実は本書を読んだのは、『芭蕉という修羅』という本の書評を新聞で読んだからだ。すると、嵐山さんの前著『悪党芭蕉』もかなりの評判で、こうなったら両方買うしかないと思って、2冊注文し、『修羅』も気になりつつ、前著から読んだというしだいである。『悪党』は古書で買ったが、2007年で11刷り。そのあとは文庫本になった。こういうとき、文庫本はけっこう字が小さく読みづらいので、ぼくはあっさり古書でもとの本を買うようにしている。そして、それは正解だった。本書は芭蕉とその弟子たちの句会を中心にした俳句と行動を細かく描きつつ、弟子たちの間の争い、離反、そしてそれに関わる芭蕉の行動を分析している。句会における芭蕉はなかなか強い。そんな強い芭蕉に反感をもつ弟子たちもすごい。芭蕉は大阪で亡くなるが、それも弟子たちの争いの調停に行ったがために無理をして病気をこじらせた結果である。そして、その葬式にこなかった弟子たちもいる。芭蕉というと、なにか俳諧の聖人のように思うのだが、実際は弟子たちとの関係を含めどろどろしているのである。そのどろどろは実は芭蕉の衆道(男色)と関わっているようだ(もっともかれは妾もいて両刀遣いである。さらに、本書によれば弥次喜多道中の二人もそういう関係であったらしい。まあ、江戸時代では驚くようなことではないが)これはこの世界では永くタブーだったようだが、嵐山さんの前にそれを問題にする人が出て、公然の事実となった。また、芭蕉は単なる俳人ではなく、水道工事の専門家でもあり、だからこそ伊賀上野から東京へ行ったのだそうだ。これまでの芭蕉のイメージを大きく塗り替える著作である。
- 感想投稿日 : 2017年7月9日
- 本棚登録日 : 2017年7月9日
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