どうにも、雄二郎は彼の著作全般にわたって、近代哲学の主知主体主義へと反駁しているわけだけれども、その基軸として、場所論と共通感覚論(体性感覚論)が用いられている気がする。そして、場所(=トポス)と体性感覚両方を用いたものが、「箱庭」なのである。箱庭は、具体的に限定されたその場所の中へ、触覚などの感覚を用いて、表現しうるもの、なのである。そして、この表現によって、クライエントは自分の内的な葛藤を表出させることができ、結果として救われる、あるいは、掬われる。これは「臨床の知」である。この反対が一般的な医学であり、客観的や普遍的といった観念の元に行われる治療である。箱庭においては、大森の言葉を用いるならば、「活動的な略画的世界観が展開される」のだろう。逆に、客観普遍医学においては、「密画的な世界観が展開される」。確かに精密ではあるが、しかし、そこには、死物とされた身体の各部位があるだけである。これは、ドゥルーズの言葉を借りれば、「器官に縛られた身体」となるし、非常に実体にとらわれすぎているのである。他方、箱庭とは、非常に略画的であろう。早い話が一つの絵が出来上がるようなわけであるのだから。そこには、ダイナミックに力動が表現されている。どーんとね。もちろん、その箱庭がつくられる過程や、たいていは連作するらしいので、その連作まで見据えれば、「活動的な密画」に到達しうるかもしれないが。大森はここを目指すべきだと考えているが、それはいい。
ともかく、箱庭が雄二郎の求めているものとうまく合致したことは間違いない。ちなみに、ここで言う場所は、箱庭のような具体的な場所でもあるし、主語が収まるべき場所でもある。例えば、Aという人間がいる。そして、Aはかっこいい。Aは頭がいい。Aは走るのが速い。という言葉があるとする。このとき、<A>という主語が最初にあると考えるのが近代までの哲学観である。しかし、逆に、かっこいい、頭がいい、走るのが速い、というものが収まった枠組み=場所=トポスがあって、その一般的な枠組みの中に、特殊な存在=Aが入りこみ、Aはかっこいい、という言葉が出来上がるとするのが、現代的哲学観だと雄二郎は考えるのである。で、箱庭療法の場合はこれが箱庭になる。箱庭は作り手によっていくらでも顔をかえうる可能性をあらかじめ持っているのである。つまり、場所なのだ。そこにクライエント=特殊的な存在がやってきて、自分の無意識的な内的なイメージをつくりあげる。そして、自分の内的イメージをある意味客観視することで、主観と客観の両方を経験し、自分の内部の檻などが掬い出されることで結果として自分自身が救われるのである。こうしてみてくると、雄二郎はなかなかの哲学者である。完全に自分の哲学観を築いているし、そのわりには河合、木村以外では彼の名前があまり見られないのが残念である。
- 感想投稿日 : 2012年3月13日
- 読了日 : 2012年3月12日
- 本棚登録日 : 2012年3月12日
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