序盤は圧倒的に引き込まれるのだが、後半あたりから徐々に中だるみしてくる。基本的には、フロイトとコフートの理論を元に分析を加えており、それがしきりに繰り返されているからであろう。フロイトとコフートの違いというのは、自我と自己つまり、心を機能=客体としてとられるか、主体として捉えるかということであるが、しかし、これを二人の自己愛的な原理に還元するとなかなかにややこしいことになってくる。とはいえ、この著書を読んでいる限りでは、著者自体がフロイトとコフートを混同しているように思えてならず、そのあたりでしっくりこない。原理的な部分ではしっかりと分類してくれているのだが、応用する際にはそれを無視している感が否めないのだ。なので、個人的にはエディプスコンプレックスなどで対処しようとするのがフロイトで、父親や母親、更には自らと同一性を持つ存在などとの関係に原因を求めようとするのがコフートといったところだろうか?
さて、そもそもナルシストとはなんなのか?フロイトによればそれは発達の過程にしか過ぎないが、コフートによれば「健康的なナルシスト」であることが一つの発達の最終形態であると述べられている。つまり、共感能力に極度に欠けていたり、極度にわがままでなければむしろ、誰しもがナルシスト足るべきであると言えようし、この論旨には賛成である。自らを愛すことこそが、ひとには最も重要なものであり、そのためには他者から愛されることが必要で他者を愛することも必要なのだろう。しかし、最終的に自分が愛すべきなのは自己なのであり、その自己とは客観的なものではなくて主観的な存在なのである。
個人的に心理学によるがちがちの定義というのは息苦しくて頭が酸欠になりそうになる。がちがちすぎて、全てを一つのモデルで説明しようとする考え方にはどうにも辟易してしまうのである。モデルは複数あってよくときには複合的にその症状に応用していくべきなのではないか?と個人的には感じる。この著書もやはりがちがちの定義によって解かれている傾向があってそのあたりに個人的に抵抗を感じたのだろうと思われる。だが、ナルシストと同性愛や偶像(アイドル)崇拝を結び付けているあたりはかなり実践的であると感じる。
つまり、健康的に自らを愛せないものは、極端なまでに自らを愛するか、あるいは、自らの代わりを得ようとする。自らの代わりが発露する一つの形態が同性愛であって、別の形態はアイドルなどを自らに投影して執拗なまで追い回したり、崇拝したりする心理である。個人的にもやはり後者の部類の人間には抵抗を感じるのだが、それはやはり言ってしまえば、プライドに見合っただけに自分を確保できずでは自分を埋め合わせるために自らを向き合うのではなくて、他者と同一化を測ったりするということに対してある種の嫌悪感を抱いてしまっているからなのかもしれないと感じた。
個人的には健康なナルシズムについて諸々述べて欲しかったのだが、終章が現代への警句だけで終わってしまっているのが甚だ残念ではある。二十年以上前の新書に文句をつけても仕方ないのだが。とはいえ、症例として挙げられている人々が面白いのである。ダヴィンチ、シュレーバー博士、岸田劉生、トーマス・マン、三島由紀夫、ヒトラー、チャーチルなど。理論をすっ飛ばしてこれらの章だけ読むのも一興かと。
- 感想投稿日 : 2011年6月23日
- 読了日 : 2011年4月28日
- 本棚登録日 : 2011年6月23日
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