南朝全史-大覚寺統から後南朝まで (講談社選書メチエ(334))

著者 :
  • 講談社 (2005年6月11日発売)
3.46
  • (1)
  • (10)
  • (12)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 83
感想 : 7
4

 南朝の事を知りたくて読んだ。本書では南朝の歴史が、大覚寺統と持明院統の分裂―建武の新政―南北朝の時代―後南朝という流れで通史的に叙述される。南朝の研究は、南北朝正閏問題の影響による戦後の南朝軽視、残存史料の少なさから、これまで進んでこなかったという。

 本書によると、日本の中世は分裂と抗争の時代だった。すなわち、様々な階層、場所において種々の分裂と抗争が生起し、それが歴史を推進する原動力となった。分裂と抗争は皇室にも波及し、鎌倉時代中頃に皇統が大覚寺統(亀山院)と持明院統(後深草院)に分かれることとなった。きっかけは後嵯峨院が後継者を決めずに薨去したことだったが、これに伴って行われた北条時宗の皇位問題への介入が、結果的に両統の迭立に道を開くこととなった。

 両統は最初から対立関係にあったわけではなかったが、弘安末には皇位をめぐる対立が表面化した。鎌倉幕府は積極的に皇位問題に介入しようとしたのではなかった。しかし、両流がともに断絶しないことを大原則としたので、廃絶の危機にさらされた一方から泣きつかれると、不本意ながらその調停に乗り出すことを強いられた。鎌倉時代を通じて、幕府は皇位について両統迭立(実際は変則的)を基本方針とした。この幕府の方針が両統を存立させることとなった。

 このような流れのなかで大覚寺統の後醍醐天皇は即位し、すさまじい勢いで王権至上主義(聖断主義)を強力に推進した。後醍醐の王権至上主義は大覚寺統の政治遂行上の特質を受け継いだものだったが、これを高揚させたものは中継ぎとされた後醍醐自身の宿命的制約だった。この制約を体制的に保証するのが鎌倉幕府であり、幕府を排除せずしてこの制約の破棄は考えられない。後醍醐の王権至上主義が倒幕に向かう必然性はここにあった。後醍醐は、倒幕のために綸旨によって軍勢を集めるなど、それまで天皇に縁のなかった軍事にも関与した。後醍醐が軍事指揮権を勅裁事項にしようとしたことは、後に武家支配をめぐって足利尊氏との対立を招いた。

 正中の変、元弘の変を経て、1333年に鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は建武の新政を開始した。後醍醐は夥しい数の綸旨を発給した。綸旨は天皇親政の盛況の度合いをはかるバロメーターだ。また、「汗の如きの綸言」(『玉葉』)と言われたように、綸旨はいったん出たら引っ込まない点に権威の源泉があった。こうして、後醍醐は綸旨に万能の力を与え、これによる専制政治を目指した。建武の新政では、守護職や地頭職の補任など武家社会の事柄まで綸旨でもって処理した。しかし、森氏は次のように述べる。
「後醍醐天皇のもとには、毎日多くのさまざまの奏事が届き、天皇はそれらに対して何らかの裁可を下さなければならなかった。いかに有能な君主であろうと、個人の事務処理能力にはおのずから限界がある。綸旨万能を標榜し、名実ともなる親政を貫徹しようとした後醍醐天皇ではあったが、拙速ゆえの誤判や手違いが続出し、スローガンどおりにはゆかなくなった。……乱発された綸旨は整理されねばならなかった。……後醍醐天皇は、建武の新政を支える屋台骨として創設した雑訴決断所に乱発綸旨の整理という仕事を課すことによって、混迷の度を深める土地問題をなんとか切り抜けようとしたのだろう。しかし、事態はそうした小手先の対応で処すことができないほど深刻化していた。」(第二章、p.76-77)

 さらに、二条河原落書で批評された綸旨の偽造の横行や、綸旨の撤回がされたことは、綸旨の権威を失墜させることとなった。また、後醍醐政権の陣容はかなりセクト色の濃いものだったため、政権の外部には強い不満があったという。

 その後、徹底的な天皇親政を目指す後醍醐天皇を中心とする公家勢力と、足利尊氏を棟梁と仰ぐ武家勢力は対立し、1336年、後醍醐は神器を奉じて吉野へ逃れることとなった。南北朝の並立は、鎌倉後期以降の大覚寺統と持明院統の皇位をめぐる熾烈な争いが、その決定的な導火線だった。南朝約六〇年の間には、後醍醐・後村上・長慶・後亀山の四代の天皇が登場した。南朝は内裏や関連寺院を構え、主要な朝儀をきちんとこなす、小規模ながら朝廷としての要件を十分に備えたものだった。また、後醍醐以来の王権至上主義が継承された。この南北朝時代は、正平の一統(1351-1352年)を挟み、1392年の合体まで続いた。

 室町幕府は何度かチャンスがあったにもかかわらず、南朝を滅ぼしはしなかった。また、足利義満は南北朝合体に際して、風前の灯火同前の南朝に対し、殊更にその体面を慮った講和条件(天皇は今後旧南北両方から交代で出す、など)を示し、神器の譲渡という南北合体のセレモニーに拘った。その理由について、森氏は次のように述べる。
「その機はあったのに室町幕府が南朝の息の根を止めなかったのも、足利義満が明徳三年(一三九二)にあえて合体のセレモニーにこだわったのも、理由はともに南朝を平和裡に北朝と合体させ、皇統の一体化による『両統不可断絶』を達成しようと考えたからであろう。なぜ幕府はこれほど『両統不可断絶』に固執したのだろうか。この問題は、広い見地から総合的に検討されねばならないが、基本的には、武家政権の側に、幕府存立の理論的根拠を与えているのは天皇家だという考え方があり、その天皇家が分裂したままであったり、ましてや一方が断絶するようなことがあっては理論的根拠を与える母体に瑕疵が生じ、当の理論そのものの十全さを損なうという思考からいまだ解放されなかったためではないだろうか。」(第三章、p.135-136)

 鎌倉幕府が堅持した「両統不可断絶」という原則は、室町幕府にも受け継がれた。この武家政権に継承された基本的な考え方が、南朝が潰されずに長期間延命できた決定的な理由だった。

 また、森氏は「たとえ壊滅的な状況であろうとも分裂した王権を生きたまま放置することが支配権力にとっていかに危険きわまりないか、足利義満は熟知していたのであろう」という。すなわち、南朝を分裂したまま残しておくと、幕府内部の抗争などが起こった際に、北朝をいただく体制派に対して反体制派から擁立される可能性がある。このため、「将来に禍根を残さないためにも、正式な合体のセレモニーを経ることによって、南朝を名実ともに解消しておく必要があった」という。(第五章、p.204)

 しかし、幕府が合体条件を履行することはなかった。また、半世紀以上独立した朝廷の実質を維持し続けた南朝とこれに連なる勢力が、合体儀式という一片の約束事で簡単に消滅することはなかった。合体の儀式後も皇位をめぐる抗争は長く続くこととなり(後南朝)、地方ではなお南朝勢力の残存はおおうべくもなかった。それは、後醍醐天皇や南朝の歴代天皇が地方の武士や寺社にじかに綸旨を下して、彼ら在地勢力を直接的に掌握しようとしたことと無関係ではなかった。騒擾事件が起こると、反体制派は旧南朝の皇胤を旗印に擁立し、あたかも南北朝動乱の再来のような形勢となった。

 本書からは、天皇親政、すなわち天皇自身による政治主導が失敗した場合には、その権威が取り返しのつかないほどに失墜してしまうことがよくわかる。後醍醐の遺言「玉骨はたとひ南山の苔にうづもるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」(『太平記』巻二一)からは、その無念がひしひしと伝わってくる。また近年、「愛子様を天皇に」といった主張が見られるが、将来に禍根を残しかねなかったり、ましてや皇統の分裂をもたらしかねない皇位継承の方法は、絶対に避けられるべきだと思った。南朝の行宮が置かれた吉野や賀名生を訪れてみたいものだ。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2019年11月23日
読了日 : 2019年11月23日
本棚登録日 : 2019年11月23日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする