悪魔の手毬唄 (角川文庫)

著者 :
  • 角川書店(角川グループパブリッシング) (1971年7月14日発売)
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感想 : 168
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『ひとり横溝正史フェア』、つづいては「悪魔の手毬唄」。
こちらも有名な作品。

金田一耕助は、鬼首村の外れの湯治場である亀の湯に磯川警部の紹介で逗留し、鬼首村のことを知って行く。
村の勢力は由良家と仁礼家に大きく二分されており、かつては庄屋筋であった多々羅家は勢いを失ってしまっている。
そんな村では戦前に農村の不況につけ込む詐欺が起きた。しかもその詐欺を働いた男、恩田は、詐欺を暴こうとする亀の湯の女将の夫を殴り殺して消えた。
そして今、鬼首村に恩田の娘である人気歌手大空ゆかりが帰ってくる。
すべての役者が揃い、鬼首村に再び惨劇の幕が切って落とされる。

この作品でも横溝正史がよく扱う、閉鎖された村での貧富の差や差別といったものが描かれている。
差別に関しては、現代のわたしには想像も出来ないほどの凄まじさが戦前戦後にはあったのだろうと思う。それも閉鎖された環境であれば、そこから脱け出すことも叶わず、人間らしい扱いをされないまま生きるしかないのだろう。その辛さや絶望、恨みや妬みなどは想像することも難しい。

村に伝わる手毬唄になぞらえた見立て殺人がつづいて起きる。
「獄門島」でも見立て殺人が起きていたが、こういったものやトリックは推理作品らしい派手さがある。
ただ殺すだけでは足りず、死体を使って自分の思いを表そうとするというのは顕示欲の強い異常な心理だとは思うけれど、そこまで犯人を追い込むような何かがあったことが哀しい。

この作品も映像化されており、口に漏斗を咥えさせられ枡から落ちる水を飲まされている死体など横溝正史らしい残酷シーンが満載だったような記憶がある。
映像にすることを考えて書いた作品ではないだろうけれど、視覚への衝撃が強烈な作品が多いため映像化したときの効果は大きかった。

この作品は金田一耕助に近い人物が書いている形で語られているのだが、誰がどのような気持ちで書いていたのかが最後の一行でわかる。
その一行を読むと何とも切なさを感じる。

横溝正史のラストは、金田一耕助の好みで犯人を見逃すといったものと、犯人には罰が下るものと大きく分けてふたつあるが、この作品では後の方の形で終わる。
わたしはこういった終わり方の方が好みなので、切なさは残るものの良い終わり方と言える。
やはりどんな理由があっても、ひとの命を奪っておいて何もなしは頂けない。
罪は償わなければならないと思うのだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2016年4月6日
読了日 : 2016年3月20日
本棚登録日 : 2016年2月9日

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