民族という名の宗教: 人をまとめる原理・排除する原理 (岩波新書 新赤版 204)

  • 岩波書店 (1992年1月21日発売)
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つむじまがりが考える民族、それから宗教。民族がどういうものかとか、宗教がとういうものか考えるには、今までにどういうものが民族あるいは宗教と呼ばれてきたか考える帰納的な方法に、民族あるいは宗教ではないものから民族や宗教を考えるという方法がある。
さて、つむじまがりの彼はどう考えるか。彼は、宗教や民族を必要とした側から考える。つまり、なぜ、それがなくてはいけないのか。民族や宗教が必要とされているという前提のもと、演繹的に考えていく。
内容紹介の見出しには粘り強い対話と銘打っているが、決して粘り強くはない。たくみに痛いところをかわして、対話という物語を形成している。ひとは集団をつくらずにはいられない、このことを認めたうえで考えれば、民族というのは必要とされた宗教だと論理的に言える。彼はこの限界点を自覚しておそらく書いている。だから、基本的にはおおざっぱでいいのだ。だってこれは物語だから。
なぜひとは集団をつくらずにはいられないのか、どうして集団をつくれるのか、この点に関しては触れられない。そして、民族が宗教だと言い切るのなら、なぜ国家や国民という考えを宗教だと言い切らないのか。彼はひとは集団をつくるということや国家というものを信じているからだ。「信じる」というこの一点については次作まで待たねばならない。
理由づけなどいくらでもできる。起きたことにはどうとでも言える。彼はよく知っていた。彼の見方に従えば、ユーゴスラビアの紛争はこのように見える。物語とは、ほんとうにあったかどうかなんて問題にしない。物語から得なければならないのは、批判精神だ。
社会主義は過去の遺物だと言うひとがいるかもしれない。しかし、社会主義が現に存在したという事実は誰にも揺るがさられない。社会主義の物語がある以上、なにがしかの見方があるはずだ。その物語を必要とした精神があるはずだ。それが批判だ。それをしないで資本主義万歳と社会主義を捨て忘れるのは「もったいない」。そんなわけで彼は「リサイクル」という批判を行うのだ。これが「抵抗」としての社会主義だ。新しい社会主義などでは決してない。それに彼は主義というものがただの信仰だと言い切っている。
決してこの対話は建設的なものではない。彼は決して革命家ではないからだ。いや、ひょっとすると、「書く」という行為でそれを成し遂げようと考えていたのかもしれない。もう彼の生きたことばを聞くことはできない。しかし、彼は、現実に社会主義がすたれて、資本主義といわれる世の中に生きているというその事実に決して耳を塞いでいない。その一点において常に彼はまっすぐなのである。要はそういう信仰との「おつきあい」としての対話なのである。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 評論・哲学・宗教
感想投稿日 : 2015年12月17日
読了日 : 2015年12月17日
本棚登録日 : 2015年12月17日

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