なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書 1212)

  • 集英社 (2024年4月17日発売)
3.72
  • (422)
  • (841)
  • (599)
  • (145)
  • (34)
本棚登録 : 12105
感想 : 1022
3

序章に映画「花束みたいな恋をした」の主人公、麦と絹の会話が出てくる。

麦「俺ももう感じないのかもしれない」
絹「……」
麦「ゴールデンカムイだって7巻で止まったままなんだよ。宝石の国の話も覚えてないし、いまだに読んでる絹ちゃんが羨ましいもん」
絹「読めばいいんじゃん、息抜きぐらいすればいいんじゃん」
麦「息抜きにならないんだよ、頭入んないんだよ。(スマホを示し)パズドラしかやる気しないの」
絹「……」
麦「でもさ、それは生活するためのことだからね。全然大変じゃないよ。(苦笑しながら)好きなこと活かせるとか、そういうのは人生舐めてるって考えちゃう」(脚本坂元裕二)

新書の内容は、明治から現代までのアカデミックな読書史なのだけど、基本的にはこの「台詞」の解題で1本筋が通っているところに、この本の特徴がある。つくづく「花束ー」は名作だった。

パズドラはする時間はあるのに、どうしてゴールデンカムイは読めないのか。それは麦の中でパズドラは、70年代お父さんの日曜日のごろ寝のような息抜きであり、カムイは「教養」だからだ(私の中のパズドラとカムイの位置付も同じである)。では、何故絹はいまだに読めているのか。それは絹の職場がたまたまゆとりがあったからだけではなく、絹の両親が中産階級で将来失業したときの不安がなく、麦のそれは労働者階級だからだろう(←この視点は本書から教えられた)。

明治時代から現代まで、読書階級は一部エリートから、どんどん大衆に降りてきて、読書の目的も教養から自己啓発、娯楽、今や情報というふうに変わっていると分析する(あくまでもベストセラー読書層についての分析)。←ちょっとザクッとまとめ過ぎ。もっと丁寧に分析しているので、読んでほしい。

では、どうやって「働いていても本が読めるようになる」のか。三宅さんは「半身社会を生き」ればいい、と提案する。全身全霊で労働するのではなく、例えば「週3勤務、兼業、持続可能、ジェンダーフリー」の労働に切り替える。勿論、「読書」は「労働に関係しない文化的な時間を楽しむこと、或いは介護や育児」ということでもある。

バブル崩壊あと、民営化・グローバル化のもと、仕事=自己実現となり、自己啓発に必要な情報以外は「ノイズ」として遠ざけられるようになったと三宅さんはいう。それがファスト教養などの流行にもつながる。それが「良し」とは、三宅さんも考えていない。だから、半身社会の提言などをしているのではあるが、全然深められていない。そこが「本書の限界」である。

三宅さんは今年30歳。生まれたときは既にバブル崩壊。本書の史実はすべて「歴史=過去」として記述している。その後の展開は総て「仕方ない」ものとして受け止めているのが特徴である。三宅さんには、「何故このような社会になったのか」という視点がない。原因分析ができていないから「具体的にどうすれば「半身社会」というビジョンが可能なのか、私にもわからない」(265p)ということになるのである。

イラストを描いていて生きていきたいと思っていた麦の夢が、何処で捻じ曲げられたのか、何が彼をそうさせたのか。

まだまだ名作は、何度も観られ続けなれなくてはならない。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: な行 ノンフィクション
感想投稿日 : 2024年6月25日
読了日 : 2024年6月25日
本棚登録日 : 2024年6月25日

みんなの感想をみる

コメント 0件

ツイートする