寡作ながらも完成度の高い作品を発表し続けた覆面作家トレヴェニアン。1983年上梓の本作は、バスク地方の避暑地を舞台に、たったひと夏、主人公にとっては人生一度きりの激しい恋愛の顛末を、どこまでも甘美に、どこまでも残酷に描いた傑作だ。
原題は「カーチャの夏」。物語は、医師ジャン-マルク・モンジャンによる24年前の回想として綴られていく。1914年夏、戦争の足音が迫るヨーロッパ。25歳の青年モンジャンは、バスク地方サリーの開業医グローの助手として働いていた。
カーチャ・トレビルとの出会いは、唐突に訪れた。弟が自宅で怪我をしたので診てほしいという。ひとつの馬車に乗り家へと向かう道中、モンジャンは文字通り輝いている娘に急速に惹かれていく。透き通るように美しい容姿、気高く可憐な振る舞い、機転が利くユーモアと純粋な感性、迸る教養と知性。必然、青年は恋に落ちたが、即刻問題が立ち塞がる。弟のポールは、カーチャと瓜二つの双子で、不可解にも敵意を剥き出しにしてきた。若い医者は困惑し、毎日のように往診で訪れては会話を続けたが、何故二人を遠ざけるのかは判然としない。カーチャへの思いをさらに強めていくモンジャンに対して、ポールは遂には銃を持ち出し、友人以上の関係となることを止めるように威嚇した。
本作は、優れたミステリである前に、心を震わす上質の恋愛小説である。人を愛することの思いが強ければ強いほど、不安/苦しみも同時に深まっていく。恋愛は須く盲目/幻惑的で判断を鈍らせ、二人の間にある障害が大きいほど、より一層燃え上がる。これは、〝ハーレクイン〟界隈の鉄則だろうが、それに倣いつつもトレヴェニアンは単に甘ったるい物語に仕上げてはいない。
眩しい夏の日差しのもとで、徐々に明らかとなるトレビル家の過去。人里離れた山中、エチェベリア荘に最近越してきた一家は、町では噂の種となっていた。パリの上流階級出身でありながら、今は人目を避けるように暮らす親子三人。母親は、双子の出産がもとで死去。隠居した父親〝ムッシュー・トレビル〟は歴史の研究に没頭していた。何かと青年の身を気遣う恩人グローが、さらなる伝聞をモンジャンに告げる。父親は、カーチャに言い寄っていた男をパリで射殺したという。事件は強盗犯と見誤った事故として処理されていた。後刻、ポールが陰鬱なる事実を加えて、それを裏付けた。父親は精神を病んでいる。逢い引きの現場を目撃し、嫉妬に狂ったのだという。カーチャは、死んだ妻に生き写しだった。つまり、姉に近付く男をポールが排除する異常な態度は、家族のみならずモンジャンの命を守るためでもあった。
諦めきれないモンジャンは、カーチャとの恋を成就するべく、ひたむきにトレビル家の面々と向き合うが、突如ポールが再びの移住を宣言。叶わぬ恋に身を焦がし、追い込まれたモンジャンは覚悟を決めて、カーチャに愛を告げる。そして、全ては想像を絶する結末へと流れていく。
バスク人特有の素朴さと勤勉さ、誠実さと荒々しさを併せ持つモンジャン。学業優秀で医師としての展望が開けていたが、インターン時に勤めた精神病院で最低の評価を受け解雇されていた。その事情は、のちに壮絶なエピソードとして明かされるのだが、散りばめられた何気ない挿話が、終盤に向けて一点へと収束し、登場人物らの相貌を変えていく。
己の幸福を犠牲にしてまで家族を守ることを優先し、いまだ階級への誇りを捨て切れない皮肉屋ポール。情緒は不安定だが、子どもへの愛情は確かな〝ムッシュー・トレビル〟。そして、少女期の美しさをとどめつつも、日影に散りゆく花の如き儚さを感じさせるカーチャの謎めいた魅力。実は、カーチャの本名は〝オルタンス〟なのだが、或る日を境に本人が名乗ることを拒否したという。名前にまつわるささやかな秘密。そこに隠された事実をモンジャンが知るとき、何もかもが手遅れになっていた。
或る「死」から始まる終幕は、ひたすらに哀しく、恐ろしい。カーチャとの別れを受け入れたモンジャンは、トレビル家の三人を誘い、バスク伝統の祭りへと出掛ける。踊り、歌い、笑い合う。この幸福な時間が続くことを青年は祈る。だが、その直後、惨劇は起こった。高揚感に満ちた場景のあとだけに、以降のシーンは尚更劇的で重い印象を残すこととなる。カーチャを愛したがためにモンジャンが辿り着かねばならなかった暗い闇。読み手は、悲痛極まりない終局に言葉を失うだろう。結末へと繋がる悲劇を倍化する伏線が、巧妙に張られていたことも分かる。トレヴェニアンの仕掛けた悪夢的な罠。その何とドラスティックなことか。
回想を終えた先に待つ「跋」と記した真のエピローグが、また凄い。短いが故に、強烈な戦慄をもたらす。本作は恋愛小説であると同時に、圧倒的に「怖い」小説なのである。
- 感想投稿日 : 2019年8月26日
- 読了日 : 2019年8月26日
- 本棚登録日 : 2019年8月26日
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