なんと息の詰まる、孤独の絶望よ。
描けぬもの・語れぬものが、もしも形を成したとき…
語れぬはずの存在が、語れるものとしてこの世に現れ出てしまったとき…
悲劇さえもよせつけない、どん詰まりの孤独が支配する生。
これを単なる不義や近親相姦などと読んでは、このどん詰まりの孤独がわかるわけもない。ひとり誰にも言わず胸に秘めたまま死ねばいいはずの彼女が、なぜ「書いた」のか。深淵を覗き込んだ彼女がなぜ最期にことばにすがって手紙を書いたのか。秘密を抱えきれずつらいだなんてそんな甘ったれたものではない。やむに已まれず、彼女は書かねばならなかったのだ。下世話な三文小説だと思うのなら、その程度なんだろう。
「わたし」という存在は、男女のしかるべき行為でこの世に産み落とされるのではない。たしかにこの肉体は受精卵の卵割により発生したものだ。だが、この肉体に「わたし」が宿されているというこの事実は誰のものでもない。ただそこにあるのだ。理由なんて、ない。
それを夢野久作は虚構の中で語ろうとしてしまったのだ。しかも独白(モノローグ)という形で。さらにはもうひとりの「わたし」である、孤独な「わたし」に向けた手紙として。当然、輸入の学問に頼る人々にわかるわけもなかろうに。
観念が形をなすということは目で見えるものではない。生きてそこに在るということでしか「知る」ことができない。だから、彼が描くこの物語もまた、観念がこの世に眼に見えるものとして産み堕とされてしまったら…という観念でしかない。そんな限界の中、彼は話し言葉による書簡形式をとったのだ。しかも、同じ観念に向けて差し出すという。
さあ、書いたのは誰で、宛てられたのは誰なのか。
- 感想投稿日 : 2015年1月15日
- 読了日 : 2015年1月15日
- 本棚登録日 : 2015年1月15日
みんなの感想をみる