序章に映画「花束みたいな恋をした」の主人公、麦と絹の会話が出てくる。
麦「俺ももう感じないのかもしれない」
絹「……」
麦「ゴールデンカムイだって7巻で止まったままなんだよ。宝石の国の話も覚えてないし、いまだに読んでる絹ちゃんが羨ましいもん」
絹「読めばいいんじゃん、息抜きぐらいすればいいんじゃん」
麦「息抜きにならないんだよ、頭入んないんだよ。(スマホを示し)パズドラしかやる気しないの」
絹「……」
麦「でもさ、それは生活するためのことだからね。全然大変じゃないよ。(苦笑しながら)好きなこと活かせるとか、そういうのは人生舐めてるって考えちゃう」(脚本坂元裕二)
新書の内容は、明治から現代までのアカデミックな読書史なのだけど、基本的にはこの「台詞」の解題で1本筋が通っているところに、この本の特徴がある。つくづく「花束ー」は名作だった。
パズドラはする時間はあるのに、どうしてゴールデンカムイは読めないのか。それは麦の中でパズドラは、70年代お父さんの日曜日のごろ寝のような息抜きであり、カムイは「教養」だからだ(私の中のパズドラとカムイの位置付も同じである)。では、何故絹はいまだに読めているのか。それは絹の職場がたまたまゆとりがあったからだけではなく、絹の両親が中産階級で将来失業したときの不安がなく、麦のそれは労働者階級だからだろう(←この視点は本書から教えられた)。
明治時代から現代まで、読書階級は一部エリートから、どんどん大衆に降りてきて、読書の目的も教養から自己啓発、娯楽、今や情報というふうに変わっていると分析する(あくまでもベストセラー読書層についての分析)。←ちょっとザクッとまとめ過ぎ。もっと丁寧に分析しているので、読んでほしい。
では、どうやって「働いていても本が読めるようになる」のか。三宅さんは「半身社会を生き」ればいい、と提案する。全身全霊で労働するのではなく、例えば「週3勤務、兼業、持続可能、ジェンダーフリー」の労働に切り替える。勿論、「読書」は「労働に関係しない文化的な時間を楽しむこと、或いは介護や育児」ということでもある。
バブル崩壊あと、民営化・グローバル化のもと、仕事=自己実現となり、自己啓発に必要な情報以外は「ノイズ」として遠ざけられるようになったと三宅さんはいう。それがファスト教養などの流行にもつながる。それが「良し」とは、三宅さんも考えていない。だから、半身社会の提言などをしているのではあるが、全然深められていない。そこが「本書の限界」である。
三宅さんは今年30歳。生まれたときは既にバブル崩壊。本書の史実はすべて「歴史=過去」として記述している。その後の展開は総て「仕方ない」ものとして受け止めているのが特徴である。三宅さんには、「何故このような社会になったのか」という視点がない。原因分析ができていないから「具体的にどうすれば「半身社会」というビジョンが可能なのか、私にもわからない」(265p)ということになるのである。
イラストを描いていて生きていきたいと思っていた麦の夢が、何処で捻じ曲げられたのか、何が彼をそうさせたのか。
まだまだ名作は、何度も観られ続けなれなくてはならない。
- 感想投稿日 : 2024年6月25日
- 読了日 : 2024年6月25日
- 本棚登録日 : 2024年6月25日
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