2024年を迎えてから読書の冊数がガクンと落ちた。厳密に言えば、読んではいるけれども最後まで読みきれない。これまでは隙間時間が10分でもあれば本を開いていたのに、今では片道1時間以上かける通勤電車の中でさえ本を読む気になれない。読まなきゃ読まなきゃと思ううちに、月日は流れ、葉桜が目立つ時期になってしまった。
時間はある。読みたい気持ちもある。ただ読むためのエンジンが駆動しない。本をなかなか開くことができないのだ。現に本を開き読み始めてしまえば続きが気になり読み進めていける。つまり本を開く行為そのものが億劫で、読み始めるのに膨大な労力が必要となる。
これはいったい何なのか──
さて、縁は異なもの味なものとは言い得て妙で、本との出会いは不思議なものだ。面白い本を求めているときに限ってめぼしい本が見つからない。逆にふらっと書店へ立ち寄ったときに「これは…!」という本に出会ったりする。
本書はまさにその一冊だ。
前置きはこのくらいにして、なぜ私は本を読むことができなくなったのか。分析するに、
1) 時間がない
2) 仕事による疲労
の二つの要因に分けられると考えた。しかし考えても考えても、①読書する時間はあるし、②疲労困憊するほど働いているわけでもない。
では、なぜ本が読めないのか。これにはさまざまなアプローチがあると思うが、本書は歴史的な文脈からこの問題を徐々に紐解き最終的には社会的な側面からアプローチを試みている。その過程が正しいのかは別として、非常に興味深い手法であり一読に値する価値がある。
私たちが読書をする目的を考えてみよう。勉強するため、情報収集、仕事へ役立てるため、単純に趣味として、などなど高邁なものから凡俗なものまで多岐にわたる。それぞれにそれぞれの良さがあり、どれが良いと区別できるものではない。
しかしどのような意識で読書するのかにより、その「やり方」が変わるのは事実だ。そして、現代の社会人が読書できなくなったポイントはここにある。
大衆による読書という知的慣習は日本開国に遡る。明治政府は欧米諸国へ追いつき追い越せを果たそうと、国民へ教育の重要性を説き「勉強」のために読書を推奨した。つまり当時の日本国民は資本主義が流入し長時間労働が蔓延する中で本を通じて学んでいたのだ。
そしてこの慣習は今もなお続いている。長く働くことは少なくなったが、多様なコンテンツが飽和している現代で私たちは日々時間に追われている。そんな中、本を読むことで「何か」を得ようとする。
要するに私たちが読書をするのは、程度の差こそあれ、何らかの「答え」を探すためであると言える。出版業の業績が低迷していても「自己啓発系」のジャンルが堅調なのは、それが何らかの答えをくれるからだ。
では、なぜ私たちは何でもかんでも「答え」を求めようとするのか。
「タイパ」という言葉が世に浸透して久しいが、原因はこいつだ。現代人─特に若い世代─は無駄を嫌う。無駄なく効率よく情報を集めたい、答えを知りたい。そんな下心を持っている。
人生をまるで一問一答集のように説こうとするのは現代人の特徴だ。心理学では「認知的完結欲求(NFCC)」と言うらしいが、どうやら私たちは物事の曖昧さへの耐性が著しく低いようだ。
この事実をまず覚えていただきたい。
さて、本書では、本から得られる知識を2つに分類し定義づけしている。一つは「ノイズありの知識」だ。これら小説などの本から得られる芋蔓式の知識を指す。
もう一つは、「ノイズのない知識」だ。こちらは読み手が知りたい情報そのものを指す。
そして読者は前者を不要なものと捉え後者に至上の価値を見出す。
しかし、そんな偶発的な知識を切り捨てて良いものか。たまたま得た知識が、役に立とうが立たまいが、恩恵を与えてくれるのは確かだろう。そうした知識の積み重ねが精神的な余裕へとつながっていくからだ。これを人々は「教養」と呼ぶ。
そう、私たちは「教養」が大事なものであるとは頭では理解している。けれどそんなものに労力を費やしている余裕がない。仕事に追われ、家事に追われ、推し活をして、見たい動画を倍速で見る。そんな私たちにとって、答えは今すぐに知りたいし、培った教養なんてクソの役にも立たない。
だからこそ私たちは気軽に情報の手に入るSNSにのめり込み、直接的な解が導出されない文学作品を読もうとしない。一問一答を丸暗記したのも同然だ。そんな仮初の知識で人生の壁に臨もうなんぞ、丸腰で戦車に立ち向かうのと一緒だ。必ず返り討ちにあう。
けれど私たちは懲りもせず一問一答を繰り返し挑戦する。まさに、実用的な情報を絶えず求める知性あるウォーキングデッドと言えよう。
不屈の精神と称えるべきか、阿呆の骨頂と嘲笑すべきか。
そして私たちが本を読めなくなった答えはまさしくこれだ。
しかし、私はこれを書いていて思うのである。即物的な情報は結局はすぐに廃れる。新聞と同じだ。新聞はありとあらゆる情報が記載されているが、一年と経てばただの紙屑でしかない。激動の荒波に耐えうる本質的な知識は長い時間をかけて収集し、知識と知識を掛け合わせて自らが見つけ出していくしかない。つまりそれは「知恵」だ。
皆さんも胸に手を当てて考えてみてほしい。ついこの間仕入れた実用知を現実世界へ上手く使うことができただろうか。おそらく多くの人が失敗に終わったことと思う。
なぜなら、状況に応じて実用知を使い分けていないからだ。のべつまくなしに「チシキ〜」「チシキ〜」とさまよい求めてみても、そっくりそのまま適用できるわけではない。情報や知識は状況に応じて「加工」する必要があるのだ。
にもかかわらず私たちは実用知を「加工」せずそのまま使おうとする。だがその試みは得てして失敗に終わりがちだ。だから私たちは次から次へと情報を求め続ける知的ゾンビへと化してしまう。
言うなれば知識は食材だ。新鮮なうちに適切な調理をすれば美味しい料理になる。しかし、腐った食材を調理しても美味しいものはできない。また、いかに新鮮でも調理法を誤れば美味しくはならない。
一方で、知恵つまり料理の技術があればどうか。食材が新鮮であればなおのこと、たとえ多少劣ったものであったとしても調理法ではいくらでもよくなる可能性がある。
要するに知恵とは既存の知識に付加価値をつける技法なのだ。そしてこの技法を身につけるには、偶発的に得た知識の積み重ねが必要になる。
知恵の前段階には「教養」が存在し、教養の前には「ノイズありの知識」が存在する。そして、ノイズありの知識の前には「ノイズなしの知識」が横たわる。だが、私たちはこの「ノイズなしの知識」だけを仕入れて満足している。本当に重要なのはその先の先だというのに。
これまで私が切り捨てたモノの中にどれだけ高価ものが眠っていたことか。それを思うと、本の隅から隅まで暗記するほど読みたくなる。
まあそれこそ本当に読む気が失せるんだろうけれど。
- 感想投稿日 : 2024年4月15日
- 読了日 : 2024年4月15日
- 本棚登録日 : 2024年4月15日
みんなの感想をみる