狂気の西洋音楽史――シュレーバー症例から聞こえてくるもの

  • 岩波書店 (2010年11月19日発売)
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5

 狂気の西洋音楽史。何が狂気かって西洋音楽が狂気なのである。本書の中心人物はダニエル・パウル・シュレーバー。いわゆる症例シュレーバー、フロイトやラカンがその精神病論を練り上げるのに参照したのが、このライプツィヒの裁判官の回想録だ。そしてその親ほどの世代でやはりライプツィヒで活躍したのが、ロベルト・シューマン。この二人を結ぶ人脈がかなりあることも面白いが、両者を繋ぐのが「狂気」である。話はそのあたりから説き起こされる。そしてこれまでシュレーバーについてあまり言及されてこなかったこと、彼が当時の知識階級の常として家庭音楽を嗜み、入院中も、彼が聴く「神の声」に対抗して大音響で(それこそくり返し弦を切るほどに)ピアノを弾いていたことに著者は注意を促す。

 著者の椎名亮輔氏は音楽美学を専門とする学者だが、奥様がお医者さんとのことで、その影響かどうかは知らないが、精神分析の文献もかなり読み込んでいるようだ。椎名氏はラカンを参照して、シュレーバーの狂気がシニフィアンとシニフィエの解離にあるとする。さらに、ドゥルーズ=ガタリを引いて、「領土化」「脱領土化」の概念で、ピアノ演奏から「女性になること」までを説明するのだが、かなり挑戦的な議論だ。

 さらに挑戦的なことに、シニフィアンとシニフィエの解離というところから、古典派からロマン派に至る西洋音楽を「シュレーバーの音楽」すなわち狂気の音楽とみなすのである。「シュレーバーの音楽」の始まりを象徴する人物として椎名氏は大ラモーの甥を持ち出す。大作曲家ラモーの甥は作曲家になろうとするも転落し、奇矯な人生を送った。ディドロが描き、それをまたフーコーが『狂気の歴史』で取り上げた。著者はここでブフォン論争を話に絡める。ブフォン論争とは大ラモーとルソーの間の論争で、表面的にはフランス・オペラかイタリア・オペラかという対立だが、その背景に、声楽(すなわち意味)に音楽が付随するようなあり方と、機能和声を駆使して器楽によって意味を表す音楽(それは後に「絶対音楽」と呼ばれる)の対立があることを取り上げ、絶対音楽を至高のものとみなす古典派・ロマン派の音楽はシニフィアンとシニフィエの解離した音楽だとするのである。
 そして議論は「シュレーバーの音楽」の最後を飾る、マーラーからシェーンベルクという流れを追うことになる。

 著者は歌詞がシニフィエで、音楽がシニフィアンと言い切っているわけではないが、結局、議論の方向からしてそういうことになるように思われる。この点はいささか問題。歌詞にもシニフィアンとシニフィエがあり、音楽にもシニフィアンとシニフィエがあるはずだからである。しかしながら音楽のシニフィアンとシニフィエをどう捉えうるかは、音楽記号論の領野になるのだろうが、かなり難しいことも確かである。そして、私はシェーンベルクの音楽も、それ以降の音楽、例えば著者も言及するジョン・ケージの音楽も、たぶん、何らかの意味を感じて楽しむことができる。
 と反論を試みつつ、巷で人々が楽しむ音楽が──インストルメンタルもないわけではないが──、ことごとく歌詞付きの音楽であることを考えると、著者の言い分ももっともであろうかとテレビの歌番組を脇目で見ながら思うのである。
 しかしながら、「狂気」もまた楽し、というのが音楽の本質なのではないかな。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: クラシック音楽
感想投稿日 : 2016年2月5日
読了日 : 2016年2月5日
本棚登録日 : 2016年2月5日

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