文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

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レビュー : 420
著者 :
迷羊さん  未設定  読み終わった 

夢十夜の「第四夜」について書く。

 この話には、「臍の奥」に住み、「あっち」へ行こうとしているほろ酔い加減の幾年か分からない御爺さんが登場する。御爺さんは手拭を出し、「今になる、蛇になる、きっとなる、笛が鳴る」などと唄いながら河に入って行き、「深くなる、夜になる、真直になる」と言いながら見えなくなるまで歩き続ける。よくよく考えると手拭が蛇になるはずはないのだが、〈自分〉は酔っぱらいの御爺さんの言うことを信じてじっと待っている。けれども御爺さんは、子どもの〈自分〉に期待を持たせたまま河から上がってくることはなかった。
 一見、御爺さんが〈自分〉を騙したように見えるのだが、その様子にはなぜか物悲しさを感じる。御爺さんは笛を吹いたり輪の上を何遍も廻ったりと様々なパフォーマンスを披露するが、浅黄色の手拭は何も変化しないままである。御爺さんのこの行動からは、何かを成し遂げようとして様々なことを試みるものの結局それが叶うことはない、という人生の儚さのようなものを感じた。しかし、子どもたちに自分の生き様を見せつけ、御爺さんはいなくなったのだ。それは無謀な挑戦だったかもしれないが、御爺さんは最後まで唄いながら真直ぐ歩いていった。御爺さんは、蛇は人に見せてもらうものではなく自分自身で見つけるしかないものであり、蛇という理想へ辿り着くためには細い道を歩かねばならない、ということを〈自分〉に示してくれているのだろうと思う。
 一方、〈自分〉は最後の最後まで御爺さんが手拭を蛇に変えるものだと信じて疑っていないし、河の中に入って見えなくなってからもたった一人で何時までも待っている。ただ待っているだけで、自分から河の中に入って御爺さんを探して見ようとは微塵も思っていない。人を心から信じられる純粋さは尊いものだと思うが、いくらか行動力に欠けているように思う。見ているだけでは何にもならないし、待っているだけでは何も始まらない。自分から河の中に飛び込んでみなければ、何時まで経っても何も分からないままなのではないだろうか。
 また、河の中に入って行ったのは御爺さんだけで、〈自分〉は河の傍でそれを眺めているだけであった。河の中で何が起こっているのか。それを知っているのは河の中に入った御爺さんだけである。もしかしたら、〈自分〉はまだ河の中に入れないのかもしれない。それを眺めることはできても、実際に河の中に入ることはできない。河の中の様子は実際に入ったことのある人間にしか分からず、しかも、一旦その中に入るともう二度と出てくることができないのではないだろうか。河の中に入るという行為は、死そのものを表現しているのではないだろうか。

【補足】
 この作品全体を通してみると、人間の一生を表現している作品ではないかと思った。「臍の奥」に住んでおり、「あっち」へ行こうとしている御爺さん。店の中にいる御爺さんは、「臍の奥」、つまり子宮の中に住んでおり、ほろ酔い加減で未だ存在が確定していないのではないか。そして、店を後にすることでこの世に生れ落ち、「あっち」へ向かって人生を歩み始める。そこで、「蛇になる、今になる、きっとなる」などと唄いながら子どもたちに様々なパフォーマンスを披露する。最後に、河に入って行き、〈自分〉の前からいなくなってしまい、二度と上がってくることはない。この一連の行動が、人間の生き様を描いているのだと思った。

レビュー投稿日
2011年10月14日
読了日
2005年12月14日
本棚登録日
2011年10月14日
3
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