<とある時代のとある場所で、フクロウたちが、高度な文化をはぐくんでいた>
ガフールの神木の王コーリンと、各種の技能に長けた”特別チーム”である8羽のフクロウたちのもとに知らされたのは、「この世の果てだと思われていた海の向こうに別の世界があり、まったく別の生活をしているフクロウたちがいる」ということだった。
コーリンたちは、海の上の特別な乱気流に乗ってその<中の国>に向かうことにする。
その頃ソーレンの末娘のベルは、乱気流に巻き込まれて遠い地に飛ばされていた。ベルを助けたのは長い羽を持ち飛ぶのが下手な青いフクロウの通称ストリーガだった。このストリーガこそが<中の国>から逃げ出してきたフクロウだったのだ。ストリーガたち青フクロウは、本当は悪の魔術を使える黒フクロウなのだが、数百年前の僧侶により、華美で虚栄に彩られた生活を送ることによりその魔術を封じられていた。
ストリーガは、そんな見栄えだけ飾るが鳥なのに飛ぶこともできずに生きる意味もない日々が嫌になり、自分で自分を律する善のフクロウになろうと思って脱走したのだった。

しかしベルとストリーガは、最近また勢力を拡大してきた純血団に誘拐されてしまう。
そして<中の国>の存在を知った棟梁のナイラは、部下たちを連れて乱気流に乗って<中の国>を目指すのだった。

コーリンやソーレンたちは荒れる気流にのりなんとか<中の国>にたどり着いていた。
そこのフクロウたちは奇妙な暮らしをしていた。
宮殿に住む青フクロウたちは虚栄と華美な生活のため飛ぶことさえできない。
風を調べるフクロウ、僧侶フクロウ、そして気功を使って戦うフクロウたち。
彼らは500年も生きて、コーリンたちが読んだ伝説の書に登場したフクロウたちとの繋がりがあった。
コーリンやソーレンたちは、この贅沢な暮らしをしている青フクロウこそが、悪の魔術を使う黒フクロウなのではないかと疑う。
そしてそんな<中の国>に、ナイラたち純血団も降り立とうとしていたのだった。

===
この小説では、魔術や催眠術はよく出てきましたが、ついに500年生きる種族のフクロウまで出てきた!
この別の国のフクロウたちは、武器を捨てた代わりに戦わない代わりに呼吸法による気功で相手を倒す術なんてのも。

しかしこの海の向こうの秘密の国の存在は何百年間も隠されていたのに、一度コーリンたちがたどり着いたら他のフクロウたちも別ルートから次々降り立ち…、あれ、案外簡単に行けるじゃないか。^^; 

2021年5月8日

読書状況 読み終わった [2021年5月8日]

<とある時代のとある場所で、フクロウたちが、高度な文化をはぐくんでいた>
12巻からはまたコーリン、ソーレンたちの現在の時代のお話。
いきなりカブールの神木の王になった若きコーリン(メンフクロウ)には悩みがあった。
一つは自分自身のことだった。”いにしえの書”に書かれていた、悪い魔術は現代にも伝わっているのではないか?そして自分の母ナイラは実は悪い魔術を使う黒フクロウなのではないか?それなら息子である自分もそうなのか?
もう一つはカブールの神木のこれからだった。コーリンは、フクロウたちは正しく理性的な行いにより行動するべきだと思っていた。魔術や魔法に囚われてはいけない。だがカブールの神木のフクロウたちは、コーリンが持ち帰った伝説の<燃える石>の魔術に心を囚われそうになっている。

叔父のソーレンは、そんなコーリンをみて、しばらくの間カブールの神木を離れて世界を見にゆこうと誘う。
こうしてソーレンと心が通じ合う仲間たちである、飛行術に長けるジルフィー(サボテンフクロウ)、戦士のトワイライト(カラフトフクロウ)、深い思考を持つディガー(アナホリフクロウ)たちは、世界を見る旅にでかけた。

だが留守番となった勉強家のオツリッサ(ニシアメリカフクロウ)や鍛冶職人のブボ(アメリカワシミミズク)は戸惑った。
出発前にコーリンが「魔術に囚われるな、<燃える石>に頼りすぎるな」といっていたというのに、残ったフクロウたちは、<燃える石>を神格化し、意味のない大袈裟な儀式を次々作り出し、そのためフクロウたちの序列や争いまで起きていたのだ。

===
話が現在に戻ってきました。
今回は神木に遺されたフクロウたちが、偶像崇拝にのめり込み、序列や罰則ができてしまう様子が書かれていますが、なにかの団体がおかしくなるってこんな感じなのでしょうね。
最初に主人公でまだヒナだったソーレンは結婚して三羽のヒナ持ちとなってるし、オツリッサは相変わらずガリ勉しながらも一度会った格好いい雄フクロウを思い出しては胸をときめかせたり、やっぱりフクロウが主人公なので成長が早いですね。

2021年5月7日

読書状況 読み終わった [2021年5月7日]

ラテンアメリカ諸国の短編集。題名は怪談集になっているけれど、怖いといよりも奇妙な感じで、奇譚集という感じ。
巻末の編者あとがきでは、鼓直さんによる収録の作者たちの「冥界の座談会」となっている。
作家たちは「死者の我々ほどラテンアメリカ怪談を語るのにふさわしい者はいないでしょう」と快く、ラテンアメリカの怪談(幻想文学)について語ってくれている(笑)。
ルゴネスが始まりとなりラ・プラタ河地域の幻想文学が始まり、ボルヘスに継がれ、ボルヘスを取り巻き広がっていった。
キューバのカルペンティエル(この短編には収録されていないが)が亡命中にシュルレアリストと親交を結び、シュールレアリスムの「驚異的なもの」とは、自分たちの大陸には自然や生活のなかに普通にあるよってことで「驚異的現実」⇒「魔術的リアリズム」となっていった(カルペンティエル「この世の王国」の序文にも書かれていますね)話。
宗教や神話や伝説や習俗が色濃く出るアストゥリアス、東洋哲学・宗教をもとに宇宙と生のあり方を巡るオクタビオ・パス、彼らを源流としてラテンアメリカ文学の精神と手法が各地に広がっていた。…という幻の座談会。


【火の雨 レオポルド・ルゴネス(アルゼンチン)】
ゴモラの亡者を呼び寄せる。ー汝らの天を鐵の如くに為し汝らの地を銅の如くに為さんー レビ記二六・一九
ある日突然火の雨が降ってきた街。人々は逃げ、街は滅び、動物たちは水を求める。一人生き残った語り手も…

【彼方で オラシオ・キローガ(ウルグアイ)】
交際を反対された若い恋人は共に毒を飲んだ。魂だけになりこの世に留まった彼らは夜ごとの逢瀬に幸せを感じる。だが肉体を失った愛の行く先は、もう一度死ぬことだけだった。
==
キローガの書く生命は手から抜けてゆく感じがする。作者自身の周りには本人を含めて不幸な死や自殺者が多いせいだろうか。

【円環の廃墟 ホルヘ・ルイス・ボルヘス(アルゼンチン)】
夢によって一人の人間を生み出した男が、自分も夢によって生み出されたのだと悟る話。
夢はボルヘスのお気に入りのテーマの一つ。
<安らぎと、屈辱と、恐怖とを感じながら彼は、己もまた幻にすぎないと、他者がそれを夢見ているのだと悟った。P50>

【リダ・サルの鏡 ミゲル・アルトゥリアス(グアテマラ)】
リダ・サルが行った愛しい男への恋のおまじない。その完成のためには鏡に全身を写す必要があり…

【ポルフィリア・ベルナルの日記 ビクトリア・オカンポ(アルゼンチン)】
アントニア・フィールディングは、ベルナル夫人に娘のポルフィリアの家庭教師に雇われる。
だがポルフィリアから渡された日記には、これから起こることが正しく書かれていた。
==すみません、よくわかりませんでした。(-_-;)
語り手が、アントニア・フィールディングと、ポルフィリアと二人いるんだけど、どっちも信用できない語り手ってやつ?二人とも凶悪だったのか二人共思い込みが激しかっただけなのか(-_-;)

【吸血鬼 ムヒカ=ライネス(アルゼンチン)】
国王の親族でもあるザッポ十五世フォン・フォルブス老男爵に残されたのは、老朽化した屋敷と城だけだった。ザッポ男爵はその外見から吸血鬼と呼ばれていた。彼は本当に皆が思う吸血鬼そのものだったのだ。
映画会社がそんなザッポ男爵の城と屋敷と彼自身に目をつける。そしてザッポ男爵を主人公にした吸血鬼映画の撮影が始まった。しばらくすると出演者や関係者の首筋に傷ができ、だんだん無気力になっていった。
明敏なる読者なら、ザッポ男爵が本当に吸血鬼そのものだってお気づきになったことだろう。
==ちょっと面白い(笑)。本物の吸血鬼に吸血鬼役を奪いあう役者(ルーポ・ベルーシという役者なんだが、ベラ・ルゴ...

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2021年5月5日

読書状況 読み終わった [2021年5月5日]
カテゴリ 南米短編

生物学の美しさ、識ることの楽しさを伝えたいという科学エッセイ。
副題が「感動する生物のはなし」だけれど、科学とは物理学、科学、生物学、地学などが絡まり合ってできている。
かつてはダ・ヴィンチのような「万能の天才」がいたが、現在のように科学の範囲が広がっては一人ですべてを網羅することはもう不可能だ。でも視野を広げ、その知識で人生が楽しくなれば、識る価値はあるだろう。

地球の生命とは何かという定義には、「外科医と膜で仕切られている」「代謝を行う」「自分の複製を作る」としている。
しかしこの生命の定義も時代によりそれぞれだった。
レオナルド・ダ・ヴィンチのころは、「地球は生物」という考えがあった。生物の血液と骨が、地球の水と岩石など。
この考えって、昔の人達が神話や民話で太陽や海が生きていて、意思があったりたまに揉め事起こしたりもする、ということとで出ているのかなと思った。

SFなどで「人類が人工知能に滅ぼされる」というものがあり、シンギュラリティ(「いままでのルールが使えなくなる」という意味。この場合は人工知能が、自分たちで優れた人工知能を生み出すというその時)と呼ばれている。
生命は複製を作るが、全く同じではなく少しずつ変わってゆく。すると生命の歴史においての自然選択や淘汰とはまさに「シンギュラリティ」であったともいえる。
地球環境にあった進化を遂げて、ついていけないものがいなくなるのは残酷ではあるが、そうして変わってきたからこそ40億年ものあいだ生命が存続したとも言える。

科学者たちが唱えてきた「進化」は、生物の優劣をつけるものではない。その種族がそこに住むための特長が世代を超えて伝わる変化したのであり、それを考えると人類の体は陸上生活にはそれほど適していない。

生命が続くのに必要なのは「多様性」だ。一つのウィルスにみんなが弱ければ全滅してしまうから、いろんな耐久を持った存在があったほうが生き残れる。
しかし人類は、地球生物始まって唯一の直立二足歩行の生物で、現在の人類は一種類しかいなくなっている。
人類がなぜ直立二足歩行になったか、というと、理由の中の一つに手が自由に使えて、餌を持って帰れるということもあるだろう。
それが家族を養うという生活様式に繋がった。
さらに他の動物達が戦いで使う牙を退化させた。それを考えると人類の現在の姿は平和的な変化であるはずだという。

2021年5月4日

読書状況 読み終わった [2021年5月4日]

「ともだちって」「ひとりでは」という項目に、いくつかの一言が書かれている。
ともだちって?という問いに、読んだ人たちが「自分にはこうだな」と考えたり、「こんなことがあったら友達はどんな気持ちになるかな」と考えて人が嫌がることはしないようにしようって考えを進めていったり。
最初は身近な子どもたちの友達の例ですが、最後は飢餓の国の子どもたちのことも「あったことがなくても」その子のことを考えて、その子を助けたいと思い、そんな子が出ない未来にしたいと思ったらそれは友達だよ、ってなっています。


===
ともだちって 
 ともだちって みんながいっちゃったあとも まっててくれるひと
 
ともだちなら
 ともだちなら いやがることを するのは よそう

ひとりでは
 ひとりでは もてないおもいものも ふたりでなら もてる

どんなきもちかな
 しっぱいを わらわれたら どんなきもちかな

けんか
 じぶんの いいたいことは はっきり いおう。あいての いうことは よくきこう

ともだちはともだち
 ことばが つうじなくても ともだちはともだち

あったことがなくても
 このこのために なにを してあげたら いいだろう。あったことが なくても このこは ともだち

だれだって ひとりぼっちでは いきてゆけない。
ともだちって すばらしい

ともだちと てをつなく
ともだちと けんかする
ともだちも おんなじ きもちかな

2021年5月3日

読書状況 読み終わった [2021年5月3日]

あきよ は2年生で一番背が低いんです。
2年生になったら大きくなれると思ったのに、お母さんは言います。「あきよ、背というものは急に伸びたりせず、毎日ゆっくり高くなるのよ」もう1年生も入ってくるのに、なんだかがっかりです。
そんな1年生の中でも一番大きい男の子がいます。
まさや です。
まさやは小学校に入ったばかりなのに、3年生に間違われるくらいに大きいんです。
でもまさやは体は大きいけれど、怖がりで泣き虫なところがあります。
1年生になって張り切っているのに、学校の通学路の崖の間の坂道が怖くてたまりません。
そんなまさやの家に、同じ学校の上級生たちが迎えに来てくれました。
あきよは、まさやの手をつないで学校へ行き帰りしているうちに
「わたしは背は小さいけれど、この子よりも大きいんだわ」って思ってきました。
まさやは体は大きいけれど、泣き虫怖がりなので、ついにあきよに「しっかりしないと一緒に学校に行ってあげない」と言われてしまいます。
まさやはびっくりして「ぼくしっかりするよ」といいます。
でもしっかりするってどういうことなんでしょう?

あきよ や、まさや の家の近くには、「ひかわじんじゃの森」「お留守の神様の森」「一本杉の森」があります。
そのうちのどこかに「ホタルブクロ」という花が咲いています。あきよは自分でホタルブクロを取りに行きたいけれど、一番遠い「一本杉の森」にはまだ行ったことがありません。
それを知ったまさやは、「ぼくがあきよちゃんにホタルブクロを取ってきてあげるよ」と言います。

気持ちは強いけれど背が小さいことを気にきするあきよ、体は大きいけれど弱虫のまさやは、がんばって何かをやろう、相手のために何かをしてあげようという気持ちを持ち、自分のことを嫌だなという気持ちがなくなっていきます。

2021年5月2日

読書状況 読み終わった [2021年5月2日]

対象年齢:低学年

青い目の元気なこねこがいました。
こねこはねずみのくにを探しに出かけました。
ねずみのくにをみつけたら、お腹を空かせる事はありませんからね。
でも途中で会った魚やハリネズミたちは、こねこの青い目をみて逃げてしまいます。
青い目のこねこは、黄色い目のこねこたちと出会いました。
黄色い目のこねこたちは「ふつうのいいねこの目は黄色だよ」といいます。
なかなかねずみのくにを見つけられない青い目のこねこは、黄色い目のこねこたちと暮らすことにしました。
ある日、大きなこわい犬がやってきました。
黄色い目のこねこたちは「そのいぬをおっぱらってくれよ」と言います。
青い目のこねこは思いっきりジャンプしたら…大きな犬の背中の上に乗っかってしまいました。
びっくりした大きな犬は、青い目のこねこを背中に乗せたまま山を登って…駆け下りて…またまた山を登って…

青い目のねこはねずみのくにをみつけて、黄色い目のねこたちと一緒に毎日お腹いっぱいになってのんびり暮らせます。そして黄色い目のねこたちは「ありがとう、こねこくん、君はヘンテコな猫どころかとても素敵な猫だね。その青い目だって、ヘンテコなんかじゃない。とても素敵できれいだよ」って言うようになりました。

2021年5月1日

読書状況 読み終わった [2021年5月1日]

「ちっちゃい子」から「大きい子」への道を自分で一歩一歩進む女の子のお話。
大人の「ともこおばさん」も、ちっちゃい なほ と”お友達”だったり、子どもたちのキャンプ引率をしたり、きちんと子供と同等で見守ったり自立の手助けしている感じが良いですね。
 対象:低学年
 読み聞かせる時間:10分弱



なほちゃんはちっちゃいおんなのこです。
おとなりのともこおばさんが、おおきい子たちをキャンプに連れてゆくと聞いたなほちゃんは、「わたしもいく!」と言います。
でも大きい子たちは「ちっちゃい子はだめ」っていいます。「だってちっちゃい子は、重い荷物を持てないし、すぐ泣くし、暗いところを怖がるし、ひとりでおしっこにいけないからだめ」
だからなほちゃんは「わたし、重い荷物持って歩けるし、絶対泣かないし、暗くなっても怖がらないし、よる一人でおしっこに行ける!」と言いました。
ともこおばさんは「じゃあなほちゃんも連れていきますよ」って言ってくれたんです。
キャンプでは、荷物も多いし、川に落ちちゃうし、夜は真っ暗です。
でもなほちゃんは重くても怖くてもがんばったんです。夜にはたった一人で流れ星をみました。
だから朝になって自信を持って言えました。「わたし、おおきいこのように、ちゃんとキャンプできたよ!」

2021年4月30日

読書状況 読み終わった [2021年4月30日]

上巻はこちら。
https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4003770099#comment

精神科医に治療の一環として自分の人生を振り返り自伝を書くことを進められたイタリア人のゼーノ・コジーニは、心に浮かんだことをつらつらと書き連ねてゆく。
嘘、二枚舌、嫉妬、裏切り、欲望…彼の語りは相当下衆いのだが、あまりにも淡々と正直(嘘を正直に書いているという意味の正直なんだが)で、なんかそれはそれで人間ってこんなもんなのかとも思えてしまう。

下巻は、まだまだ語りたい愛人とのあれやこれやから始まる。
見掛けは悪いがゼーノを愛し家庭的な妻アウグスタとの結婚生活は割と順調なのだけれど、男として愛人必要だよねーな感じで歌手勉強中のカルラちゃんを愛人にしているゼーノ。
カルラちゃんも心が揺れている。夜は泊まってほしい、自分を妻のように一緒に出掛けてほしい(ゼーノとは同じ街なので人目についたら噂になる)と要求する反面、奥さんのことは、ゼーノを愛して家庭を作っている人ということで尊重している。
カルラちゃんに「あなたの奥様を一目見させて」と懇願されたゼーノは、見栄えの悪いアウグスタではなく、彼女の美しい姉のアーダを見せることにする。
何考えてんだと思うんだが、ゼーノとしては「あんなに美しい妻がいるのに、カルラちゃんと会ってるんだよ。どんなにカルラちゃんを愛しているかわかるだろ?」をやりたかったらしい。なにやってんだと呆れる読者(・。・;

しかし案外素直純粋なカルラちゃんは「奥様は美しいけれど寂しい方だった。夫の裏切りを知っているのよ。もうあなたとは別れるわ」となる。
策を弄してカルラを離すまいとするゼーノ。
でも結局諦めることに。
そしてかつて自分が結婚を目論んだけれど今では愛していないアーダが、夫グイードの浮気に苦しんでいると知る。
さらにアーダはハゼドー病に罹り、従来の美貌をすっかり失ってしまっていた。誇りは高いのに自分が思っているほど美しくはないアーダの姿をゼーノは冷徹に書き記す。
そしてゼーノの考え方が<「女の健康はまず第一に、その美しさにあるはずだから」P245>であり、
アーダに対しては「興味ない」とか「愛していない」とか「今はアーダのほうが俺のことを好きなんだろ?」とか常に考えていて、この時代の男性社会のせいなのか、いい気なもんだというか┐(´д`)┌

そのグイードに対してゼーノは、最初は反発を感じていたんだが、その後彼のことを好きになっている。
そしてグイードが開いた商事会社を手伝うことにする。
この時代の”商売”というのが案外ゆるいというか、行きたい時に会社に行けばいいとか、二重帳簿付けまくったりとか、そんなんでいいのかという感じもするし、こんなゆるくて生活できるなんて、やっぱりゼーノも妻一家も上流階級で気楽だなあという気もする。

しかしグイードは、商才がまったくないし見栄っ張りだし将来の見通しができないしという男。
甘い考えで買う株は暴落し、破産寸前になる。

どんどん損失が膨らみ、帳簿のズルで誤魔化し続けるグイードに対して株の仲買人が言った言葉、「ふしぎなことに、世間には、小さな損失を甘んじて受ける人が少ししかいません。損失が大きくなるまで諦めようとしないのです」(P132)はいろいろなことに使えると思う。

グイードは自殺未遂までして妻アーダとその母マルフェンティ夫人から金を出させようとする。
すべてを失うのかという時のグイードとゼーノは人生観を漏らす。
グイードの「なんと人生は不公平で、つらいものか!」(P196)に対してゼーノは「人生は醜くもなければ美しくもなく、不可思議だ」(P197)、そして「人生は難しくはないが...

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2021年4月29日

読書状況 読み終わった [2021年4月29日]
カテゴリ 海外文学

<私の幼年期を振り返るだって?あれから五十年以上の歳月が流れ、老眼になった私の眼に宿る光が、幾多の障害に妨げられることがなければ、遠いその時代まで見通すことができるかもしれない。高く険しい山のように立ちはだかるのは、私が過ごしてきた年月と時間だ。P10>

精神科医に治療の一環として自分の人生を振り返り自伝を書くことを進められたイタリア人のゼーノ・コジーニは、心に浮かんだことをつらつらと書き連ねてゆく。
だがどうやら治療の途中で逃げ出してしまったらしい。この手記は担当のS医師が「彼を困らせてやるために出版するけど、また治療に戻ってくるなら出版料の折半するよ。だってこの手記は非常に興味深いんだ」として出版されたというかたち。
なお、この本の紹介として『「意識の流れ」を精緻に描き出した』とあるんだが、頭に流れる言葉をそのまま連ねたという小説ではなく、ちゃんと読者に語っているような手法で、それなら小説の手法の「意識の流れ」って何なんだろう?と思いながら読んだ。

ゼーノの手記は子供の頃から始まる。
厳格な経営者の父とはすれ違ってばかり。
父はゼーノに失望し、ゼーノはどこか卑屈な心で父の期待を裏切る。物語はゼーノの心の内を語られているので、父はこう思っているんだろうし、自分がこう言ったら良いのかもしれないけど、様子を見て違うことを言ってみた、などとかなり屁理屈を述べている。
ゼーノはなにかを嘲笑う様子を見せる。だが神を嘲笑いつつも、心の慰めを真の宗教に求め、それは表立って神を敬愛しなくても人として必要なものだと分かっている。
そして父の死を看取り、信じてもいないはずの神に魂の安らぎを祈ってもいる。
だが父が最期にしようとした行動が、ゼーノを殴るような仕草だったため、そのことでゼーノはやはり父は自分を憎んでいたのか?と考えたりする。
これだけわかり合えない親子だが、それでも毎日食事をともにし、わかりあえなくても会話をして、お休みのキスをして…、というイタリア人の風習はなんだか「それでも家族」という感じでいいんじゃないのって思ったし、まあ父の最期の行動も「これだけ言っても息子に伝わないのかーー」という気持ちが出た程度だと思うんだけど。

さて、ゼーノの特長として意思が弱いというか、策を弄する割には頑張り続けることがないと言うか。
大学では科目を取り替えてはまた取り替え、父の会社を継ぐが老会計士オリーヴィからはずっとバカにされてるし、青年期に覚えた煙草は中毒となり毎回「これが人生最後の一本」と言っては辞められないという感じ。
<私の人生は、なんの変化もないたった一つの音色しか提供できなかった。その音程はかなり高く、一部の人からは羨ましがられたが、恐ろしく単調だった。友人たちの私に対する評価は生涯を通じて変わらなかった。私もまあ、分別のつく年頃になってからというもの、自分自身への評価をあまり変えていないように思う。P104>

独り立ちしたゼーノは、自分とは全く正反対の特徴を持つ商人ジュゼッペに惹かれ、彼の娘と結婚することにした。
ジュゼッペにはAで始まる四人の娘がいた。これはZから始まるゼーノとは文字では遠いところにいる女達だ。
ゼーノが結婚するために恋することにした美人のアーダ、一目見たときに醜さにびっくりしたアウグスタ、いわゆる今どきギャルのアルベルタ、まだ幼くゼーノを頭のおかしい人扱いするアンナ。
この結婚にまつわる記載は、結婚するために恋することにしたとか、でもそのアーダはグイードという男と親しくなってなんかムカつくやつーと思って、グイードが主催した降霊術でわざとテーブルを揺らしてやったりする。ガキの嫌がらせレベル(笑)。
結局アーダには振られて、では代わりにギャルのアルベルタに声をかけよう、いっそ幼いア...

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2021年4月28日

読書状況 読み終わった [2021年4月28日]
カテゴリ 海外文学

人間の歴史は偉人だけにより作られているのではない。
偉業を成し遂げた人の影にはもうちょっとだったのに惜しくも有名になれなかった人がいっぱいいるだろうし、その人たちの周りには普通の人たちがたくさんいるんだ。
人の歴史とはなんでもない普通の人のなんでもない人生の積み重ねでできているんだろう。

ということで、歴史的偉業を成し遂げ名前を残した人たちの後ろにいたであろう、「すごいのに惜しい!」な人たちの人間臭さや面白みをお話にしようとしてみた、という短編集。


アッシジは狩りも下手で力も弱く間も悪い。大平原でそれぞれの役割をして行きているこの一族でこんな男を喰わせる理由がるのか?
「ある。おれは話ができる」
こうして太古の人類に語り部が生まれた。
人は物語が必要なのだ。空想の主人公の冒険、悲恋、苦悩、成長を我が事のように捉えるという精神の活動が人間の生活の彩りに必要なのだ。
あっという間にアッシジは締切に追われて出版社にカンヅメにされる大人気作家状態!これでは物語を細かく練ったり深みを持たせたりできないじゃないか!
そんなある日旅回りの老人語り部が現れる。老人の語りにアッシジは心を奪われた。これこそまさに人間の脳が求める思考、生と死と、自由と限界と、善と悪と、存在と無とを併せ持った大いなる傑作だ!
こうしてアッシジは、ベストセラーで薄利多売の大衆作家から、人間の哲学、神と自然について思考を巡らせるような語りをするべく、放浪の旅に出たのだった。
  /『喰わせる理由』

錬金術師っていうのは決してマッド・サイエンティストなんかじゃなく、科学者であり哲学者であり医者であり魔術師でもあったんだよ。だから当時は尊敬され社会的地位もあった。
そんななかでイマイチ功績も名前も上がらないキルトゥテスという錬金術師がいた。
彼の考えや実験は悪くはなかった。他の錬金術師に否定されても次々に研究や実験を重ねていった。実はキルトゥテスの実験は、核融合とか核分裂とかの域にまで達していたんだよ。そしてついにある日、家を貫いた稲妻が常温核融合を起こし、本物の金を造り出すことに成功したんだ!!今日に至るまで人類史上ただ一人の偉業!
…なんだけど、稲妻で機械は大破しちゃったし、稲妻という偶然は二度と起きないし、だから誰も信じてくれないし、功績も名前も残せなかったんだよ、ちゃんちゃん。
  /『錬金術師』

ウィリアム・フェアチャイルドはイギリスからインドに渡り商売で大儲けしようと夢を膨らませていた。
フェアチャイルドには冒険心があるし、無茶無計画を実現させる運もあるし、巨万の富のためならどんな苦労も厭わない根性もあった。だからマレー半島にもインドにも着いて現地の人との交流もできた。
しかし彼は決定的に商才も先の見通しも味覚もなかった。だから腐る果物をイギリスに持ち帰ろうとしたり、イギリス商会を敵に回すような作物を大量に持ち帰ったりしちゃったんだよ。
こうしてフェアチャイルドのインドとの功績は闇に葬られたのでした。イギリスが東インド会社を設立してインドと公益というか利益吸い取りをするようになった1600年よりも前にインドで商売したっていうのに。
  /『ロンドンの商人』


「まったくお隣は真面目に働くがただそれだけで、正室の他に側室を持つ甲斐性もないし、目立った働きもしてないし、とても大将の器ではない。まあご正室のまつ殿だけがお隣の利点ではあるなあ」
織田家から羽柴秀吉の与力として働く船戸吉右衛門持義は、屋敷がお隣の山内一豊をこう評している。
確かに船戸のほうが理知的だし全体を見通す力も持っている。だが彼が自分より格下だと思っている山内一豊は、とくに大功績があるわけでもないのに自分よりも石高が上がってゆくではないか。
...

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2021年4月26日

読書状況 読み終わった [2021年4月26日]
カテゴリ 日本文学

医者の私はドイツに行こうかなーなんて思っていたが留学試験で落とされた。なんてこったい、それなら別の手段を考えなければ。
ということで1959年に水産庁の漁業調査船に船医として乗り込んだ。5ヶ月半の航海で、アジア、ヨーロッパ、地中海まで回る、マグロだって食べられるし、嫌になったら港で逃げ出せばいいじゃないか。

この航海の様子から大切なこと、カンジンなことをすべて省略し、くだらぬこと、書いても書かなくても変わりはないが書かないほうがいくらかマシなことをまとめたら本になった。



軽い語り口で、ユーモアというか悪ふざけたっぷりの航海記録だが、停泊した地での体験は、時代や国の様子が伺える。

停泊地で一人でフラフラしていたら、寄ってくるのはポン引き、物売り、そして女性関係。
女性のお話は事欠かない。
船員さんは「船員は海の上で空想的に女を想うから性欲と言っても半ば空想的なもので肉体的なものではない。家庭的なものを求めるし、もし海員ホームに女がいて言葉だけでも買わせる憩いがあれば、性を求めるなんて少なくなるでしょう」という。
しかし船を降りたら「IPPATHU YARUKA?」と声をかけられて以前の日本人はなんて言葉を教えたんだと思ったり、飲み屋でけばけばしい女性が来て辟易していたら思いの外慎ましかったんだとか、港港での経験があったようだ。

医療の方は、「診察時間は9時から14時」という羨ましい勤務。「歯の底を破って膿を出すなんて芸当はできぬし道具もない、道具があったとて、私は頭蓋骨に穴を開けて脳の一部を切る手術ならやるが、歯医者のような野蛮極まりない真似はとてもできぬ」なんて言っているが、船酔いや歯痛、虫垂炎、他の船や停泊地の患者を診たり診られないから病院に回したり。
日本人は気前がいい…というかちょろいと思われているのか、他の国の人が日本の船だと分かったら「オミヤゲ・クスリ」を要求されたり、病気かと思って与えてみたらどうやら転売用?!などということも。
しかし著者のコミュニケーション能力もかなり高いだろう。
ポルトガルでは馬を借りて観光したら若者が勝手に案内してくれたんだがお互い全く言葉が通じない。
しかし若者はこっちが言葉が通じないのをわかっているのに話を続ける続ける。だから自分も日本語で喋り続けた。若者が松の説明らしきことをすれば、「あれは松だ。日本にもたくさんある。ポルトガルにもあるんだな」などとお互いにまったく違う言語で喋りあった。するとむしろ会話がスムーズになった。黙ってチンプンカンプンの言葉を聞いているくらいなら、判らないなりにペラペラ喋ったほうがコミュニケーションが通じるんだ。
ドイツでは、トーマス・マンの生家で「ブッデンブロオク一家」の原型である古い家を訪ねたんだが、ドイツでは「彼はドイツ人じゃないから〜」などと言う連中がいて、プンプン!と怒ってみたり、
語り口は軽いんだがかなりの行動力だ。

マグロ漁の方法や、海によって生息するマグロの違いなども語られる。
紛れてサメも連れてしまうんだけれど、この頃サメは船員にとっては嫌われていて、腸引き裂いて海に捨ててしまう(食べないのか!)。まあそんなサメは実は臆病で人間がいるとそうそう近づいては来ない。
自称することになる「まんぼう」は、まさに「何か変てこりんなもの」という感じで、海をぷ〜ぷ〜か浮かんでいる。

航海が1959年のため、戦争の記憶も残っている。
南洋では案外日本語や日本人を懐かしがられて「日本は次はいつ来るんだい」などと聞かれた。
しかしユダヤ人の凄惨は戦後もなかなか変わらないようだ。他の日本人の話になるが、ユダヤ人は陰鬱な目をしてはじめはなかなか打ち解けないが、一度友情を覚えると身をもたせかけてくるという。しかし...

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2021年4月24日

読書状況 読み終わった [2021年4月24日]
カテゴリ 日本文学

しまった、今年はまだ日本文学を読んでいなかった。
慌てて取り出した鬼平12巻。


盗賊改方同心の寺田又太郎は任務中に鹿熊(かぐま)の音蔵という盗賊一味に殺された。弟の寺田金三郎は兄の仇を討つために鬼平の同心となった。
その金三郎は、又太郎の密偵だったおせつという女と行き会う。
しかし又太郎も金三郎も、鬼平におせつを使って鹿熊一味の探りを入れていることは言えない事情があったのだ…。
==まあ事件は解決するんですが、あんたたち何やってんじゃいという感じもする(苦笑)。
お白州での取り調べでの、鬼平の圧倒的な迫力の秘訣は、「呼吸ものさ。相手の吸う息吐く息が手に取るように分かるようになればそうなる」ということ。武道(鬼平の場合は剣術)が、相手との勝ち負けだけでなく武”術”とか武”道”というのはこういうところなのでしょうね。
 /いろおとこ

鬼平と岸井左馬之助は若き日に通っていた剣術道場の高杉一刀流道場で、もう一人の長沼又兵衛を加えて三羽烏と呼ばれていた。だが剣術師範の高杉銀平先生は、長沼又兵衛にはけっして免許皆伝を授けなかった。そのため又兵衛は伝書を盗んで出奔していた。
その又兵衛はどうやら盗人になったようだ。二人は高利貸しの屋敷で盗賊改方と盗人として再会する。そして鬼平は、高杉銀平先生の免許皆伝の真髄、「すべて白紙に戻ることだ!」を伝えるのだった。
 /高杉道場・三羽烏

70を超える鬼平の老密偵舟形の宗平と、五郎蔵とおまさの密偵夫婦は、宗平の昔なじみ長久保佐助の息子の敵討ちを見届けようとしていた。
その頃鬼平は、一家の者20人余りを殺し金を奪った畜生働きの強盗一味を追っていた。こちらには同心酒井祐介と密偵の伊三次がついている。
実は2つの事件は繋がっていた。
すると、同心が探る店に密偵がいて、密偵が密偵の跡を付けるというなんだかややこしいことに…?
 /見張りの見張り

鬼平の密偵の中でも、舟形の宗平、大滝の五郎蔵、相模の彦十、小房の粂八、伊三次、そしておまさは、鬼平から最も信頼されている。彼らは腕が利くし鬼平のためには命を惜しまず、なんといっても盗賊時代にも「殺さぬ、犯さぬ」を守り盗みの”芸”を守ってきた仁義ある盗賊たちだったのだ。だから彼らが密偵になったのは、近頃の殺傷を行う畜生ばたらきをする盗賊たちが許せなかったからだ。
そんな6人がある時懇親酒宴を開いた。一級の盗賊だった彼らの話は徐々に懇親からずれてくる。「近頃の畜生ばたらきのやつらに俺たちのみごとなつとめをみせてやりてえ」「そんな話をすると盗人の血が騒いじまうじゃねえか」「長谷川さまにも分からぬようにやればいいんだよ」
こうして密偵たちは、江戸でも嫌われ者の高利貸しの屋敷を探ることになった。
だが探っているうちに、どうやら畜生ばたらきの盗賊一味もこの高利貸しを狙っているとわかる。
はたして密偵は一度騒いだ盗賊の血を鎮められるのか?鬼平は気がつくのか…?
 /密偵たちの宴
==ただの懇親会飲み会からなんか「現役盗賊に負けてられるかい」と盛り上がっちゃった密偵さんたち。コワイ鬼平さんの目をかいくぐるなんて本当にできるのか?!なんか盛り上がってる男たちを唯一の女密偵であるおまさが段々呆れ気味になったり、そんなやり方じゃすぐバレるでしょ!って冷静だったりする姿が微笑ましい 笑

お忍びで江戸市中を見回っていた鬼平は、老人に売春を持ちかけられる。
近頃は老中松平定信の風紀取締が厳しくなり景気は悪く貧乏なものはそこから抜け出しづらくなっている。そのぶん素人娘が生活や家族のために売春斡旋者を仲介にして体を売ることが起きていた。
近頃の風俗のありかたに興味を持った鬼平は老人についてゆく。
だが案内された宿には、過去に鬼平に因縁のある男...

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2021年4月22日

読書状況 読み終わった [2021年4月22日]
カテゴリ 鬼平犯科帳

著者は男性の家庭科教員。家庭科の授業から、高校生に向けて家族や自立を考え、そして社会全体も考えるような授業組み立てとなっている。
「正しいパンツのたたみ方」という著名も、「正しいパンツのたたみ方を教えるからやりましょう」ということではなく、「正しいパンツのたたみ方は人それぞれ。その色々なやり方を持った人たちと一緒にやっていくには?」ということ。
社会や自分の立場、相手を思いやることを生徒が考えられれば、社会に出たときに自分をしっかり持って行けるのではないか。
個々に描かれているのは家庭科の授業で話したことや著者の考え経験なのだが、家族とは、自立とお互い様の精神、老人問題、DVや差別、社会の中で生きることとは、自分の価値観が何か、など、暮らしてゆくために自分自身と他の相手を大切すること、自身を持って社会で生きてゆくための根本を考えるという授業になっていた。
少なくとも私が教わった授業ではここまでのことはなかった。ここまで学校で考えていけたら、まさに社会に繋がるための学校教育だと思える。


❐年度初めに生徒たちに「毎日自分のお弁当を作ってみましょう」と声掛け。
まずどうすれば長続きするか?を考える。
毎日だからこそ、面倒なことはやめて、自分ができることをどうやろうと考える。(←これは仕事もそうですね。仕事の理想や昔のやり方を変えずに手間ばかりかかって結局できなかったり残業になったりするなら、今どうやればできるかを考えなければいけない。しかし仕事だと「今の自分が変えたら怒られるかもしれないから、自分は放置しておく。他の誰かが変えるべき」という考えの方が賢い用になっちゃうところもあるんだよね)

❐勉強の意味
「先生、なぜ英語の勉強しなければいけないのですか?自分は将来英語を使う仕事にはつかないし、海外旅行しなければいいでしょ」という生徒はの真意は、「英語の授業が難しくてわかりません。わかるようにしてください」ということがある。
そんな生徒に「グローバル社会に向けて…」と漠然と説明されてもピンとこない。相手の気持ちを受け止めその生徒のが自分のこととして受け止められるようにして、さらにはわかるような授業をしてゆく。
授業とは一方的でなく、教える側と教わる側が一緒に作るもの。(←これも学校の勉強以外に色々当てはまります)

❐家庭科とは
本来勉強とは受験や競争のためではなく人生を豊かにするためにある。
いわゆる受験などで出る「主要教科」に対して、保健体育・芸術・家庭科のような「副教科」は感性を磨き心を豊かにするものと位置づけてみよう。
すると家庭科とは、どんな暮らしが自分にとって快適で、快適にするための実際の方法を身につけるための教科でもある。しかし人はそれぞれなので、自分にとって快適でも他人には不快かもしれない。自分の暮らしを整え、他の人とともに生きる力を身につける。「副教科」はそんなふうに役立てたい。

❐家族とは
「家族」の定義を聞かれたら人それぞれの回答が出てくる。長年暮らしている同居人は?ペットは?観葉植物は?精神的、法律的色々な定義があるが結局の所家族とはその人が家族だと考える人なのだろう。
しかしそれは「家族なんだから」という押し付けではいけない。自分が一緒にいたくて自分が家族だと思う相手だからこそ、どうやったら気持ちよく一緒にいられるかを考えたい。

❐手伝いは自立の一歩
家族の一員として、普段親がやっている家事を任されることは自立への一歩。
料理であれば、メニューを決め、料金を考えて買い物をして、家族の喜ぶものを作る。
毎日自分以外の誰かが自分のために何かをしてくれていた家の中のことを知ることは、社会のルールとも繋がるので、それを意識することが「親に所属する子供」から自立すること...

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2021年4月13日

読書状況 読み終わった [2021年4月13日]

<世界のあちこちで、本を手に取り、読みふける人たち>
世界の本をめぐる言葉、言葉をめぐる言葉を集め、それぞれにショートストーリーやエッセイがついている。
日本語からは「ななめ読み」「活字離れ」「積ん読」(←積んで置いている、とのダジャレ感が海外でわかるのか?)


私は「言葉」や「詩」は美しいイメージの言葉が多いかと思いましたが、皮肉的な意味に使われることが多いと思った。
❐Bukvoed(ブクヴォエード/ロシア語)
「本を食べる」⇒本の虫、内容ではなく文字や形式に拘る人を皮肉る。
❐Soz(ソズ/トルコ語)
「言葉」⇒様々な外来語を語源としてなしているトルコ語ですが、歴史において外来語排斥運動もあった。そこでこのSozという言葉が復興された。しかし純粋に言葉を表すだけでなく、噂や口先だけの言葉や侮辱という意味も含まれるようになった。
❐翻眼比翻書還快(ファン・リェイン・ビー・ファン・シュ・ハイ・クァイ/中国語)
「顔つきの変わる速さは本のページを開く速さ」⇒急に怒り出す、突然仲違いする。

本に使われる動物も国によって色々。
❐Knihomol(クニホモル/チェコ語)
「本の虫」⇒蛾
❐Rat de bibliotheque(ラ・ド・ビブリオテーク/フランス語)
「本の虫」⇒図書館の鼠
❐Khar-khan(ハルハーン/ペルシア語)
「ロバ読み」⇒濫読、ガリ勉
❐老鼠肯書ー咬文嚼字(ラオ・シュ・ケン・シュー イヤオ・ウェン・ジャオ・ズー/中国語)
「鼠が本を咬む」⇒文章の字面ばかりにこだわる。本当の意味を理解しようとしない。
❐ Ecrire comme un cochon(エクリール・コム・アン・コション/フランス語)
「豚のように字を書く」⇒字が汚い。
❐La mort du petit cheval(ラ・モール・ドゥ・プティ・シュヴァル/フランス語)
「小さな馬の死」⇒悲劇、話の終わり、一巻の終わり。
❐Dog ear(ドッグ・イヤー/英語)
「犬の耳」⇒しおり代わりに本のページの端を折り曲げて印をつける行為。

言葉や本を比喩にしているものもある。
❐Jeld-e dovvon(ジェルデ・ドッヴォム/ペルシア語)
「第二巻」⇒そっくり、生き写しの意味。

紹介されている言葉が、言葉というものは良くないことに使われたり、その民族が辿ってきた波乱の歴史を含む事が多いような気がするが、
言葉は人間に必要、言葉は美しいという言葉もある。
❐Ad ganga medbok I maganum(アズ・ガウンカ・メズ・ボウク・イー・マガニュム/アイスランド語)
「誰もが腹の中日本を持っている」⇒誰もが本を書く、という言い回し。
アイスランドは10人に1人が本を出版するのだそうだ。一人ひとりにはそれぞれ語れる物語がある。
❐Masnavi-ya haftad man kaghaz(マスナヴイーイェ・ハフタード・マン・カーガズ/ペルシア語)
「70万の髪のマスナヴイー(※叙事詩。詩形の一種)」⇒言うべきことが山ほどある。「私の物語を語ったら千巻もの叙事詩になるでしょう。」
❐Nazu(ナズム/アラビア語)
「(真珠などに)糸を通す」⇒詩作すること。
いろいろな事柄に意図を通して言葉として組み立て、詩や物語ができるのか。そして糸が通されていない言葉たちもたくさんある。

2021年4月11日

読書状況 読み終わった [2021年4月11日]

ソチオリンピックを振り返る特集。
すっごいいまさらですが、せっかく登録できるならしときましょう。

私はリレハンメル五輪以来のフィギュアスケートファンでして、年に1度は必ず試合やショーを見に行っております。(残念ながら伊藤みどりさんの現役時代は知らない)
ソチシーズンは、例年にも増してかなり気合入れて観戦しまくり、日本の黄金世代の様相をこの目で見られてフィギュアファンとして幸せなシーズンでした。

ソチオリンピックの時は連日夜更かし、特に女子の試合の2日間は会社のみんなも夜更かしで、みんなでフラフラしながらも「いいもの見た~」という変な充足感と連帯感(?)に浸りながら仕事してましたよ(笑)。日本人としては羽生選手の団体戦、真央選手FSは後になって思い出しても幸せになる演技でしたね。

ソチオリンピックは「レジェンド(葛西選手)」「キング・オブ・スキー(荻原双子)」、カーリングのさわやかな敦賀元選手など、”あのころ”の選手たちが選手またはコーチとして印象的でしたね。過去のオリンピックが思い出されました。
(フィギュアスケートでも”あのころ”メダリストだった選手達がコーチや監督になっていて、試合はもちろんキス&クライや応援席のメンバーがとても懐かしかったです)

しかしロシアは芸術的見せ方が優れていますね。
北欧リレハンメルの時も美しいな、静謐だなって思いましたが、そのあとは北米やアジアが多かったですからね。今回はロシアの荘厳で重厚な芸術文化をこれでもか!と見せつけられました。…ついでにロシアの国力も…(小声)

2014年7月28日

読書状況 読み終わった [2014年7月28日]
カテゴリ 映画・舞台

幼児に絵本を読み聞かせることの必要さなどは他の本でも読んできたので、次には小中学生の読書に関して知りたくて探していました。紹介していただきましてありがとうございますm(_ _)m


本書で書かれているのは、子供が本を読むことは大切だと言われている。では子供に本などのような良い影響を及ぼすのか?では実際にはどのように指導されているのか、などの話。

❐そもそも物語を読むということがなぜ必要なのか?
文化、というのは、衣食住のようにないと死ぬものではないけれど生きてゆくのには大切な自尊心を持てるもの。ここでは自尊心を「自分には生きてゆくだけの価値がある」「この世界の中でいくらかの場所を占領し、食べ物を食べ、水を飲み、空気を吸って生きていても構わない」と自分に対して思えることであり、それができなくなったら生きる気力が無くなってしまう、としている。その自尊心の基盤は、幼い頃の親や他の大人たちから受ける無条件の愛情だ。しかし幼稚園などの集団に入り、自分の全世界は世界の一つだと知ると、親だけから受けただけの自尊心は崩れてしまう。そこで自尊心確立のために文化の基盤が必要となる。食べ物に工夫をこらしたり、自然を楽しんだり、そうして自分自身であるという自尊心が作られてゆく。
そこで、人間社会は文化の継承が必要であり、読書の楽しみを伝えることもその一つ。

❐社会を伝える方法の変化
本が無かったころや、読むことができない国にあっては、大人と子供の距離が近く、大人が働くことを示し、子供にも子供の役割があり、自分が今後どうやって生きてゆくのかを見ることができた。そしてお話というものは、大人から子供に語って聞かせるという形をとっていた。こうして人々が代々得てきた知識や知恵をまるごと子供に引き渡していった。
しかし現在は、大人と子供に距離ができ、子供が自分で大人とはなにか、社会とは何かを知ることが少なくなっている。

❐年齢に応じて子供に本を読むこと。
・赤ちゃんの脳の発達には、まず動き、触り、人や物とのコミュニケーションを撮ってゆくことが必要。絵本はその中の一つとなる。
そして徐々に、絵本の絵や名前から実物を思い浮かべられるようになる、出来事をひとつのつながりとして追うことができるようになる。(←私は「読み聞かせ」「本を読んで聞かせる」はやってましたが、素話をしたことがないのですが、素話にすると頭の想像が膨らむのだろう)
・お話の流れに沿って想像力を働かせてお話の世界に入り込むようになった子供たちは、大人の声を聞いたり目でページを見ることを忘れて、心のスクリーンに写した情景を見聞きするようになる。すると大人は、あくまでもお話を主体として、お話の流れを崩さずに伝える必要がある。大人が身振り手振り説明を加えたり、華美で可愛らしい絵に頼るのではなく、読む大人が心を動かしお話の流れを伝えてゆけば、子供はその大人の心の動きに自然について来られる。動画やテレビではだめだという理由はここで、一方的でありどんな対象者相手でも使えるテレビではなく、目の前にいる子供に対して目の前にいると大人が心を動かして伝えることが大切になる。そこで絵本を選ぶときに、絵の美しさやかわいらしさだけでなく、実際に物語を読んでみて、読むことにより絵に命が吹き込まれるか?を考えると良い。(←しかし絵で目を引かないと子供が自分で本を手に取らないということもあるし…。だからこそ最近は名作や古典小説も”萌え絵”で出版されるんですよね。中学生のうちの娘も「表紙がキレイじゃないと絶対手に取らないから!」と断言している(苦笑)。まずはその年齢までにお話の面白さをちゃんと紹介できないとですね)
・10歳前後の思春期頃に、自分が直面する問題の全体像を把握して様々な可能性を考えて解決策を練ると...

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2021年3月28日

読書状況 読み終わった [2021年3月28日]
カテゴリ 図書館へ

石井桃子さんが、自宅で近所の子供たちのために作った私設児童図書館「かつら文庫」(庭に桂の木があったことから)の記録、それを通して子供と本について。

子供が本(文字)の世界に入って得る利益として二点あげている。
本から得た自分の考え方、感じ方によって、将来複雑な社会で立派に生きていけるようになること。
育ってゆくそれぞれの段階で、心のなかで、その年齢で一番よく享受できる楽しい世界を経験しながら成長して行けるということ。

生まれたばかりの子どもは、目に見えるもの、耳に聞こえることなどの感覚に訴えるものをから物事を判断する。頭の中で形を記憶し、人に伝えるときは口で伝える。
やがて文字を覚えると、考えたことを書き記す用になる。
それにより考えも複雑化し、他の人に伝える手段も増えた。
しかし文字を考えのもとにする前には、子供のうちに物の形で自分の周りのものをしっかり実態としてつかみ、ものの考え方の基礎を作っておく必要がある。
あまり早く文字・言葉に入ると文字を覚えるだけで実感覚につながらない。
子供が本の世界に入ってゆくには、やさしい絵本からはじめ、やさしい昔話、はっきりした筋のあるお話に進む。
子供はまだ世界の経験が少ない、そのため文字や経験によりわかることが少ない。この頃の子供たちには、誰がどう思ったかよりも、誰が何をしたのかを時系列ではっきりと伝えなくてはいけない。そしてまだ言語表現が発達していない子供への文章は、状況がわかりやすく、時系列に合っている必要がある。


石井さんたちが始めた「かつら文庫」は完全にボランティア活動のため、最初は運営側の大人たちも試行錯誤であったり、自分たちの手でできることをしていた。
しかしその、営業ではない、手が回らない分、子供たちは自分の役割や、かつら文庫でのお約束を覚えて行くようになったという。
最初にかつら文庫ころの子供たちは、遊んだりおやつを食べたりしてしまうが、大人たちが「かつら文庫は本を読むところです」ということを教えてゆくうちにわかっていった。
まず本はお話、図鑑など分類ごとに色のラベルを貼り、一番後ろに封筒を貼って貸出カードを入れる。
子供たちは、自分で本を探し、貸出カードに名前を書き、カードを受付に渡す。
返すときは、カードを受け取り、本の封筒に戻し、そして本も同じ色のラベル分類の場所に戻す。

  わたしも子供の頃は公立図書館も学校図書も貸出カード方式でしたが(今でも図書館でかなり古い本を借りると貸出カードが入ったままで、つい見てしまいますね)、さすがに「棚に返却」は自分たちではやっていませんでした。これは本の数が多いと、お話といっても作者ごとに揃えるなどの並べ方になるので、子供にやらせるより運営側がやったほうが早いですからね。
しかし小さな図書館だとまだ低学年や未就学児でも自分で本を戻せるということは、子供がいかにお約束を覚えられるのかということを感じました。

子供たちの反応を見て、大人たちがわかったことも書かれている。
まず子供たちは最初に行く場所、まだ慣れない場所は探検してここが安全だ、楽しいと分かる必要を感じたという。
それはかつら文庫ができたての頃に来てまだ勝手がわからない子供たちがみんなでトイレに列をなしたということ。しかししばらくするとトイレ行列は落ち着いた。どうやら子供たちは、ここがどんなところなのかを調べる必要があったようだ。一度ここは安心なところとわかり、くつろぐ子供たちがいると、次からやってくる子供たちはここは安全で楽しいということを感じ取るようになった。

石井さんが外国のお話を福音館との協力で出版する働きかけをしたのも、かつら文庫で外国の絵本を持ち、自分たちで翻訳しながら読んだら子供たちが夢中になったところ...

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2021年2月25日

読書状況 読み終わった [2021年2月25日]
カテゴリ 図書館へ

東京子ども図書館理事長、児童文学の翻訳や創作されている松岡享子さんによる子どもと本のお話。
子どもと本の関わり、図書館というものがどのように変わってきたのかなど。

【赤ちゃんと本】
子どもが自分から興味を示すのでなければ、無理に早くから絵本を読む必要はない。まずは人とのコミュニケーションなどにより言葉の土台を作る。赤ちゃんに言葉や情緒を育てるためには、絵本を仲介にするのではなく、まずは親が直接向き合い、赤ちゃんに自分の気持ちをわかってくれる人がいるという気持ちをもたせてることが必要。

⇒近年幼児から読み聞きかせが推奨されますが、幼児教育とか効果を期待したり、子どもが喜ぶ本と大人が与えたい本の違いで考えたりという感じもあります。
まずは信頼関係が築かれてから、コミュニケーションということが最初ですね。
私の場合は自分が本(物語)が好きなので、子供たちには本を読みまくってきましたが、長男も娘もほとんど本には興味を持っていないように成長しております(;_;)。次男は少しは読むので、一緒に本の話をしていきたいんだが。


【幼児と言葉】
文字を知ると意味を先に捉えてしまい、音の楽しさや、想像を広げることができなくなってくる。そのため無理に言葉の読み書きを急ぐ必要はない。耳からの言葉は心のそこまで響いている。この言葉の力を受け取る能力は、文字を覚えると低下してしまう。読み手の言葉を聞き入る場合は物語の奥深くに分け入るが、覚えたての文字をただ追うのは事実や現象の追認になってしまう。


【童話や昔話】
昔話では登場人物たちが平坦で感情が書かれていない。しかしそのために聞き手は主人公と一体になりお話の展開を楽しむことができる。ここで聞き手が求めるのは何故という動機ではなくてどう行動したのか。
童話では残酷な描写もあるが、登場人物が平坦であるために、自分の肉体的苦痛として味合わずに済む。

心理学では、人の無意識には層があり、そのなかでも民族などの集団的無意識があり、さらには人類共通の普遍的無意識があるという。
そして人間の抱える悩み、人間が成長するための心理的葛藤が、解決も含めて昔話とぴったり重なることがあるという。昔話は人間の奥底で起きるドラマであり、現実の人間社会とは違う原理で動いている。
そのため、辻褄が合わないということもあるがそれは重要ではなく、平坦(聞き手が同調しやすい)な主人公が、危ない目に合うがそれを乗り越えるという展開が必要。
昔話でたっぷり想像力をふくらませることは、現実社会に対応する心の力を強くすることにもなる。

⇒近年よく出ている「本当は怖いお伽噺」「お伽噺の真相を探る」みたいなのは、やりすぎると野暮になるような気はしています。
私も昔は物語を「紙の上の話」として捉えていたのですが、だんだん文字として読んだり、現実として考えるようになってしまって楽しめなくなっている部分はある。


【図書館史】
世界の、そして日本の図書館史が語られる。
ここで語られるアメリカでは、向上心と自立心を育てるために図書館を推進すること、そのために「こどものための図書館」というの精神と取り組みが行われたというのが羨ましい限り。
日本でも明治時代に図書館を教育と知識と娯楽を得るための機関として作ろうとしたという。しかし手続きがやたらに煩雑だったり、図書館司書が少なかったり、子供の周りにし全日本があるということは二の次になったりしてしまっている。

⇒日本において、子どもに本というと、自然に親しむというよりなんか特別なもの、教育の一環、努力するもの、になっているような。

本書でも、アメリカや日本でも子供たちの周りにごく自然に本を触れ合えるようにしようとした人たち、そして現在でも子供の...

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2020年12月11日

読書状況 読み終わった [2020年12月11日]

これも登録できるなんてちょっと感動。

「ボルヘス&ラテンアメリカ幻想」特集です。
作品紹介はなかなか充実。次に何を読もうか迷います。
バルガス・リョサのノーベル賞受賞で、このようなブックガイドが出ることを期待したんですがないんでしょうかね。

読書状況 読み終わった
カテゴリ 南米短編

先日読んだ「ラテンアメリカ短編集」にボルヘスがいなかったので本棚から取り出した。
相変わらず理解できない、でも楽しい、そしてボルヘスは楽しい人だと思う。
ただの論述にならずに小説になっている”ひねり”が好きか、ウザいと思うかで、ボルヘスを気に入るか気に入らないかなのかなあと思います。
なお、「ラテンアメリカ短編集」にはコルタサルもいなかったので次に読むのはコルタサル。この二人を入れないというのはわざと外したんでしょうね。


【不死の人】
古代ローマの司令官だった男が、不死の川の水を飲み不死者となる。不死の町で彼はホメロスと行きあった。その後彼は世界を彷徨い、再度川の水を飲んだことから、また死が訪れる普通の人間になる。
…ストーリーとしてはこんな感じですが、書かれている内容は「不死者とは」「全ては繋がっている」というような論文のようなもの。
ここに出てくる不死者たちは特に目的もなく不老不死のため、全てが平坦で他者にも自分の記憶にも世の中の出来事にも無関心。
 <不死の人々の共和国は完璧な寛容さとほとんど完璧に近い冷淡さに到達していた。彼らは、無窮の時がたつうちには、あらゆる人間にあらゆることが起こるものであると知っていた。P26>
そしてこの語り手の外見も、土気色の疲れた肌をした掴みどころのない容貌で、あらゆる言語が入り混じった不思議な言葉を話すというように書かれている。

さて、ボルヘスの短編が論文でなく小説になっているのは最後にミステリー要素を入れているからだろう。物語終盤でいきなりこの語り手が語る。
 <わたしが語り終えた物語は、そのなかに二人の異なった人物の事件が混じり合っているので非現実的なものに見える。P32>
そう、この不死者はまるで他人のように語っていたけれども実は…、というタネが隠されているのでした。

【死んだ男】
西部気質の男たちの抗争、いわゆるマチスモ物。
奪われるために与えられた男の物語。

【神学者たち】
神学者のアウレリアヌスと、ヨアンネスは論議を交わしていた。
アウレリアヌスはヨアンネスを嫌っているわけではなかったのだが、彼を意識するがあまりに常にヨアンネスを気に留めて、いつも彼よりも優れた論文を出そうとしていた。その思いが募り、ついにアウレリアヌスはヨアンネスを密告し、ヨアンネスは火刑に処せられる。
しかしその後、アウレリアヌスは火事に巻き込まれて、ヨアンネスと同じく火で死ぬことになったのだ。
「アウレリアヌスは神と言葉をかわしたが、神は宗教上の相違にあまり興味をもたれていないので、アウレリアヌスをヨアンネスとお間違えになった、ということはおそらく正しいだろう」として、
相手と自分の本質は同じだった、という論調を小説として書いたもの。

【兵士と囚われの女の物語】
突如として自分が攻撃した町を守る側に寝返り戦死した男。
彼は何を見て、何がその瞬間となったのか。
そしてこの話を聞きボルヘスが連想したのは、二人のイギリス婦人のことだった。
一人のイギリス人少女が先住民に拐われて一族として暮らすことになった。いまでは結婚もして子供もいるという。
そしてもうひとり、ボルヘスの祖母であるイギリス人婦人は、彼女を野蛮な部族から離れてイギリス社会に戻るように呼びかけてみる。
しかし彼女は堂々と部族に、汚れた服で移住し動物の生き血を啜るその生活に戻っていったのだった。
戦士と女は、1300年の時を離れているが、それぞれに理性よりも自分のなかに芽生えた強烈な衝動に従ったのだ。

【タデオ・イシドロ・クルスの生涯】
人が自分が何者かを識る瞬間、または、その人とはまさに自分自身だった、というのは、ボルヘスのお気に入りのテーマの一つ。
そのテーマを「マルテ...

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2020年6月2日

読書状況 読み終わった [2020年6月2日]
カテゴリ 南米短編

ダニロ・キシュを読んだら
https://booklog.jp/item/1/4488070779
ボルヘスが読みたくなったので。

ボルヘスが好きな作家のひとり、キプリングの直截な作品を読んで、「才能豊かな一人の青年が考えて実地に行ったことを仕事の心得のある老境の男が真似ても不遜のそしりを受けるはずがない。そうした思案から生まれたのがこの本である。」ということ。長年書いて、考えて、重苦しさや意外性を取り去り直截表現に辿り着いた心境を「年を取って、作者はボルヘスであることへのあきらめの境地に達したのだ」と言っている。
いままで作品では「自分が自分になった瞬間」を書いてきたボルヘス本人にもその時が来て、その時が過ぎたのだろうか。

さて、ここに収められているのは、本人が言うように、直截というか、分かりやすい短編たち。
一昔前に南米男のマチスモ(男らしさ)を書いたもの、物の意思が人を操るという因縁、表には出ないが密かに行われていた勝敗の物語、人がそれを選んだその一瞬の心情、など。
「他の人から聞いた話だが…」として語られる物が多い。
また、前書き最後に「舞台は架空の時間と場所ということにしておくよ。読者の中には『当時はそんな言葉使いはしなかった』などと咎めてくる人たちがいるからね」と断っているのがなんかおかしい(笑)。現代ではネットが発達したり海外へ行く人も多いので、ちょっとした間違いに指摘が入りまくるのはあるけれど、このボルヘスの時代からもそんなチェックする読者はいたのね(笑)


二人で牧童をしていたクリスチャンとエドゥアルドの兄弟は、ある時召使として一人の女を連れてくる。
そんなことは男らしくないと思いつつ、彼らはその女に恋をした。
最初は共有することで保った均衡はやがて崩れ…
 *** 題名が『じゃま者』ですからね、それが”マチスモ”の解決方法になるんですね。
 /「じゃま者」


少年は、ならず者のフェラリを英雄視していた。そしてフェラリにいっぱしの男として信頼された少年は…
*** これまた題名が『卑劣な男』ですからね。「彼がそうした、その気持ちになるまでの日々を遡る」という話。
 /「卑劣な男」


短編『薔薇色の街の男』の姉妹編。『薔薇色~』では挑発された男がそれには乗らずに姿を消す(それは非常に男らしくないことだが)のですが、ここではその姿を消した男が、なぜそのような心境になったかを話す。
 /「ロセンド・フアレスの物語」


別荘で起こった決闘騒ぎ。
「ぐさりと突き刺さったナイフ。地面に倒れている死体。すでにこの世にいないが、九人か十人もの人間が、わたしがこの眼で見たものを見たわけだ。しかし彼ら他見たのは、実はもっと古い別の話の結末だった。(…略…)闘ったのは人間ではなく、ナイフだった」
二人の男が手に取った二振りのナイフは、かつての持ち主が対決を望みながらも果たせなかった対決を行ったのだろうか。
 /「めぐり合い」


無法者フアン・ムラーニャと連れ添った女は、フアンが死んでも彼への憎しみと愛を持ち、フアンの残した得物にその気持ちを同化していた。
 /「フアン・ムラーニャ」


ラテンアメリカ独立当時の軍人ルビオ大佐の娘で、もう百歳になろうとしているマリア・フスティーナ老夫人は、記憶も薄い父の思い出、行ったこともない父のかつての荘園を懐かしんでいた。
世間からすっかり忘れらていたルビオ大佐だが、ある晩陸軍大臣が訪問すりためのパーティーが開かれる。 
戦争が終わって長い年月が経ったが、その戦争最後の犠牲者たる者がいる。
 /「老夫人」



クララ・ゲレンケアンは、夫の死後、友人マルタ・ピサッロの影響で絵を描き始めた。
クララとマルタは互いを尊重し合い、だが二人の間には微妙な争いがあったのだ。
 /「争い」


マヌエル・カル...

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2019年11月24日

読書状況 読み終わった [2019年11月24日]
カテゴリ 南米短編

私はフィギュアスケートのファンなのですが、今季(2014年シーズン)「エバリスト・カバリエに捧ぐ」で滑っている選手がいるんですよ。
私にとってエバリスト・カバリエといえばボルヘスが書いていたけど読んでないという認識。
ではいい機会なので読んでみよう。

エバリスト・カバリエはブエノスアイレスのパレルモをほとんど出ず、29歳で夭折した詩人。語る世界では、薔薇色に塗られた扉の場末の酒場で男たちが踊り、そして短刀を持って男たちが闘う。

題名からはエバリスト・カバリエやその作品を解説しているようだが、内容はアルゼンチンの場末の様相とかタンゴの歴史とか先祖たちがどこから来たのかとかついてとか。
30ページ程度の作品を「私の作品としては長編だよ。30ページもあるからね」なんて言ってるボルヘスが、割とふつうに長文?書いています(笑)
違う国にロマンを感じながらパレルモに居続けたエバリスト・カリエゴを「自分のことを分かった一瞬間訪れ彼は本当のエバリスト・カリエゴになった」(かなり意訳)としたり、他の作品で読んだようなボルヘスの思考もみえる。

「短刀」「騎馬民族考」「場末の詩」などいくつかの章は、エバリスト・カバリエはあまり関係なくボルヘスの小説集に分類される。
タンゴは踊るための音楽だが、場末の売春外から生まれた(という説がある)から、当時は上流社会に受け入れられず、街の女たちは踊らず、街角で男たちが粋に踊っていた、としている。
ボルヘスはピアソラのタンゴはお気に召さなかったようですが、踊るための曲であり場末でナイフを持った男たちへのノスタルジーと、
ヨーロッパの哀愁が加わり音楽のための音楽となったピアソラのタンゴでは確かに好みの方向が違うのでしょうね。
以前読んだ何かの本でボルヘスが「私のこの作品を読むときは、タンゴの○○を聞きながら読んでね」と語っていたと思うのですが、それはピアソラだったか??作曲者名も曲名も短編名もちょっと探し出せない…。どなたかお分かりになる方教えてください。

さて、それを踏まえてこの曲で滑るフィギュアスケーターですが、本当に端正な滑りの選手なので、「場末の売春宿で生まれて粋な男同士が踊った」ものとはまたちょっと違うのかもしれないが(笑)。
https://www.youtube.com/watch?v=d8wgnA06frs#t=12

2014年11月26日

読書状況 読み終わった [2014年11月26日]

ボルヘスは、世界の神話や伝承、幻想譚などを取り入れた小説を書いている。本書は古今東西の幻獣たちを集めたコレクション。
正確な記述形式ではなく、そこから想像を広げボルへス的な解説が書かれていたり、幻獣からその国や民族性が浮かんだりして読み物としても素敵。

まず序文が良い。
「誰しも知るように、むだで横道にそれた知識には一種のけだるい喜びがある」
そうそう、本を読む理由、仕事の文章は頭に入らなくてもしょーのない雑学とかが頭に入るのはけだるい喜びに浸れるからだ!

さらに序文で、ボルヘスにとってこの幻獣辞典を編纂することはそういう喜びの行為であり、読者も分かち合ってくださるだろう…、と書く。
私がボルヘスを読むのは(たとえ理解できなくとも/^^;)、文章からボルヘスの喜びや愉しみが感じられるのが心地よいからだなと思う。

さて。一番最初に出てくる架空動物は「ア・バオ・ア・クゥー」どこかで聞いたような…?そう、ガンダムの要塞名ですね。監督が幻獣好きなんでしょうか。

解説では翻訳の柳瀬尚紀さんがボルヘスを文学界の怪物として紹介しています。
そうか、幻獣辞典とは、怪物が怪物を紹介している本だったのか。
なお、挿絵は絵本作家のスズキコージさん。

2010年6月11日

読書状況 読み終わった [2010年6月11日]
カテゴリ 南米短編
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