原子爆弾とジョーカーなき世界 (ダ・ヴィンチブックス)

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  • メディアファクトリー (2013年6月21日発売)
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感想 : 11
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エヴァンゲリオンについての評論がいちばん興味深かった。これまでのエヴァについて“「つながり」の手段が変化する一瞬、それが見えなくなった瞬間の不安を敏感にとらえた“という指摘には目から鱗が落ちた。

また、賛否両論を引き起こした「Q」については“積極的かつ的確に「現代」を切り取ろうとしている”と位置づけ、旧エヴァを引き合いに出しながら「Q」の物語の本質に迫ろうとしている。

人類補完計画と、昨今のソーシャルメディアの発達を重ね合わせることはおそらく妥当であろう。そしてネルフとヴィレの対立を、近代とポストモダン、古い男性社会と新しい女性社会に読みかえたのもしっくりきた。(恥ずかしながら、自分は「Q」の超展開についていくのがやっとで、そこまで深く考察できなかった)

確かに「Q」には古い時代の悲鳴しかなく、新しい何かを提示しきれてはいない。「序」「破」が二次創作の域を超えていないというのもその通りだ。

だが、「破」における綾波の大きな変化や、「Q」のラストにおける、シンジとアスカと綾波が三人で歩きだす場面に、うまく言葉にできない新しい何かを感じた自分がいたのも確かだ。単なるキャラクターへの愛着以上のものがそこにはあった。

僕はこう思う。
新「ヱヴァ」と旧「エヴァ」はやはり一続きの物語なんだと。“「つながり」の手段が変化する一瞬、それが見えなくなった瞬間の不安”という過渡期における特殊な状況を表現したことがこの作品の最大の意義だと総括してしまうのは、全然しっくりいかない。

エヴァはまだ、90年代後半の、日本の特異点(しかも歴史的にかなり大きな意味を持つ転換点)の意味を完全に総括しきれていないのではないのだろうか。あの作品が本当に伝えたいことは、ソーシャルメディア隆盛直前のあの時期ではなく、人類補完計画がカジュアルに達成されてしまった今だからこそ有効性を持つのではないだろうか。

つまり、つながる理由がなくなって(=社会的な要請が薄まって)、つながる手段も提示されない(=ツールを持っていない)という状況は、日本の歴史の中で見れば特殊かもしれないが、人間が陥る状況として置き換えてみると、普遍性を持つ。

それは言葉で表すならば、宙ぶらりんであり、自由であり、フラットな孤独だ。

言語やコンピューターがいかに発達しようと、僕たちは常に「フラットな孤独」に陥る可能性から逃れることはできない。これまでも、おそらくこれからもずっと。そこでいかに「手をつなぐか」という問いは、まだまだ考える価値のあるものではないだろうか。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 教養
感想投稿日 : 2013年6月24日
読了日 : 2013年6月23日
本棚登録日 : 2013年6月10日

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