チャイコフスキーがなぜか好き 熱狂とノスタルジーのロシア音楽 (PHP新書)

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  • PHP研究所 (2012年2月14日発売)
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 数年前、急遽、チャイコフスキイの弦楽セレナードで舞台に乗ることになった。1カ月で合奏から脱落しない程度に難しい譜面をさらわなければならず、文字通り気が狂ったように練習した。自分のパートをさらうのはきつかったが、合奏練習に行くとそれは喜びに変わった。冒頭のノスタルジーをかきたてられる旋律、見たこともないのに「ロシアの大地」などという言葉が頭に浮かぶ。他方、第1楽章主部のテーマの何たる典雅。あるいは通俗に堕ちそうで堕ちないワルツ。エレジーのセンティメント。そして快活でも優雅なフィナーレの最後に戻ってくる冒頭の旋律の感動。チャイコフスキイとの蜜月を過ごしたのである。
 でもチャイコフスキイはなぜか好きではない。では嫌いかというとそういうわけでもない。交響曲も弾いたことがあるが、弾いて楽しく、聴いてすばらしい作曲家だと思う。でも、これから死ぬまで全くチャイコフスキイを聴かなくとも平気。

 だから『チャイコフスキーがなぜか好き』と言われたって別に読む気はしないのだが、著者が亀山郁夫なら、手に取ってみるし、20世紀までのロシア音楽全般に言及されているのなら、「ロシア音楽はなぜか好き」だから、読んでみる。
 最初のほうで、われわれがロシア音楽に漠然と感ずる何かを、しっかりと言語にしてしまうあたり、さすが亀山郁夫。それは副題にある通り、熱狂とノスタルジーである。そして時として風刺やアイロニーが含まれる。チャイコフスキイはアイロニーを欠くが、ムソルグスキイにはそれがある。そのことを20世紀に継承したのが、プロコフィエフとショスタコーヴィチである。だから評者はショスタコーヴィチに愛するが、プロコフィエフは美しいと思いつつ、距離を感ずるのかと納得する。そしてチャイコフスキイもしかり。
 著者が音楽評論家の友人にチャイコフスキイの音楽がなぜ胸に届かないかと聞いた、その返事というのも面白い。作曲家なんてみんなナルシシストだけど、音楽への愛が自己愛を上回る瞬間が必ずある、しかしチャイコは音楽よりも自分のほうが大好きだったんだろう、というのである。

 さらにもうひとつの大局観は、正統ロシア的で異教的なモスクワと、西欧的であるがゆえに異端のザンクト・ペテルブルクの対比である。そうしたいくつかの軸を示しながら列挙されるロシアの作曲家たちの解説はとても見通しがいい。チャイコフスキイまでの音楽は「熱狂とノスタルジーのロシア音楽」と題された章で語られ、スクリャービンからショスタコーヴィチまで、すなわち革命とテロルの時期は「暴力とノスタルジーのロシア音楽」と題されている。
 「雪解け」以降のロシア音楽の章では、デニーソフ、グバイドゥーリナ、シュニトケ、ペルト、カンチェリ、シリヴェストロフ、ティシチェンコが取り上げられているが、熱狂—ノスタルジー、有機的—無機的、キリスト教的—異教的、キャベツタイプ—たまねぎタイプなどといったいくつかの二稿対立でその特徴が分類されているところが面白いし、なるほどと思う。

 この章を読みながら、無性に聴きたくなって、最近ご無沙汰のシュニトケやシリヴェストロフなどのCDをとりだしてきたのだが、しかし、それでもチャイコフスキイを無性に聴きたくはならず、ただ、弦楽セレナードだけ聴き直してみた。美しい。

読書状況:未設定 公開設定:公開
カテゴリ: クラシック音楽
感想投稿日 : 2016年2月4日
本棚登録日 : 2016年2月4日

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