天災と国防 (講談社学術文庫)

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  • 講談社 (2011年6月10日発売)
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 冬のモンスーンは火事をあおり、春の不連続線は山火事をたきつけ、夏の山水美はまさしく雷雨の醸成に適し、秋の野分は稲の花時刈り入れ時をねらって来るようである。日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育であったかもしれない。(p.51)

 植物や動物はたいてい人間よりも年長者で人間時代以前からの教育を忠実に守っているからかえって災難を予想してこれに備える事を心得ているか少なくともみずから求めて災難を招くような事はしないようであるが、人間は先祖のアダムが知恵の木の実を食ったおかげで数万年来受けて来た教育をばかにすることを覚えたために新しいいくぶんの災難をたくさん背負い込み、目下その新しい災難から初歩の教育を受け始めたような形である。これからの修行が何十世紀かかるかこれはだれにも見当がつかない。(p.52)

 そのうちに助手の西田君が来て大学の医科学教室が火事だが理学部は無事だという。N君が来る。隣のTM教授が来て市中所々出火だという。縁側から見ると南の空に珍しい積雲が盛り上がっている。それは普通の積雲とは全くちがって、先年桜島大噴火の際の噴雲を写真で見るのと同じように典型的のいわゆるコーリフラワー状のものであった。よほど盛んな火災のために生じたものと直感された。この雲の上には実に東京ではめったに見られない紺青の秋の空が澄み切って、じりじり暑い残暑の日光が無風の庭の葉鶏頭に輝いているのであった。そうして電車の音も止まり近所の大工の音も止み、世間がしんとして実に静寂な感じがしたのであった。(pp.97-98)

 科学的常識というのは、何も、天王星の距離を暗記していたり、ヴィタミンの色々な種類を心得ていたりするだけではないだろうと思う。もう少し手近なところに活きて働くべき、判断の標準になるべきものでなければなるまいと思う。
 勿論、常識の判断はあてにならない事が多い。科学的常識は猶更である。しかし適当な科学的常識は、事に臨んで吾々に「科学的な省察の機会と余裕」を与える。そういう省察の行われるところにはいわゆる流言蜚語のごときものは著しくその熱度と伝播能力を弱められなければならない。たとえ省察の結果が誤っていて、そのために流言が実現されるような事があっても、少なくとも文化的市民としての甚だしい恥辱を曝す事なくて済みはしないかと思われるのである。(p.129)

 過去というものは本当にどうする事も出来ないものだろうか。
 私の過去を自分だけは知っていると思っていたが、それは嘘らしい。現在を知らない私に過去が分るはずはない。原因があって結果があると思っていたが、それも誤りらしい。結果が起こらなくてどこに原因があるだろう。重力があって天体が運行して林檎が落ちるとばかり思っていたがこれは逆さまであった。英国の田舎である一つの林檎が落ちてから後に万有引力が生れたのであった。その引力がつい近頃になってドイツのあるユダヤ人の鉛筆の先で新しく改造された。(p.160)
 過去を定めるものは現在であって、現在を定めるものが未来ではあるまいか。(p.160)

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感想投稿日 : 2016年5月5日
読了日 : 2016年5月3日
本棚登録日 : 2016年5月3日

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