おそらく、彼の遺したあらゆる著書の中で、これが、一番やっかいで、また彼の人生と言ってもいいかもしれない。
宗教の歴史的経緯とか位置づけとかはそんなもの学者に任せておけばいい。そんなことよりも、宗教はなぜ必要とされてきたのか。宗教を望むひとの精神、これは一体なんだ。神がいるいないとかの不毛なことを考えているのではない。神を望むのも、神を維持するのも、ひとえに同じ人間の心性だ。これ以上でもこれ以下でもない。ならば、ひとの精神に向かって生きてきた自分がこの心性を考えなければ誰が考える。
このことを考えるのはかなり骨を折ったに違いない。正常・異常など、ただのことばにすぎない。ということは、自分が正常だとも異常だとも言えてしまう。自分の生がオセロのように簡単にひっくり返されてしまう。そんな可能性をはらみながら、宗教を考えていくと、どうもその始祖たちも同じところに行き着いたように思える。始祖たちの成し遂げた革命は、対立を超えた統一、ヘーゲルなら弁証法と呼んだそれだった。
そこから2000年あまりが経った。始祖たちの思惑を外れ、世界は再び対立の中に後退していった。ひとの精神がこれを起こしてしまったのなら、再び統一に向かうのもひとの精神だ。精神医療は、そこに向かっていってほしい。人生の終わりにあたって彼が託した希望と言っていいだろうか。
ひとは何かを信ぜずにはいられない。信仰のない、というのを考えることはどうも無理なようにできている。そんなことに気付くとき、何を信じるかで争うのはなんと不毛なことか。始祖たちの出発点が見えてくる。原理ではなく、この原点へ。それはすべてのひとに開かれている。慣習を捨てた先に待っていたのは、なんとずっと変わることのないこの慣習だった。
- 感想投稿日 : 2015年12月17日
- 読了日 : 2015年12月17日
- 本棚登録日 : 2015年12月17日
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