梨木香歩は非常に批判精神の強い作家です。
作品ごとにその傾向は強まって、というか、よりむき出しになって来ているように思えます。本作品でもいくつかの具体的な事例が、それと分かるように提示され批判されていました。
しかもその内のひとつは、本書と同じ出版社が出す人気シリーズの一冊。批判の内容にはうなずける箇所もあり、「インジャ」の身に起きたことにはぞっとしたものの、しかしこのエピソードがあくまでも(おそらく)フィクションである以上、これを当該作品・著者へ批判の根拠とするわけにはいきません。エピソード自体が物語の中でも浮いているようで、ここは少しもやっとした部分でした。
一方で、安易な「命の授業」への批判をあらわしたエピソードは、作品の根幹のテーマに関わるものとしてうまく組み込まれていたと思います。
教室の中で、ふと顕現する集団と個人のパワーバランス。熱血教師の中にある無意識の嗜虐心。それらに違和感を覚えながらも受け流してしまったコペル君。自分がそうとは知らないまま「集団の圧力」に屈し友人を裏切っていたことに(そして自分が忘れている間にも、傷ついた友人の方はずっとそのことについて考えていたことに)コペル君は立ち直れないほどの衝撃を受けます。これは、もちろんコペル君が卑怯なやつなのではなく、「個人」の側につくことは誰にとっても難しいのだということでしょう。それだからこそ「大多数/個人」という構図ができるのですから。
過去の闘争について聞いている時、ほとんどの人は(勇敢に闘った/集団の圧力に屈しなかった)個人の側に自分を重ねるのではないでしょうか。そして大勢の側についた人達を愚かと思うでしょう。すでに価値判断の済んだ出来事について、そう思うのはごく自然で簡単なことです。
しかし、いざそのような対立状況に置かれたとき、私たちは個人として立つことはおろか、対立状況にあるということに気づくことすら難しい。それを、コペル君の小さな事例は教えてくれます。一人ひとりのこのような鈍さにこそ、戦争という悲劇を呼び込む危険がある、というところまで作者は主張を広げています。
その点ではこれを「新しい戦争児童文学」(古田足日)として読むこともできるのではないか、と思いました。
最後のBBQのシーンには救いがあります。コペル君と、「インジャ」の女の子と2人の人間がこの場面で回復の兆しをみせています。そういえばこの作者はくり返し、ある種の、体温あるコミュニティ(「許し合える、ゆるやかで温かい絆の群れ」)を描いて来てもいるのでした(『からくりからくさ』『村田エフェンディ滞土録』など)。その意味でも非常に「らしい」作品だったと言えるでしょう。
- 感想投稿日 : 2012年8月14日
- 読了日 : 2012年8月13日
- 本棚登録日 : 2012年7月24日
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