憲法学者であった久田栄正は、ルソン島で九死に一生を得て帰還し、戦争放棄を含む平和憲法の誕生に感激し、その後の人生を憲法成立史に注ぎ、北海道での自衛隊を巡る闘争の弁護をつとめ平和憲法の普及に残りの人生を捧げた。本書はその久田がルソン島でメモしておいた記録をもとに書いた自費出版の書『戦争と私』に感激した本書の著者水島が、久田に何度となくインタビューをし、久田が戦時中置かれたルソン島での攻防を戦史の中で位置づけるとともに、他の生き残った人たちの記録と突き合わせ、より正確な本にしたものである。ぼくは久田が、ぼくの妻の実家である石川県の鶴来町に生まれたということでまず親しみを感じた。もっとも、かれは4歳の時に北海道で旗揚げしようとした父について北海道へわたった。久田は軍人が嫌いで、どうすれば徴兵を免れるか考え、せっかく入った銀行を途中で辞めたりしたが、結局そのあとに入った小松製作所で徴兵された。その久田の見た軍隊は暴力と非合理性の横行する世界であった。かれはその中で自分の良心になるべく忠実に生きようとした。人を殺したくないということで、かれは会計と物資をあつかう主計課を選び、最後まで渡り歩いた。かれが最後まで生き残った一つの要因だが、かれの部下たちの大部分が戦死したことを考えると、生死はやはり紙一重と言わざるを得ない。かれは、満州を経てルソン島へ派遣されるが、そこでの戦いは熾烈を極めた。その中でかれが見たものは戦場から我先に逃げだそうとする上官であり、物資の少ない中で、肉をよこせだのリンゴをよこせだのと迫る上官たちのみにくい姿であった。かれは、主計係としてそうした要求を断固拒否した。これは軍の中では勇気のいることであったろう。戦記物を読んでいていつも思うのは、上に立つ者が無能なことである。そもそも、兵の死などなんとも思っていないのではないか。こんな上官に命令されて死んでいった兵たちはなんと哀れなことか。(こうした上官は結局生きて帰ってくるのである。そして、多くは自分のやったことを正当化する)久田が戦後憲法学者になる萌芽は、捕虜時代に法律論争をやり、それを克明にメモしたことだ。久田は帰還後も、まだ戦争が起こり、戦争に行かされるのではないかという不安に襲われたという。その霧が晴れたのは,平和憲法の発布であった。ぼくは憲法はこのままでいいとは思わないが、当時の人々がそれをどんな気持ちで受けとめていたかを知ることは大事なことだろう。/ 気になって買い、しばらく積んでおいた本だが、最近気になって読んで見た。いい本である。ただ、フォントが小さいのは最初苦痛で、読むのをやめてしまおうかと思ったほどだ。
- 感想投稿日 : 2017年10月29日
- 本棚登録日 : 2017年10月29日
みんなの感想をみる