聖と俗: 宗教的なるものの本質について (叢書・ウニベルシタス)

  • 法政大学出版局 (1969年10月1日発売)
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感想 : 7

あれこれ言っているのだが、要約すればすこぶる単純な印象である。そもそも、我々の原初を見出していけば、やはり、「神々の世界」へと辿り着くこととなる。それは近代の我々が見出すというよりは、我々の祖先が見出していたもの、としてである。早い話が、どんどん遡っていけば、原始的な人間になる。それ以上は遡れないが、原始的な人間は、自分たちよりも前は、「神々の世界」だと考えた。ということは、原初の人間は、神話に従って、あるいはそれを「模倣」する形でものをつくった。早い話が家である。家とは、神の身体ではないか?そして、だからこそ、中心がある。中心があるということは、その空間は均質ではないし、だからこそ聖なる空間である。もっと言えば、そもそも、人間自体が神の模倣によってつくられたものであるではないか?かくして、我々とは、元来が、<宗教的存在>であり、「聖的存在」なのである。

だが、今や、家は中心を失い、ただの均質な空間と成り果てている。人間は神の模倣ではなくて、神とは後付で考えられた存在でしかない、とすら考えられる(この考え方への批判みたいなのをエリアーデにききたいのだけれども。エリアーデはだからこそ人間とは神聖なる存在だとでも言ってとんちんかんな会話にでもなるのだろうか?)。ただ、今現在も、「通過儀礼」なるものがあることからも見受けられるように、我々は<非宗教的存在>となりつつあったとしても、なりきれてはいない。早い話が、名残があるからである。だが、名残が有るということは我々がかつては宗教的存在であったことの傍証となる。そして、今はその名残がどこに眠っているのかと言えば、「無意識」である。

といった具合に、ニーチェ・フロイト以降の近代思想・哲学観の非常にありふれた形がここにおいても示されている。まあ、無意識へと宗教性を追いやったのか?あるいは、無意識に見出しのか?という違いはあるだろうけれども。ともかく書かれていることは非常にたいしたことはないが、フロイト・ユングを学ぶ上では参考になることも多々記されている。宗教的象徴解釈などである。とはいっても、ほぼ「死」と「生」、更にはその間の繋ぎとも言える「移行」によって語られつくしてしまう形となる。ただ、個人的に気になったのは、「幾何」との関係性である。幾何=神の領域とも考えられていたはずであるが、不均質=神の領域だとすれば、幾何の対象性=完全性という考え方はまるまる否定されてしまうのではないか?まあ、幾何=哲学的神聖、不均質=宗教的神聖なのか?とはいえ、幾何とはつまり厳密な幾何は実在しないというところを考えれば、現実のほうが不均質で、均質が存在することのほうが神的空間に思われるのだけれども、そのあたりどうでしょう?

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 宗教(広義)
感想投稿日 : 2012年4月15日
読了日 : 2012年4月15日
本棚登録日 : 2012年4月15日

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