかけられていたのである。その人が幕府にとっての罪人であると言うことを示すためであった。尾張藩が幕府に対してそこまで遠慮したのだ。また、太平洋戦争後、理由あって宗春の墓が一度掘り起こされるのだが、棺の中には守り刀が通常は収められているが、刀ではなく木刀であった。しかし、そのお墓は、平和公園と言うどこを見てもお墓ばかりの静かな公園にあり、その墓標のすぐ横や前には、なんでもない一般市民の墓があるのだ。そういう町の人々の墓の中に宗春の墓は混じっているのだ。民と共に世を楽しむ、という宗春の生き様がそこにあらわれているように感じるのだ。

全2巻

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 日本史
感想投稿日 : 2013年10月27日
読了日 : 2013年10月27日
本棚登録日 : 2013年10月27日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする