1994年上梓、純度の高い傑作。

時は第二次大戦前後。舞台は米国ワシントン州の西にある孤島サン・ピエドロ。島民は約5千人、1920年代には多くの日本人が移住し農業などに従事していた。今では、その二世らも大人になり米国籍を取得できる日を待っていた。だが、大東亜共栄圏という虚妄の大義を掲げ、覇権主義をひた走る〝祖国〟によって望みは打ち砕かれた。1941年12月8日、真珠湾攻撃を発端に米国との無謀な戦いを始めた日本。敵国の人間として在米日本人は強制収容所へと送られた。二世男子の少なからずは米兵として従軍、主にヨーロッパ戦線で対ナチスの地獄を味わう。その命懸けの〝愛国心〟の発露も虚しく、帰還した足に絡みついたのは依然として根深いレイシズムという鎖だった。

日本敗戦から10年が経った1954年9月16日。沖一帯が濃い霧に覆われた早朝、漂っていた漁船から刺し網漁師カール・ハインの死体が発見された。当初は事故死と見られていた。自らの船で転落し、漁網に絡まり身動きが取れなくなったことによる水死。だが、船内の状況と漁師らへの聞き取りにより、他殺の線が浮上。保安官は、間もなく容疑者を特定する。日系二世カズオ・ミヤモト。カールの幼馴染みだったが、二人の間には父親の代から続く土地を巡る因縁があった。

本作が優れている点を挙げれば切りがない。現在と過去をドラマチックに繋ぐ構成力。数多い登場人物を描き分け、しっかりと印象付ける造形の分厚さ。戦争と差別に翻弄された人々の苦悩を軸に、人間の尊厳を問い直すアクチュアルなテーマ性。
多民族国家としてのアメリカが抱える闇。作者は、人間の尊厳を踏み躙る社会を物語の根底において批判しているのだが、特筆すべきは、その公平な視点が最後まで揺らぐことがない、ということだ。日本人移民を取り上げているが、例えどこの国の者であっても、スタンス不変の気高い倫理観を感じさせる。
黒人や先住民族らへの差別が潜在意識に染み込んだ米国社会に於いて、日系人だけが例外となるはずはない。しかも、わずか10年前は憎むべき敵国だった。陪審員は提示された事実を吟味することなく、歪んだ先入観/偏見のままで結論を出そうとする。この辺りの流れは非常に怖い。現実社会に於いても、偏見に基づいた数多の冤罪が生み出されてきたであろうし、米国の陪審制が抱える大きな問題点をも本作は抉っている。

物語は法廷シーンから始まる。裁判の進行と共にカール・ハイン事件に関わる者の背景が過去へと遡り、徐々に明かされていく。

状況は全てカズオには不利だった。検事が提示した物的証拠は、カールの船にカズオが乗り込んでいたことを裏付けた。また、カールの妻は、事件前日も二人が激しく言い争っていたと証言した。カズオは殺人容疑を否定するが、結果的にカールとのやりとりを隠していたことが災いし、追い詰められた。
その様子を一人の男が傍聴席から見詰めていた。島で唯一となる新聞の発行者兼記者のイシュマエル・チェンバーズ。太平洋の戦地から帰還後、死んだ父親が一代で築いた稼業を継いでいた。戦場で片腕を失ったイシュマエルは日本人に対する怒りがくすぶっていたが、そこにはより複雑な感情が絡んでいた。被告人カズオの妻、ハツエ。少年期、イシュマエルは彼女を愛していた。それを阻んだのは人種という厚い壁だった。その隔たりを理解しつつも、一方的に彼女に裏切られたという屈折した恨みが薄れることはなかった。そしてこの時、粛々と進行する審理を傍観していた隻腕の男は、カールの死の真相に繋がる事実を掴んでいた。ハツエが愛する男、カズオ。ハツエを愛した男、イシュマエル。言い知れぬ愛と憎しみの中で新聞記者は身悶える。

物語の大半を占めるのは、事件に関わる主要人物の回想となる。下手な作家であれば中弛みの要因ともなるが、グターソンの静謐で詩情溢れ...

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2023年9月9日

読書状況 読み終わった [2023年9月9日]

ドイツ統一を掲げた大衆運動が、西ドイツを揺り動かしていた。煽動する指導者は、博士号を持つ実業家カーフェルト。謎の多い人物だった。最終目的地となる首都ボンに向かって国内を縦断する「行進」が続く中、英国大使館では別の問題が立ち上がっていた。現地採用の臨時職員リオ・ハーティングが、前触れ無く機密文書とともに姿を消したのだった。紛失したファイルは40数冊に及び、英独間の協定に関わる極秘記録が含まれていた。露呈すれば反英感情を煽るカーフェルトの追い風となり、英国の立ち位置はさらに後退する。即刻、外務省は公安部員アラン・ターナーを派遣し、真相を追わせる。徐々に明らかとなるリオの実体と真の狙い。事態は思わぬ様相を見せ始める。

1968年発表作。スパイ小説の金字塔「寒い国から帰ってきたスパイ」(1963)の後、渋い秀作「鏡の国の戦争」(1965)を上梓、本作と未訳の自伝的小説を挟んで、中期の代表作「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」(1974)へと続く。ル・カレが作家としての成熟を深めた時期でもある。

「ボンは死人の出た暗い家だ。カトリックの黒衣をまとい、警官に守られた家。警官たちの革の制服が、街燈の光にきらめき、その頭上に、小鳥のような黒い旗が垂れ下がっている」
プロローグでの暗鬱だが抒情的なレトリック。本作執筆時、ル・カレはまだ30代半ばだが、濃密な筆致には老大家のような貫禄さえある。どこまでも深い霧の中を歩むようなスタイルは、次のスマイリー三部作で頂点に達し、かつてない晦渋な〝スパイ文学〟を確立した。
「ドイツの小さな町」は、微に入り細に入り描く手法を本格的に取り入れた作品だが、文体はともかく、プロットはスリリングで読み応えがある。序盤こそ遅々としたテンポで焦点が定まらないが、物語の骨格が明確となるにつれ緊張感が増し、終盤まで一気に読ませる。

主人公はジョージ・スマイリーの分身とも言うべき公安部の敏腕アラン・ターナー。だが、主軸となり全体を動かすのは、終始姿を見せることのないリオ・ハーティングである。ドイツ敗戦の混乱期から英国大使館内で地味な仕事に従事していた臨時職員。実務に長け同僚からの評価は高いが、素性に不明瞭な部分があり、高官からは今もアウトサイダーとして扱われていた。特に大使館官房長ブラッドフィールドには私的な件でも含む所があるようだ。ターナーは、極めて閉鎖的な高級官僚、凡庸な官房部員や守衛、俗物の西ドイツ公安局長官らに苛立ちながらも、情報収集で得た点と線を繋ぎ、大使館内の相関図を作り上げていく。確かに、ここ数ヶ月のリオの動きには不審な点が多い。機密文書に近づく機会も増えている。普段は陽気で女好きのリオは、まるで別人のように沈思黙考する時もあったようだ。この男を何が変えたのか。

中盤では、鋭い洞察力を発揮する〝探偵役〟ターナーが、リオ・ハーティングの肖像を塗り固めていくシーンが続く。闇から朧気に浮かび上がってきたのは、東側スパイとしての姿だが、さまざまな断片がそれを否定した。
ドイツ再統一運動の行進が勢いを増して迫る。状況の全てが過去へと導いた。戦争がもたらした惨禍。歴史の闇に葬られた罪過が暴かれ、眠れる死者を呼び覚まし、腐乱した肉体から偽りの現在を指し示す血痕が滲み出る。

物語は、ありふれた二重スパイ物から分岐して流れを変える。
遂に、失踪した男の目的を掴んだターナーは、いまだ会うことのないリオに対する共感の度合いを深めていた。同時に、旧態依然の英国官僚主義を象徴する大使館高官への批判を強めた。終盤でターナーは怒りを爆発させ「彼一人だけが真実の人間だ」と大使館官房長ブラッドフィールドに言う。高級外務官僚の全てが、同じ職場で働いている臨時職員を無価値と見ていたが「信念を持ち、現実に行動した唯一の男」...

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2023年6月22日

読書状況 読み終わった [2023年6月22日]
カテゴリ スパイ 冒険小説

1977年発表作。重厚な警察小説/カウフマン警視シリーズの脇役として、いい味を出していた私立探偵J・T・スパナ―が堂々と主役を張る。

6月、夜のマンハッタン。奇妙な事件はクイーンズボロー橋の上で始まった。愛車に乗るスパナ―を猛スピードで追い抜いた車は、橋の片側へと寄り、人を放り出して走り去った。欄干に拒まれたのは、裸の若い女だった。全身血塗れで既に死んでいた。スパナ―は馴染みの警察署へと通報する。この探偵は元刑事だった。

一人称一視点だが、原文は代名詞(私/おれなど)を一切使わず、地の文は全て現在形。翻訳した真崎義博は、人称の問題は難なくクリア(これを自然な文章に仕上げた力量の凄さ)したが、現在進行形の文章は「リズムを整えるため過去形を混ぜた」と後書きで述べている。読み手が〝人称の無い〟文章で戸惑うのは冒頭だけで、すぐに慣れるだろう。

探偵事務所へと戻ったスパナ―に、警察から電話が入る。死体を運搬中に襲われ、強奪されたという。スパナ―が目撃した車とは違うようだった。その後の調べでは、殺された女は空港から姿を消した客室乗務員ジルと推測。しかし、鑑識の写真を確認した母親は即座に否定したという。顔は無惨に潰されて識別できないはずだったが……。
直後、新たな依頼が入る。娘を捜して欲しい。ジルの母親からだった。
殺された女とジルは同一人物なのか。スパナ―は関係者を当たり、空港が絡む麻薬密輸事件と推理する。だが、次第に浮かび上がってきたのは、より大掛かりな犯罪の匂いだった。

ダイナミックな16分署シリーズとは打って変わって、ストレートなハードボイルド小説。簡潔な文体を駆使し、スピーディーな展開で読ませる佳作だ。
タフな好漢であるスパナ―は、元刑事という経歴を最大限生かして、マンハッタンを自在に駆け、都会に生きるアクの強い者たちとやりとりする。元妻二人を秘書に雇い良好な関係を保ちつつも、新たな色恋にも余念がない。今回は〝引き立て役〟に回るカウフマンを適度に絡ませるなど、スピンオフらしいサービスも盛り込んでいる。ワイズラックは抑え気味だが、ハードボイルド・ファンには「ニヤリ」とする箇所も多々あり、本作を通して先達の作家たちにオマージュを捧げたことが分かる。実は、強烈な印象を残すのは、僅かしか登場しないジルの母親と祖母にまつわる異様なシーンなのだが、端役とはいえ手を抜かないベテラン作家の筆力が精彩を放つ。「死の統計」は、都市小説としての味わいもある。

チャシティンは創作期間が短く寡作だったが、警察小説、ハードボイルド、ホラー、ペリイ・メイスンのパスティーシュ、果ては懸賞小説まで、何でも器用に書いていた。ただ、やはり読み応えのある16分署と、スパナ―の続編をファンは待ち望んでいたと思うのだが、作家として涸れてしまったのは残念だ。

2023年6月22日

読書状況 読み終わった [2023年6月22日]

スコット・ケアリーは、毎日7分の1インチ(約3.6ミリ)ずつ縮んでいた。既に害虫よりも小さくなり、自宅地下室で先の見えない日々を送っている。自らの試算では、あと6日で〝消滅〟する。半ば諦めの境地にいながらも、本能は生き続けようともがいた。目下の最大の敵は、執拗に狙ってくる邪悪な蜘蛛だった。逃げてばかりでは、いつか餌食となる。ようやく男は対決する覚悟を決めた。その前に飢えをしのがねばならないが、食料のある場所は、そびえ立つ魔の山のような頂にあった。スコットは己の大きさほどもあるピンや糸を使い、はるかな上を目指して一歩を踏み出す。

タイトル通り、身体が縮んでいく男を描いた1956年発表作。ジャンルとしてはSFだが、〝異世界〟を舞台にサバイバルを繰り広げる冒険小説としても読める。
ストーリーは、異変後の回想を交えつつ進む。スコットは退役軍人で、たいした仕事に就けず不安定な毎日を送っていた。家族は妻と幼い娘。訳も分からず縮んでいく夫を妻は気丈にも支えようとするが、かえって男の自尊心を傷付け、夫婦関係は悪化していく。愛する娘は、自分より小さくなった男を父親として認識しなくなった。働くことさえままならず、遂には惨めな有り様をメディアに売るまでに落ちぶれる。治る見込みのない治療費を払うために研究対象となり、果ては異形の者として見世物へ。最後の拠り所であったプライドさえ失い、追い込まれていく男の喪失と絶望。物語には終始暗いムードが漂う。

海上で放射能を含む霧を浴びたことを〝変態〟の原因としているが、科学的根拠は示してはいない。特異なのは、確実に同じ数値で縮む異常性にある。その長く苦しい過程を体験せねばならない男と、次第に変化していく周りの環境との対比を事細かに描写することで、恐怖心を煽る。身体は縮むが、性的欲求だけは逆に高まるという皮肉な過程も、妙なリアリティを生み出している。
〝新世界〟を前にして希望を語る前向きなラストシーンは印象に残った。

扶桑社文庫版には、ホラー/スリラー作家のデイヴィッド・マレルの解説を収録。文学者カミュの思索的随筆「シーシュポスの神話」と対照し、本作のテーマに迫っている。理不尽な状況は主人公に存在とは何か、生きるとは何か、を問い直す機会を与える。やがては、不条理と対峙して己の実存を見出し、光明を掴み取る。その流れを繊細かつ鮮やかに解き明かしており、マシスンへのリスペクトが伝わる考察で興味深い。マレルは、自作では短い文章を繋げていくシャープな作風が特徴だが、〝批評家〟としては整った文体を用い、理路整然と多角的に読み解いている。
日常の中の非日常。突如放り込まれた闇の中で苦悩/苦闘する男の生き方に、実存主義的な深淵を感じることも可能だろうが、マレルの受け止め方はやや高尚過ぎるようにも感じた。マシスンはあくまでも娯楽小説にこだわり、SF/ホラーの範疇で完成度を高めた、とうのが私の読後感だ。

2023年6月22日

読書状況 読み終わった [2023年6月22日]
カテゴリ ホラー

高価な金品のみを狙う泥棒マイクル・セントピエールは、結婚を機に引退した。数年後、真っ当な仕事に就き、質素な生活を送っていたマイクルのもとに、ドイツの実業家と名乗るフェンスターが奇妙な依頼を持ち込む。バチカンが厳重に保管する宝を盗み出して欲しい。キリストにまつわる伝説の「鍵」らしいが、真の狙いが掴めない。この時、マイクルの妻は末期癌に冒されており、どうしてもカネが必要だった。他に選択肢がない元泥棒はヨーロッパへと向かう。

2006年発表のスリラー。惹句にはホラー・アクション巨編とあるが、構成や人物造形など総じて甘い。この作家は、先に「13時間前の未来」を読んでおり(未レビュー)、その斬新な着想と圧倒的な筆力に唸り、速攻で購入したのが本作だ。だが、期待はあっさりと裏切られた。捻りがなく、凡庸。〝悪魔〟に至っては、好色な俗物で、微塵も迫力を感じない。何とも底の浅い悪魔で、次第にコメディーもどきとなっていく。
本作を先に読んでいれば、「13時間前の未来」には手を出さなかっただろう。どうやらドイッチは驚異的なスピードで腕を上げたらしい。

2023年6月22日

読書状況 読み終わった [2023年6月22日]
カテゴリ ホラー

フランス映画/ヌーヴェルヴァーグ「気狂いピエロ」(ゴダール監督/1965年公開)の原作で1962年発表作。原題は「Obsession」で妄執/強迫観念を意味する。
ホワイトは本作を含めて僅か3作しか翻訳されておらず、他の2作は入手困難なため、作風などの全体像は掴めないが、巻末の解説と著作リストを読む限りでは、一貫したスタイルの犯罪小説を書き続けたようだ。

物語の書き手となる男は、人里離れた地で終幕を迎えようとしている。不気味な静けさに包まれたプロローグは、結末へと繋がるシーンであることを暗示し、幾つかの伏線を張っている。男は綴る。
「いったいなぜこんなことになってしまったのか」
時は半年前へと戻り、或る少女との出会いから人生が一変した男の回想が始まる。

シナリオライターのコンラッド・マッデン、38歳。失業中で常にカネに困り、妻子への愛情も薄れ、酒を飲むことで決断を先延ばしにする冴えない男。何の前触れ無く、その日は訪れた。パーティー出席のために雇ったベビーシッターのアリー。まだ17歳だが妖しい魅力を放っていた。友人メドウズの車を勝手に借りたコンラッドは、彼女をアパートまで送り、一夜を共にする。酔い潰れて目覚めた翌朝、信じられない言葉を聞く。隣の部屋に死体がある。アリーは平然と告げた。生活の面倒を見てくれていた男だが、眠っているコンラッドに嫉妬して殺そうとした為、刺した。死んだ男はギャングの下っ端だった。その傍には、集金したばかりの大金を詰め込んだ鞄。怖じ気づいたコンラッドは警察を呼ぼうとするが、アリーが制止した。状況は、過去に戻ることを許さなかった。
序盤からストーリーは大きく動き、加速する。
コンラッドが眠っていた間、アリーのアパートに妻も訪れていた。伝言は当然「もう帰ってこなくていい」だった。間の悪いことに、メドウズが車を回収しにやってきた。転がった死体とカネを気付かれ、殴って昏倒させた。全てが「逃亡」一択へと追い込んでいく。コンラッドとアリーは、すぐさまニューヨークを離れ、終わりのない逃亡生活へと入った。

本作も、いわゆるファム・ファタール〝宿命の女〟の物語だが、肌触りは少し違う。
コンラッドは、妻以外への愛を抱くことはできないが、若い女の肉体から離れられない。性的欲望のみで呪縛されていた。逃亡を続ける中、男は常に疑心暗鬼に苛まれ鬱状態にいる。全編を流れているのは、かりそめの情欲に溺れ、刹那的な今を生きざるを得ない中年男の焦燥と漠然とした喪失感である。だが、意外に狡知に長けたところもあり、偽りの身許を手に入れた後、ギャングから奪ったカネを元手に成り上がろうとも試みる。この辺りの意外性のある流れはユニークだ。しかし、追っ手は警察だけではなかった。ギャングの親玉も執拗に彼らの痕跡を辿ってきており、崩壊の時は刻一刻と近づいていた。

大概の読み手は、ジェイムズ・ケイン「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1934)を想起するだろうが、スタイルとしてはハドリー・チェイスに近い。それは主人公の醒めた視点、窮地に立たされながらも、どこか第三者的に己を傍観しているような節があることと、後半の襲撃計画や裏切りにひと捻り加えているためだ。要は濃密なノワールではなく、娯楽小説として割り切り、読み手を楽しませる工夫を凝らしていることにある。
これまでホワイトは、日本のハードボイルド/ノワールファンにとっては名前ばかりが先行する幻の作家だったが、本作をきっかけに再評価され、新たな翻訳の機運が高まることを期待したい。

2023年5月17日

読書状況 読み終わった [2023年5月17日]

惹句にはハードボイルドとあるが、サスペンス基調のミステリという印象。主人公クィンは元新聞記者で現在はゴシップ誌のライター。元妻とは友達付き合いを続けており、同じ敷地内にある離れで暮らしながら、幼い一人娘の寝姿を裏庭の木から見守る日々。そんな中、古い付き合いの故買屋が助けを求めてきたが、間もなく不可解な状況で死ぬ。警察は自殺と結論付けるが、納得できないクィンは自死を否定する僅かな手掛かりをもとに独自に調査を始める。一方、クィンの行動に勘付いた殺人者は、その跡を付け回し、命を狙う機会を窺う。

期待して読み始めたが、どうにも中途半端で独自のスタイルがない。翻訳者後書きでは評価の高い作家らしいが、本作を読む限りでは人物に生彩が無く、物語に深みもない。旧友の死を原因を突き止めるために主人公が立ち上がるまではいいが、常に殺人者の影に怯え、弱さばかりが際立つ。肝心の殺人者の造形も物足りない部分が多く、不自然な展開も目立つ。要は総体的に薄く、軽い。ハードボイルドを謳うのであれば、文体にも味わいが欲しい。

2023年5月17日

読書状況 読み終わった [2023年5月17日]

「山脈の向こうの空は群青色と青に染まり、太陽がゆっくり昇ってくるにつれ、万年雪の上に黄金色の輝きが拡がった。眼下の谷は暗く静まりかえっていて、聞こえるものといえば、チベットへの迷路をたどるビーヴァー機の、低く、絶え間ない唸りだけだった」
静謐なシーンから始まるヒギンズ1966年発表作(本名ハリー・パタースン名義)。
この臨場感豊かな幕開けから、一気に冒険小説の世界へといざなう。常々感じることだが、冒頭数ページで作家の力量は試される。情景から、台詞から、或るいは背景説明から。作家は、読み手を引き込むための技術を駆使する。経験上、プロローグが駄目な場合は凡作が多い。無論、エピローグで手を抜いた作品も同様。余韻は、何時間も掛けて読み進んできた本編の評価でもあるからだ。

主人公ジャック・ドラモンドは、元英国海軍航空隊中佐で、除隊後はフリーのパイロットとしてインドを拠点に活動していた。危険地帯へも飛ぶ〝運び屋〟となり、カネを貯めて早々に引退することを夢見ている。
舞台は中国とインドの国境、雪に覆われた山岳地帯。ここには反中国のチベット人ゲリラのアジトがあり、衝突が絶えなかった。水陸両用機ビーバーを操縦し、台湾工作員の依頼で武器類を運んだドラモンドはインドへと戻り、旧友の軍人らと休養を楽しんでいた。そこへ看護師の若い女ジャネットが訪れ、太守の息子を治療のため米国へ運んでほしいと依頼する。だが、間もなく中共軍の部隊が進撃を開始。ドラモンドが物資を運んだゲリラ部隊は現地人の目を欺く敵の偽装だった。間もなく太守の息子が滞在する村が強襲された。迎えに赴いていたドラモンドだったが、飛行機は破壊されたため、陸路を辿り安全地帯まで逃げ延びることを強いられた。かくして豪雪の山中での決死の逃走と戦闘が始まる。

大仕掛けはないが、戦争冒険小説の骨格はしっかり持っている。無名時代の作品で、恐らく熱心なファン以外は手に取ることもないだろうが、冒険小説を愛する者にとっては読み逃せない。ヒギンズ後期はマンネリ感が否めない部分もあった(逆に安心感を覚える場合もある)が、初期は意欲的に設定に工夫を凝らし、構成も引き締まっている。本作は文庫本で200頁ほどのボリュームだが、密度は濃く、展開が早い。誇り高いアウトサイダーのヒーロー像などは一貫しているが、ストーリー優先のため、主人公の造形はやや弱い。その分余韻は物足りない面はあるのだが、極寒の山岳地帯の情景や、緊迫感に満ちた戦闘シーン、甘いロマンスの要素など、ヒギンズお馴染みの世界が拡がり、ファンであれば楽しめるだろう。

2023年5月17日

読書状況 読み終わった [2023年5月17日]
カテゴリ スパイ 冒険小説

本職は聖職者という異色の作家で、創作上のルールを定義した「ノックスの十戒」でミステリファンにはお馴染みだろう。創作期間は10年と短く、本人の意志に反して、教会など身内の抵抗にあって断筆に追い込まれたらしい。環境に恵まれなかった不運なノックスだが、処女作となる本作を読む限りでは、シニカルなユーモア感覚の持ち主だったことが分かる。
翻訳本の後書きでも触れているが、冒頭で書き手が「事件発生の場所を架空にする作者は信頼できない」と前口上するにも関わらず、本作の舞台は架空であること。後年に著した「十戒」で提言したフェアプレイの精神に必ずしも忠実ではなく、敢えて定石を破る構成であること。保守的なミステリ界隈を茶化している感があり、その延長線上に「十戒」という堅苦しい戒律を示して、作家や読者の反応を楽しむノックスの捻れた心理が読み取れるのである。

本作のストーリーは暇をもてあました素人探偵が、ゴルフ場近くの陸橋から落ちたと思しき死体を巡り、探偵ゲームに勤しむというもの。本格物の形式を捩った〝メタミステリ〟の一種で、時期的には、この分野での先駆といっていい。深みや味わいはないが、プロット自体は練られており、ストレートなミステリに飽き足らない読者は楽しめるだろう。ただし、推理合戦のネタとなるトリック用小道具には不自然さが目立ち、こじつけも多い。人物の描き分けも決して巧みとはいえず、整理しきれていない。ただ、遊戯としてのミステリに対する作者の愛情は伝わってくるため、苦笑しながらも楽しむことはできるだろう。
種明かしをする結末のあっさり感は、名探偵が関係者一同を集めて延々と推理を披露する既存のミステリへの当て付けと受け止めることができ、ノックスの得意げな顔が浮かんでくる。

本作発表は本格推理黄金期にあたる1925年。この時代は、主流であったストレートな謎解きものが飽和状態に達し、サスペンスやハードボイルド、スパイ小説などに本格的な書き手が次々に登場して、広義のミステリとしてのジャンルが成熟しつつあった。いわば本格ものを〝変格〟する土壌も整っていた時で、しかも専門作家以外からのアプローチというのも面白い。

2023年5月17日

読書状況 読み終わった [2023年5月17日]
カテゴリ ★ミステリー

スレイドはカナダの弁護士三人(本作以降、共同執筆者は変わっている)による合作チームのペンネームで、1984年発表の本作でデビューした。フォーマットは警察小説だが、サイコスリラーの要素を大胆に盛り込んでおり、全編が異様なムードに包まれている。

不特定の若い女を狙った連続殺人。被害者に目立った共通点や接点は無かったが、殺人者は犯行後に首を持ち去っていた。連邦警察機構のディクラーク警視率いる特別捜査本部は、各分野の俊鋭を隊員として招集し、異常犯罪者らの洗い出しを始める。犯行は止まることなく、殺人者から挑発のメッセージも届く。やがて浮かび上がってきたのは、ハイチ発祥のブードゥー教にまつわる黒魔術で、殺人鬼が個人ではない可能性も出てきた。その後も一向に捜査は進まず、過去に妻子を惨殺されるというトラウマを抱えていたディクラークの精神状態は悪化していく。

どうにも良くない。サイコスリラーと捜査小説のごった煮で、読み手はかなり苦戦を強いられるだろう。章立ては短いが、無駄に登場人物が多く、しかも時代や場面が頻繁に飛ぶため、テンポ良く読み進めることが難しい。文体も一貫性がなく、ゴシック体なども意味なく多用する。合作の弊害故か構成も粗い。伏線らしきものを大量に挿入しているのだが、殆どは回収されることはなく、単にエキセントリックなカオスだけが印象付けられていく。情報は整理されないまま散らばり、状況が分かりづらい。一応ディクラークを主人公に据えてはいるものの、視点のブレが激しいため物語の軸が安定しない。文体は異常心理と幻想が織り交ぜになっており、しかも主役級の刑事まで心的外傷によって暗鬱としたエピソードを繰り返すため、タチが悪い。真相には捻りを加えてはいるが、この人物が真犯人だろうという察しはつくため、衝撃度は弱い。

マイケル・スレイドについては、先に「髑髏島の惨劇」を読んでおり、異色の本格ミステリとして読後感は悪くはなかったため、本作も期待して読み始めたのだが、どうやら出来不出来は激しいようだ。

2023年5月17日

読書状況 読み終わった [2023年5月17日]

まず、北村治による文春文庫の挿画が、さまざまなイメージを喚起させる。

裂け目無く屹立する高く赤い壁。それは紛れもなく刑務所の塀だと分かる。そこに、斜陽を浴びた男の影が浮かび上がっている。背中を向け、うつむき加減に呆然と立つ男。それに比して、影は己の存在を誇示するかのように黒く壁に刻印されている。まるで何処までも背後に陣取り、男の内面を見透かそうとしているかのようだ。ここから読み取れるのは、孤独と焦燥、そして欺瞞と憤りである。

男の人生に何があったのか。あるいは、何が起ころうとしているのか。ローマ帝国皇帝ハドリアヌスが築いた長城を冠したタイトル。その意味するものとは何か。

時間をかけて読み終え、あらためて表紙を見る。この厳しい物語を一枚の絵に表象させた画家の秀逸な表現力に唸った。

主人公はヘイドリアン・コールマン、38歳。男は様々な思いを胸にして、殺伐とした町へと戻ってきた。テキサス州東部のシェパーズビル。ここは「刑務所の町」だった。囚人15万人を数カ所の刑務所に収容、住人の殆どが関連する仕事に就いていた。ヘイドリアンは馴染みの顔と再会を果たしていくが、彼らは各々違う複雑な反応を示した。両親が遺した家へと戻り、唯一の家族である奔放な妹の身を案じつつ、旧友のもとへと向かう。ソニー・ホープ。父親を継ぎ、テキサス州矯正施設長庁官として権力を握り、町を支配する男。ヘイドリアンにとっては、少年時代を共に過ごした幼馴染みであり、初恋の女を奪われた恋敵であり、何よりも人生を狂わされた悪の根源だった。


1999年発表の力作。設定はかなり異色だが、序盤を過ぎた辺りから独特な世界観に引き込まれる。謎解きは一切無いが、主人公の過去と現在を繋ぐ伏線を回収しつつ、大きくうねりながら終盤へと向かうため、ミステリの構造は備えている。人間の業に迫る作者の眼は確かで、ドラマ性を高める情景描写も巧みだ。


ヘイドリアンは15歳となる誕生日に人を殺した。親友ソニーの命を救うためだった。少年は裁きを受け、懲役50年の刑を宣告された。15年間服役したのち、ようやく仮釈放の日を迎えようとしていた。青春期の全てを刑務所内で送った。だが、それを恨んだ他の囚人に襲われ、自衛のために二度目の殺人を犯した。ヘイドリアンは不可能といわれた脱獄を試み、からくも成功した。
長い長い逃亡生活。それは8年間にも及んだ。この窮地を救ったのはソニーだった。救済運動を起こし、遂には特赦を勝ち取った。逃亡中、ヘイドリアンが危険を承知で二人の若者の命を救っていたことも有利に働いた。社会的に〝自由〟の身となったヘイドリアンは、甘い郷愁と苦い悔恨を抱えて、帰り着いた。だが、彼を待ち受けていたのは、さらなる理不尽な苦難と非情の裏切りだった。

以上が物語の背景となる。主人公ヘイドリアンは、いわば過去に呪縛された男だ。故郷に帰り、己の罪と対峙し、アイデンティティを取り戻すために一切を清算する。だが、それはこれまで以上の試練を意味した。その葛藤と苦難に満ちた過程を、回想シーンを織り交ぜつつ、じっくりと描いている。特にヘイドリアンの人格形成において重要な鍵となる家族との短い挿話が強く印象に残った。
もう一人の主役でもあるソニーとの関係性を通して、無垢故に殺人者となった男と、煩悩故に身を滅ぼす男を対比。未熟であった少年二人の弱さが予期せぬ結果を生み出すエピソードは極めてドライで、主人公の重い語り口によって読み手へと息苦しいまでに迫ってくる。

お前にとって大切なこの俺を守るために、或る男を始末してほしい。単なる利権のために、腐り切ったエゴイズムを剥き出しにするソニー。常にヘイドリアンを利用してきた旧友との決着は、脆弱であった己自身との決別ともなった。これまで気付かないふりをして...

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2023年1月18日

読書状況 読み終わった [2023年1月18日]

1960年発表作。当初、混同する筆名を用いたロス・マクドナルドとのエピソードで、名前だけが先行していた〝もう一人のマクドナルド〟。その本格的な紹介が本作から始まっている。日本の読者は、その実力に驚いたことだろう。このマクドナルドも凄いと。

冒頭に置いているのは、或る看守の手紙だ。それは死刑囚4人の刑執行を事細かく伝えるものだった。男3人と女1人からなる連続殺人犯。読み手は、後に何度も読み返すことになるだろう。つまり、電気椅子へと向かう彼らの様子から、事件に繋がる殺人者たちの人格と狂気を、この最初の部分から読み取ることができるからだ。
このショッキングな幕開けから、一気に引き込まれていく。物語は過去へと遡り、主犯格の男スタッセンに焦点を当て、凶行に至るまでを追っていく。

構成は練られており、主に三つの視点で時間軸をずらしながらストーリーは進む。スタッセンの獄中記、被告側弁護士の手記、事件を記録した執筆者の叙述。これを交互に挿入していくのだが、大きくボリュームを占めるのはスタッセンの独白である。最初はただの世間知らずのやさぐれた男だが、放蕩する中で徐々に狂気の度合いを増す。極めて凡庸だったスタッセンは、或る事件を機に変貌。そして、あとに〝群狼〟と呼ばれることになる他の三人と組み、残虐な犯罪に走る時点から、完全なる異常者と化す。その荒んだ精神状態は明確に語られることがない。それだけに、より一層不気味さが増している。動機無き蛮行を繰り返していく群狼らは、行き当たりばったりの無計画であるがために捜査陣を混乱させ、なかなか尻尾を掴ませない。だが、地獄の門は着実に近付きつつあり、遂には「夜の終わり」を迎える。

本作はドキュメントタッチの犯罪小説ではあるが、今ではノワールに組み込まれるかもしれない。マクドナルドの視点/筆致は終始醒めており、登場人物らを冷酷なまでに突き放している。感情移入を妨げているが故に、かえって異様な迫力を生じさせるのである。
トラヴィス・マッギーシリーズが始まる3年前に、こんな快作を著しているジョン・D・マクドナルド。やはり只者ではない。

2023年1月18日

読書状況 読み終わった [2023年1月18日]

1948年発表作。冒険小説の王道を行くイネスらしい構成で、発端から結末まできれいにまとめ上げている。モチーフとしているのはスティーヴンソンの古典「宝島」。絶海の孤島(本作では巨大な岩礁に等しい)に眠る〝宝〟を巡る男たちの活劇を描いた代表作でもある。

第二次大戦末期の1945年3月。ロシア戦線から英国へと帰還するため、貨物船トリッカラ号に数人の兵士が乗り込んだ。伍長のバーディーは、上官から極秘の積み荷を警護しろと命令されていたが、無鉄砲な戦友バートが好奇心から荷を開け、大量の銀塊を目の辺りにする。どうやら物資支援に対するロシア側の対価らしい。まもなくバーディーらは、船長ハルジーは元海賊で、事故に見せ掛けて強奪と殺人を繰り返していた過去を知る。側近の粗暴な船員らも不穏な動きを見せていた。しかもバーディーの上官は横暴な酒飲みで全く信頼できず、ハルジー一派と密約している節もあった。そんな中、北洋上で船は機雷に触れて損傷、全員退避となる。船長や上官は兵士や乗客に対して、指定したボートに乗り移るよう強制した。だが、そのボートには故意に穴が開けられていた。それを知っていたバーディーらは、乗り合わせた英国人の女ジェニーを連れて、小さな救命ボートに乗り込み難を逃れる。だが、帰国後に待っていたのは、上官に背いた罪による理不尽な獄中生活だった。

以上が前半までの流れ。物語冒頭で多数の死者を出した貨物船は実は沈んでいなかったことが明かされており、銀塊強奪のために海賊ハルジーらが仕組んだ偽装であったことが分かる。以後、無実を証明するためにバーディーとバートは脱獄。かすかな恋慕を抱いていた女ジェニーを頼り、ヨットに乗りこんで北洋へと旅立つ。だが、座礁した船には先行してハルジー一派が向かっていた。

中盤の監獄でのエピソードが結構なボリュームを占めているのだが、やはりイネスが真価を発揮するのは洋上での激しいアクションシーンだろう。プロットも起伏に富み、スピーディーに読ませる。イネスの主人公には、英国の騎士道精神が息付き、清廉さが特色。いつもなら女性とのロマンスも驚くほど控えめなのだが、本作では恋愛が物語の展開に大きく左右しており、瑞々しい印象を与える。冒険小説ならではの信頼と友情もしっかり押さえてあり、正統派と呼ぶに相応しい。

2023年1月18日

読書状況 読み終わった [2023年1月18日]
カテゴリ スパイ 冒険小説

未だ全貌が明らかではない歴史的事件を題材とする1986年発表作で、概ね評価は高い。曲者作家リテルならではのオフビートなスタイルによって、終盤近くまでどの方向へと流れていくのかが分からない。プロットの軸を敢えてぼかし、辿り着いた真相が最大限の衝撃を与えるよう念入りに構成している。東西両陣営の思惑によって歴史の闇へと葬られていく完全犯罪とは何か。読み手は様々な人物が入り乱れる中で、饒舌な彼らの言動を読み解き、背後にある陰謀の全貌を推測することとなる。いわば、その過程を楽しむことこそ、本作の読み方といえそうだ。リテルは謀略に明け暮れる諜報機関の欺瞞をニヒリズムの観点から茶化しており、時にシニカルなユーモアを用いて鋭く本質を突いている。
また、散々指摘されていることだが、訳者後書きは本作最大の肝に触れているため要注意。

2023年1月18日

読書状況 読み終わった [2023年1月18日]
カテゴリ スパイ 冒険小説

他人の意識と行動を操る異能者〈マインド・ヴァンパイア〉。その起源は不明だが、古来から極少数の者が生まれながらに特殊能力を備えていた。様々な仕事に就いて表向きの顔を持つ彼らは世界中に散らばり、時代の変化に順応しつつ生きながらえていた。
容姿は人並み、個々の人格や能力には違いがあったが、善人は皆無だった。異能を持つ代わりに、完全に欠落した理性や倫理。その異常な嗜好は、人間を狩るという〝遊戯〟によって満たされ、互いの残虐性/インパクトの強さを競い合っていた。戦時の大量殺戮、要人や著名人の暗殺、そしてサイコパスの猟奇殺人。歴史的な重大事件の影には必ず異能者がいた。
彼らは、力を行使することで精力を補完し、普通の人間よりも老化を抑えることができた。当然のこと、十字架などの馬鹿げた宗教的迷信によって流布された弱点は無かった。この化け物たちに狙われたら終わり。待ち受けているのは無惨な死のみだった。
異能によって成り上がり、巨大な富と権力を手にしたマインド・ヴァンパイアの一部は闇の組織を作り、年に一度、絶海の孤島に集結した。殺戮のチェスゲーム。人間を駒にみたてた地獄の享楽。かつて、この狂気の宴から生還した人間は一人もいなかった。

剛腕シモンズ、1989年発表作。翻訳文庫本3分冊、計1500頁を超える大作だ。さすがに一気読みとはいかないが、巧みなストーリーテリングで長さを感じさせない。モダンホラーならではの簡潔且つ映像的描写を駆使し、娯楽要素満載の作品に仕上げている。かなりの大風呂敷を広げてはいるのだが、アウトラインは至ってシンプルで、主要な登場人物と舞台を絞っているため、物語の密度は濃い。加えてスピード感を重視、細かい点を気にする暇もなく読み手は引っ張られていく。

何より、或る種の超能力者ともいうべきマインド・ヴァンパイアという着想がユニークだ。彼/彼女らは、群れずにはいられない脆弱性を持つが、決して一枚岩ではなく、常に反目し合っている。そこには信頼感などなく、ただ〝同族〟という意味においての繋がりがあるのみだ。高貴さとは無縁であり、徹底した俗物である点でも共通している。この矛盾に満ちた人ならざる者どもが、己らの快楽のために人の命をもてあそぶ。
精神/身体を支配する彼らに対抗する手段は無く、ターゲットは朦朧とした意識のまま操られる。本作が言い様のない恐怖感を与えてくるのは、この「無力感」にある。
では、人間はマインド・ヴァンパイアのなされるがままの運命にあるのか。抗う者はいないのか。物語はここから始まる。登場するのは、一人の老いたる男。彼は何一つ特殊能力はなかった。武器はただひとつ。理不尽な死をもたらす悪への煮え滾る怒りのみ。

主人公は、精神科医ソール・ラスキ。ホロコーストを生き延びたユダヤ人で、かつて死の強制収容所で〝人間チェス〟の駒となった。ソールを操ったのは、ナチスのボーデン大佐で、マインド・ヴァンパイアの中でも飛び抜けた能力を有していた。狂気のゲームが進行する中、ラスキは不意を突いて奇跡的に逃げおおせた。大戦終結後は米国へと渡り、数十年にもわたり密かにボーデンの痕跡を追っていた。彼は唯一の生存者として、悪を滅ぼす決意を固めたのだった。
そんな中、南部の都市チャールストンで不可解な事件が発生する。全く面識のない9人の老若男女が突然狂ったように殺し合ったという。これはいがみ合う3人のマインド・ヴァンパイアが引き起こしたものだった。背後にボーデンの存在を嗅ぎ取ったラスキは現場に向かい、加害者であり被害者でもあった黒人男性の娘ナタリーと出会う。父親の無惨な死の真相を探っていたナタリーは、この老いたユダヤ人によって驚愕の事実を知る。さらに、事件の捜査を担当していた保安官ジェントリーは、不審な行動をとるラスキとナタリーを当初は疑って...

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2022年11月1日

読書状況 読み終わった [2022年11月1日]
カテゴリ ホラー

裏社会の〈元締め〉から殺しを請け負った〝おれ〟ビゲロウは、田舎町ピアデールを訪れた。ターゲットは、暗黒街の秘密に通じていたノミ屋ウィンロイで、被告として裁判を控えていた。やつは、口封じで殺されるを恐れ、酒に溺れる毎日を送っている。ウィンロイは今、若い妻フェイと下宿屋を営んでいた。おれは大学の聴講生として下宿し、計画を練りつつ機会をうかがう腹だった。だが、徐々におれは言い知れぬ不安と焦燥の中に埋没していく。暗殺者の影に脅えるアル中のジェイク、即刻おれに接近して挑発する好色フェイ、何かとおれの世話を焼きたがる下宿人の老いぼれケンダル、同家家政婦として働く身障者の大学生ルース、おれの存在を怪しむ保安官サマーズ。どこかに〈元締め〉の息がかかった監視者がいるに違いない。疑心暗鬼の中で、おれは妖魔と戯れ、その果てに地獄の扉を叩く羽目になる。

本作でトンプスンの〝闇〟が極限に達したという評判は知っていた。恐らく〝これぞノワール〟を象徴する狂った終幕故なのだろう。だが、私は最後の一文まで終始醒めていた。乱暴に評するなら、捉えどころのない〝なにか〟が浮遊するだけの完成度が低い〝失敗作〟という読後感だ。粗い文体と雑な構成、どこまでも靄がかかった情景、締まりのない挿話が続く冴えない筆致。狂気を秘めた男の独白という前提があるとはいえ、脈絡のない流れや不可解な登場人物らの不条理なやりとりには生彩がない。読み手は、どこまでも粗野で不明瞭な男に振り回されることとなる。

主人公ビゲロウは、過去に16件の殺人容疑のかかるプロの犯罪者という設定だが、その冷徹さを伝えるエピソードは一切無い。逆に、回りの人間から影響を受けやすく、行き当たりばったりで、優柔不断。非情な殺し屋とは思えない素人臭さがひたすらに印象付けられていく。女を引き込むのはうまいが、関係を持った後は引っ張り回されて、手綱を握れない。何をするにしても間抜けで情けない男なのである。
この凡庸な殺し屋を襲う狂気がどのようなものかが本作の肝となっているのだが、一気に血塗られた暴力が炸裂するラストシーンは、ノワールというよりも恐怖小説を想起させる。スティーヴン・キングがトンプスンにシンパシーを抱き、大絶賛するのも当然だろう。深読みすれば、自作のパロディとも受け取れる面もあるのだが、どうにも書き飛ばしたような感が拭えない。何しろ、トンプスンは本作発表の1953年には5作品を上梓しているのである。

以前読んだ「死ぬほどいい女」(1954)では、終盤へと至る過程に不自然さがなく、一気にテンションを上げるレトリック/技巧の凄さに驚嘆し、これぞ真骨頂だと感じた。もっさりとした展開で切れ味のない本作とは、格段の違いがあった。「残酷な夜」を批評家らが代表作として扱うのは「どす黒い過激性こそノワールだ」という表面的で分かりやすい括りに当て嵌まるからだろう。

全てが無に帰する本作がノワールであることは間違いない。けれども、諸々の伏線(あるとすれば、だが)を投げ出したまま、強引に突入するラストは、物語に収拾がつかなくなった末の〝逃げ〟のように感じた。果たして、この数章でのカオスは、カタルシスを狙ったトンプスンの技なのだろうか。シュールレアリスティックな強烈な幕切れではあるのだが、ここから読み取れるものが何も無い。要は、物語に整合性が取れなくても暴力や血を噴出させれば成り立ってしまうホラーと同じ範疇なのである。

米国ノワールの代名詞であったジェイムズ・エルロイ失速と立ち替わるように、過去から甦ってきた異端の作家トンプスン。その死から長い年月を経て、ジャンルとして根付いたノワールの象徴として再評価されただけでなく、すでに神格化された節もある。
ハメットやチャンドラーを経て〝成熟期〟を迎えていた50年代に、この極めて...

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2022年11月1日

読書状況 読み終わった [2022年11月1日]

2012年発表作。主人公は87歳の元殺人課刑事バック・シャッツ。第二次大戦の戦友が死ぬ直前に残した言葉が発端となり、敗戦間際に米国へと逃れた元ナチスが隠し持つ金塊を巡る争奪戦が展開する。孫の手を借りたバックは自らの高齢を逆手に取りながら巧みに〝お宝〟へと近づくが、動き回る先々で関係者らの死体が転がることとなる。

古参の海外ミステリファンが真っ先に思い浮かべるイメージは、80年代の話題作L・A・モース「オールド・ディック」だろう。78歳の元私立探偵スパナ―が老体に鞭打って痛快な活躍を見せる同作は、ハードボイルドのエッセンス/魅力を凝縮した傑作で、枯れた味わいが秀逸だった。当然、訳者後書きでも「オールド・ディック」に触れつつ本作を絶賛している訳だが、私は序盤を過ぎた辺りで早々に凡作と断定した。

設定としては、物語の中で再三言及するクリント・イーストウッド主演の映画「ダーティー・ハリー」シリーズの剛腕刑事の〝その後〟をイメージしているのだろう。だが、上辺をなぞっただけの時代錯誤なタフガイに過ぎない。
主人公バックは、現役時代は悪党を撃ち殺すことを物ともせず、伝説のヒーローとして名を馳せた。今も愛用のマグナムを手放すことはなく、何かと言えば拳銃に頼ろうとする。口が減らない皮肉屋で、好き嫌いが激しく、偏屈でプライドが高い。要は〝老害〟そのもので、酸いも甘いも噛み分けてきた人生の深みがない。スタイルだけ真似ても、骨格がやわではだめだ。

肝心のプロットも粗い。娯楽小説とはいえ、あまりにもご都合主義的な展開が多い。ユダヤ系アメリカ人のバックが、ナチスの強制収容所で地獄を味わい、親衛隊将校ジーグラーから屈辱を受けたという〝過去〟。その元ナチが米国内で生きており、しかも金塊をいまだに隠し持っているという〝現在〟。さらに、イスラエルのナチ・ハンターさえ狩ることのできなかった男に、老人の元刑事が易々と接触してしまうという〝未来〟。短い章の連なりの構成でテンポはいいのだが、何もかもが老いたヒーローに都合良く運ぶという強引な流れには興醒めした。
あわよくば金塊を手に入れて、余生を楽に暮らすことを夢見る男。少なくとも、ダーティ・ハリーには揺るぎない正義感があった。脇役の魅力も乏しく、重要なパートナーとなる孫の青年、借金まみれの聖職者、生彩のないギャング、間抜けな工作員、やさぐれた刑事など、どれも俗物性ばかりが際立つ。
猟奇的な犯行に及んだ殺人者の動機も弱く、終盤での短絡的/独善的な決着の付け方には唖然とした。87年間も生きてきた男は、いったい何を学んできたのだろう。

ただ、日本の読者や批評家には概ね好評だったようで、次作も翻訳されている。こんな薄い仕上がりのどこに満足感を得られたのだろうか。この作家にハードボイルドを書く意識があったかどうかは分からないが、本作を読む限りではくすりと笑えるシーンも無く、パロディにさえなっていない。

2022年11月1日

読書状況 読み終わった [2022年11月1日]

本格ミステリ黄金期にあたる1928年発表作。「僧正殺人事件」と並ぶヴァン・ダインの代表作として、日本では今も読み継がれている。しっかりとした骨格を持ち、謎解きの過程も分かりやすいため、入門書としては最適だろう。

堕落した有閑階級グリーン家を舞台とする連続殺人。検事の知人であるファイロ・ヴァンスは今回も捜査に協力すべく、犯行直後の現場を観察し、証言を聞き取り、血塗られた一族の現在と過去を掘り起こす。閉ざされた家の中で、家長の遺産を巡りいがみ合う者どもの狂態。腹に一物抱える使用人やかかりつけの医者らがそこに絡み、陰鬱な愛憎劇を繰り広げる。雪の降り積もる冬という季節を〝利用〟し、捜査陣の目を欺くために仕掛けられたトリック。ヴァンスは殺人者が残した小さな綻びを集めつつ、大胆極まりない犯罪の全体像に迫る。

エラリイ・クイーンが本作を下敷きにして「Yの悲劇」を書いたことはよく知られている。ミステリとしての基本フォーマットが完成されていることもあり、後続者の挑戦意欲を大いに掻き立てたのだろう。設定や全体的なムードなど、「Y」との類似性は明らかで、プロットの暗流にある優性思想が抱える問題点を内包していることも興味深い。
後発の「Y」の完成度が上がるのは当然なのだが、評価や人気の点で劣るとはいえ、スタンダードなミステリである本作の価値が薄れることはないだろう。ただ、フェアプレイに徹するあまり伏線が明瞭で、ある程度本格物を読み慣れた読者ならば、中盤辺りでおおよそのトリックと真犯人が分かってしまう弱さがある。主要人物が順々に殺されていく中、不自然にも生き残っているのは誰か。さらに、特定の人物への執拗な言及や過去のエピソードなどを読み解けば、自ずと真犯人に辿り着く。要は、サービス精神旺盛なヴァン・ダインの仕掛けが無骨すぎる訳だが、憎悪渦巻く富裕層の没落ぶりを茶化した物語は、それなりに読ませるため、飽きることはない。
また、よく欠点として俎上に載る探偵の〝教養のひけらかし〟も、それほど邪魔になるものではなく、作者自身の投影として微笑ましく受け流せばいいレベルだ。より過剰にデフォルメを施した名探偵なら他にいくらでもおり、初期のエラリイ・クイーンの方が嫌みたらしい高慢さでは上回る。

いずれにしても、娯楽小説としての工夫を凝らした「グリーン家殺人事件」は、ヴァン・ダインの魅力と〝限界〟が表れているのだが、純粋に推理が楽しめるミステリとして、今後も不動の地位を占めることだろう。

2022年11月1日

読書状況 読み終わった [2022年11月1日]
カテゴリ ★ミステリー

1979年発表の航空サスペンスで、内容は邦題と表紙の装画通り。

米国サンフランシスコから中国上海に向かっていた特別旅客機。その第3エンジンが整備不良によって大破した。同機は3発ジェットエンジンのダグラスDC-10。残り二つのエンジンで飛行は可能だったが、燃料が大量に失われており、長くは飛べない。一番近いのはソ連領内の島だった。だが、この飛行機には副大統領が搭乗し、米中友好の足掛かりとなる極秘の物資を積んでいた。その内容が東側に漏れれば、冷戦の新たな火種となりかねない。米政府は秘密が漏れることを恐れ、海上への胴体着陸を指示。だが、前例がなく、犠牲者が出ることは自明だった。刻々と時間が過ぎる中、ある案が浮上する。大型航空母艦への着艦。101便の操縦士らは、この極めて大胆で危険な賭けに挑むこととなる。

主人公は、同機に招待客として乗っていたダンカンで、現大統領がまだ候補者であった時代には専属パイロットでもあった。だが、脳腫瘍となり引退。いつ体調が急変するか分からない体となっている。この設定をどう生かすかが作家の腕の見せ所となる。飛行機が危機的状況となり、当然のこと敏腕パイロットのダンカンが操縦桿を握る展開とはなるが、どうにも盛り上がりに欠ける。現機長との確執や女性記者との恋愛要素なども盛り込んでいるのだが、あまりにも淡泊で深みがない。事がスムーズに運んでいくため、意外性やサスペンスも弱い。要は、未曾有の事態をどう乗り越えていくか、という冒険小説に不可欠なエッセンスを感じないのである。
コンパクトにまとめた構成で、全体的に悪くはないが、特化した点がない。読み手の予測を上回るアイデアがないため、これで終わりかという読後感だった。

2022年11月1日

読書状況 読み終わった [2022年11月1日]
カテゴリ スパイ 冒険小説

1995年発表、シアトルを舞台とするハードボイルドの力作。
過激な環境保護団体にのめり込んだ孫娘を連れ戻してほしい。依頼人は裏社会のボスだった。私立探偵レオ・ウォーターマンは、早速怪しげな団体の周囲を探り始める。やがて嗅いだのはインディアン保留区での不法投棄に絡む犯罪の臭い。どうやら、この仕事は一筋縄ではいかないらしい。

プロットはシンプルで、文体も飾り気がなくシャープ。米国社会のマイノリティであるネイティブ・アメリカンの実態を背景に置くが、物語は社会的/歴史的問題を掘り下げることよりも、根深いレイシズムによって歪んで軋むコミュニティの有り様に焦点を当てている。
主人公のバックグラウンドは最低限に抑え、脇役の造型に力を入れている。レオは〝準ホームレス〟4人を助手として率いていたが、その中のひとりが事件の核心に近づき過ぎて殺される。やり場なきレオの悔恨と憤怒。それこそが真相を暴く原動力となっていく。敗残者でありながらも誇り高い彼らを愛情込めて描いており、その生彩溢れる情景が本作の魅力と言っていい。
ハードボイルドの巨匠らへのオマージュもそこかしこに感じ、滲むような抒情性も良い。巻末解説によれば、フォードは一番好きな作家にロス・マクドナルドの名をあげている。さらに深化しているはずのシリーズは、残念ながら翻訳されていない。

2022年11月1日

読書状況 読み終わった [2022年11月1日]
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