小論理学 下 (岩波文庫 青 629-2)

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現実的なものは理性的で理性的なものは現実的。だって同じひとつのものだから。

考えて、わかる。なんて現実的で理念的。
件の小論理学。
在るから始まって、本質、現存在、現象、現実、概念、そして、理念へと帰る。ぐるっと回ってまた振出しに戻る。

確かに彼のことばは敷居が高い。先を読んでは戻ってようやくみえる。それでも、彼の考えのリズムに乗っかれば、するっと自然に入ってくる。
在るということは、それ自体であると同時に、その有限性はないものではないという否定によって裏付けられる。在るは無いに、無いは在るによって関係づけられる。それは無限の対立のようだが、どちらも、在るということばが、無いということばが、「ある」。このきれいな三段跳び。
観念的で自己中心的という批判を耳にしたことがあるが、そんなもの、彼はとうに見越してきっちり言っている。すべては自己の動きだと。他者なんていないのだ、と言っているのではない。他者が存在できるのも、ひとへにこの自己の存在ゆえだと言っているのだ。観念的というのは、何かが「在る」ということなしには、わかることができないと言っているのだ。
マグリットは彼の考えを二項対立なものに敏感で…としてそういった絵を描いている。ヘーゲルの休日とか、弁証法うんぬんとか。彼は別に二項対立が好きなのではない。表と裏もどちらもひとつのもの。裏が表で表が裏。なんだひとつのものの一側面を切り出しただけじゃないか。真に現実とは、理念とは、裏も表もどちらも含むものではないと、それは現実ではない。そういうのは悟性の働きにすぎない。二項対立の部分だけ取り上げるのは弁証法とは言わない。

あとがきによると、彼の考えは誤っているという。それは、現実には「ある」一般が存在しないからだという。また、思惟の主体が世界の創造者だというところもいけないらしい。それが神的だとか。
まず、現実に「ある」一般がないということ。すでに現実というものが「ある」ではないか。なんだその現実一般っていうのは。
次に思惟の主体が世界の創造者だとしたところ。「在る」ということなしに考えられるようになってから出直しなさい。「ない」ことには考えられないから。在るということから世界が生まれるのだ。なぜそれに驚けない。
正しく彼を批判するなら、彼が「在る」というところを認めているというその点だ。なぜ、在ってしまったのだろうか。どうして考えているのは他でもないこの「自己」なのか。ハイデガーの切り口だ。
存在という当たり前のことを考えているのに、難解だというのは何を言っているのだろうか。

彼の功績はなんといっても、哲学を論理という形として現存在させたところにある。だが、論理は哲学そのものではない。それでも、哲学は論理というひとつの形を求めたのだ。これがいつも不思議でならない。思惟は居ながらにして宇宙へと誘ってくれる。

存在が意志する、そのことが善。正しさと真理は違う。正しさは単なる一致の状態。何と一致しているかは言及しない。一方、真理とは、概念という自己との一致である。自己とはこのちっぽけな奴のことではない。存在が求めるということは、それ自体が概念と一致している。善は存在に裏付けされている限り、実現されつつあると同時に実現されている。理想というものが、それを求める現実によって実現されているように。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 評論・哲学・宗教
感想投稿日 : 2015年4月24日
読了日 : 2015年4月24日
本棚登録日 : 2015年4月24日

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