人はなぜ「美しい」がわかるのか (ちくま新書)

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レビュー : 56
著者 :
k-masahiro9さん  未設定  読み終わった 

 分かっている人間は、「自分はもう分かっているから」という理由で、さっさと重要なことをすっ飛ばしてしまいます。ところが分からない人間というのは、「一体あいつは“なに”が分かっているんだ?こっちは“なに”が分かっていないんだ?」という悩み方をするものです。分かっている人間には、この分かっていない人間の悩み方自体が理解できないのですが、分からない人間は、「なにを分かるんだ?」というところでつまずいているのです。(pp.12-13)

「美しい」は、直接的にはなんの役にも立たない発見です。役に立たないものだから、「美しい」なんてことは分からなくてもいいということになります。だから、「美しい」が分かる人は、「美しいが分からないなんていう悲しいことがあってもいいもんだろうか」と思いますが、分からない人は分からない人で、「それがどうした?分からないものは分からない」で終わりです。それで片がついてしまうのは、「美しい」が、直接的にはなんの役にも立たない発見だからです。
 直接的にはそうですが、しかし、「美しい」には重大な役割があります。それは、「自分とは直接に関わりのない他者」を発見することです。
直接的には関係がないーしかし、それは存在する。「関係がない」という保留ぐるみ、「存在する他者」を容認し、肯定指定しまう言葉ーそれが「美しい」なのです。もちろん、この「他者」には、「ゴキブリ」とか「小石」といったものまで含まれています。「それがどうした?」と言いたい人もいるかもしれませんが、「美しい」がそうした言葉である以上、これを捨ててしまうと。一切の存在が無意味になります。存在していても「存在していない」と同じになって、この世に存在するのは、「自分の都合だけを理解する自分一人」になってしまいます。「美しい」はその程度のもので、直接的には「なんの役にも立たないもの」なのです。(pp.48-49)

 兼好法師は、日本で最初に登場した「駐留てきで平均的な日本の中年男」でしょう。「美しい」が分からないわけではない。「美しさ」への自負心もある。その「知識」だけはあって、でも気がつくと、いつの間にか「美しい」とは遠いところに来てしまっている。だから、自分が「美しい」を分かるのかどうかが、根本で危うくなりかかっている。「美しさ」への自負心ーー「自分にはそれが分かる」という、自分自身への自負心が、いつの間にか、「無難が一番」という社会的な調和へと落ちている。しかもそれは、「“無難が一番”と思っているわけではないけれど、気がつくと“無難が一番”という選択をしてしまっている」という微妙さです。もちろん、『徒然草』の作者には、その微妙さが歴然としています。第19段の冬の部分—既に挙げた「年の暮れはてて人ごとに急ぎあへるころぞ、またなくあはれなる」と、それに続く、「すさまじきものにしてみる人もなき月の寒けく澄める廿日あまりの空こそ、心細きものなれ」です。(p.153)

「美しい」という感情は、そこにある者を「ある」と認識させる感情です。「美しい」と思わなければ、そこにある者は、「なくてもいいもの」なのです。(中略)「美しい」という感情は、そこにあるものを「ある」と認識させる感情で、「ある」ということに意味があると思うのは、すなわち「人間関係の芽」です。「美しい」は、「人間関係に由来する感情」で、「人間関係の必要」を感じない人にとっては、「美しい」もまた不要になるのです。(pp.173-174)

 歴史上の有名人の内実をつつき出すと、「なるほど、こういう風にも孤独か」ということが分かって、興味は尽きません。あまりにも当たり前に「孤独」なので、「孤独ということはどうってことのないことなのだな」と思うくらいです。なんでそうなるのかと言えば、近代の以前に「孤独」というモノサシがないからです。(p.188)

レビュー投稿日
2018年6月21日
読了日
2018年6月10日
本棚登録日
2018年6月10日
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