自分とは何者か。
それに対する答えが、我々の「内部」にあると思うことは、二重の意味であやまっている。
あとがきで村上龍が書いているように、「内部」と思うところにはなにもないのだ。
それどころか、「内部」とそれに対する「外部」なるものなどそもそも存在しないのである。
あるのはひたすらに「表面」であり、そのうえに絡み付いている「関係性」のみにすぎない。
しかし、この「関係性」というものがまた厄介なのだ。
階級は見えにくくなり、ときに消滅し、しかし支配され続けている。
支配/被支配を隠すために、われわれは再び疑似の階級を生み出す。
他者に意志を伝えるとき、意志もまた情報の一つに過ぎなくなり、言語に頼ればこのときメディア=言語は、もはや媒介というよりはるかに障害となってしまう。
これら「関係性」をめぐる問いに、『イビザ』がすべてこたえているわけではない。
第一、そのように答えを出せるとも思えない。
なぜならこれらの問いは、答えを出せばただちにそこで再び問いが生じる類のものだからである。
ただし、この作中では「モロッコの熱風」が最も明確な形でこれらのことに触れている。
そして、おそらく、ひとつの(あくまでも、ひとつの)答えを出しているように思われる。
そして、それは『五分後の世界』にも通じるものである。
進化を促すのは、知能でも創造性でもない。それは、逃げ続ける力、境界を平気で侵す力なのだ!
読書状況:読み終わった
公開設定:公開
カテゴリ:
日本小説
- 感想投稿日 : 2012年8月28日
- 読了日 : 2012年8月18日
- 本棚登録日 : 2012年8月18日
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