大学1回の春、『風の歌を聴け』を高校時代の友人に勧められ読んだ。初読の感想は『まるっきり片岡義男やん!』。2作目の『「1973年のピンボール』であれッ⁈に変わり、短編集『中国行きのスロウボート』で前言撤回。完全にハマり、57歳の今に至るまで多くの作品を読み、文芸評論家による評論や研究本もそれなりの数、目を通してきた…つもりだった。
というのも、本書には初めて知る村上春樹のエピソードが目白押し。『この〈イム・キョンソン〉って何者?』って思うほど、村上春樹の著作を読み込み、人間 村上春樹像に深く迫る野心作。
著者 イム・キョンソンは1972年韓国生まれの人気の作家。15歳の時、日本の在日コリアン民族学校で、三角関数や微積と格闘していた頃、偶然『ノルウェイの森』を手に取る。その出会いから全作品を読破。それに加えインタビュー・スピーチ・雑誌記事・評論集ももれなくカバー。いつの間にか〈自作の村上春樹ウキペディア〉を構築できるほどに。
その膨大なデータから、自身の人生に影響をもたらしたエピソードを丁寧に選び抜き、短編小説のような構成で綴られたエッセイ。村上春樹の生い立ち、妻陽子さんとの出会いと結婚生活、千駄ヶ谷のジャズバー時代は無愛想なマスター、遮二無二に働きながらの作家への挑戦、ノルウェイの森の空前の大ベストセラー狂騒と海外逃避、文壇との距離とマラソンと創作姿勢 等。
著者の村上春樹の作品について坦懐。
これまでの人生の歩みの中には、悲しく、つらく、嬉しく、息の詰まるようなすべての瞬間を、村上春樹の文章に慰められ、支えながら生きてきたというのは事実だ。私はもともとドライな人間で、 何かどっぷりはまったり、すがったり、何かを収集したりすることはほとんど縁のない人生を送ってきた。どちらかというと心変わりが激しくて、何にでもすぐ飽きてしまうほうなのだ。ただ不思議なことに、村上春樹という作家にだけは今のこのときまで深く魅了されつづけている。
ここに村上春樹のファンの思いが凝縮されていると強く感じる。
村上春樹の小説に一貫して登場するのは、虚無的で孤高な主人公。友だちがいない、いたとしてもわずか。ライフスタイルは極めてシンプル。簡単な食事を作り、シャツにアイロンをかけ、夜になるとレコードをかけウイスキーを舐め、朝早く起きてジョギングに励む。
その確立された生き方は、人と群れず、噂話に背を向け、人に裏切られたり、辛い別れがあっても、その現実を受容する。『やり場ない感情』『憤怒』といった負のエネルギーの発露はなく、海の向こうの戦争を眺めるかのような距離感を取り、時間をかけ再生を図ろうとする。読者はそこに『強さ、逞しさ』を見出し、励まされ、歯を食いしばる人も多いのでは。
村上春樹の小説を読んでいる読者にとっては、新作のストーリーに、月が2つになったり、小人が登場したり、井戸に入ったり、空から大量の魚が降ってこようが…それらは些末であって、取るに足りないこと。何よりも小説に描かれる〈大事なものを喪失し、それを取り戻すために弛まず誠実に立ち向かう姿勢〉に出会いたいと願っているのではないかな。
慈しむようにして書かれた村上春樹愛に溢れた本書。あらためて文学には〈現実を、生活を、激変させる力がある〉極めて実用性の高いもので あることを思いしらされた一冊。
- 感想投稿日 : 2021年5月3日
- 読了日 : 2021年5月3日
- 本棚登録日 : 2021年5月3日
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