日本仏教の思想 (講談社現代新書)

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  • 講談社 (1995年6月16日発売)
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まず初めに仏教思想(あるいはインド哲学)においては西洋哲学と張り合えるだけの哲学観が実は存在しているということかもしれない。無論、その深みにおいて負けてしまっているかもしれないが、しかし、確かに世界観が屹然としているといことがまず大事かもしれない。そしてそれは日本における仏教にも言えることで時代を上る旅に、大衆化世俗化されていく中で本来の仏教的哲学観が失われていってしまったということが現代の仏教=深く考えずにただあるがままを受け容れて経を唱える、あるいは修行するといった流れを作り出してしまっているらしい。著者によれば日本における仏教思想のピークは平安時代となっている。平安時代の後期にはすでに衰退し、その衰退を乗り換え更に「如来像思想=つまり誰もが仏となりうる」という思想が本物であるならば、今のように高名な僧のみが仏となりうるという仕組みは違うであろうと法然を初めとする鎌倉仏教を発展させた人物たちがあれこれ宗派を作り出すが、結果としてそれは日本仏教の中身を空疎化させていってしまうこととなる。それは室町、江戸と続いていき、明治に復活の兆しを示すものの、廃仏毀釈なども起こり、第二次大戦の頃にはまるで無力なモノと成り果ててしまっていたというのが著者の述べる日本仏教史の概略である。ちなみに仏教における著者がかかげる哲学観は、「空」と「実相」である。つまり、「空=何もない=無」か、「実相=あるがままに実在している」といった具合か?更にこの中間に実存がある。つまり、実相の裏側にそれでも存在している基体=有法といったものである。この有法というのはパソコンで言うOSでありハードであろう。で、その上に実在している諸現象=諸法はソフトというわけである。だから、この世界に花というハードがあるとすれば、そこに花という属性(花であるということ、色、香り……)がつくことで花は花として知覚されているといった具合だろうか?で、空や実相であるというのは諸法のことでありつまり諸現象がということであるからして、その裏側にあるハードについて述べるというのは、冠とがいう物自体やヘーゲルの絶対知覚、西田の純粋視覚などとかかわってくることになるだろう。つまり、物自体を絶対知覚や純粋知覚によって視る、といった具合である。ともかくしてこの相反するはずの、「空」と「実相」をいかにして理解するか?というのが一つの課題となっていたようだ。「空」は唯名論に対応するし(つまりプラトンのいうイデア的なもの=有法的)、「実相」は唯物論的であると言えよう。実際にこの二つの哲学観を弁証法的に止揚することが本質的な課題のはずだがそれはかなりの困難を極め、日本ではそれが融和されるにとどまってしまった。だがそれは日本人的な気質と合致するので、ある意味日本の土着的発展とも言えるが、そのことが西洋哲学的な絶え間ない哲学観の追求を封じてしまったとも言える。それは天皇崇拝にも当たるだろうし、内容もなのにただ崇拝しているだけという、崇拝者にとってはかなり強固なものでありながら、実は内容がないものとなりかねないのである。これは各宗教の原理主義にも該当するけれど。ただ、日本で重視されたのはやはり実相である。日本人はありのままに物事を受け容れるし、日本古来の感覚で言えば、梅の花が咲いていてこの梅の花が実在するかどうか?などとは考えないし、自分の認識も疑いはしない。ただ、香りや、咲き誇りをありのままに愛でるのが日本人的感性であろう。そしてここにアニミズム的世界観も加わる。だが、その世界観は世界を根底からつくるというよりは受け容れるという意味での世界観である。本著を読み、仏教を通しての西洋哲学理解、あるいは西洋哲学を通しての仏教理解の有用性に気づきを得たものの、現代の日本仏教の骨組みの薄さもやはり物悲しいものがある。世界認識から無縁すぎる日本人を作り出している責の一端は仏教にありそうだからである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 宗教(広義)
感想投稿日 : 2011年11月5日
読了日 : 2011年11月5日
本棚登録日 : 2011年11月5日

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