谷崎潤一郎の、どんどん進む「日本の西洋化」に対する「(自らも言っているが)愚痴」の吐露エッセイである。
曰く(Audibleで聞いているので、原文の儘ではない)。
厠は、母屋から離れた少し薄暗く静かで清潔な、あの空間だから風情があり、落ち着くのである。
曰く。
暖房はストーブはどうしても風情がない。やっと「電気炭火」を入れて落ち着いた。
曰く。
西洋の電化製品をもし日本独自の発達をもって作ったならば、あんなやかましい音は立てさせないだろう。屋根も西洋建築のように採光を工夫するのではなく、瓦と梁とで演出する「闇」の中にこそ、その建築の粋があるだろう。
曰く。
漆器は、燭台や蝋燭のもとでこそその美しさが映えるように作られている。刺し身などの食べ物も、電灯のもとでは美味しく見えないように調理されているのである。
曰く。
座敷の仄暗さは、障子からの採光をもとに作られている。そのための砂壁である。この部屋でこそ、屏風絵や掛け軸が生きるようになる。
曰く。
この違いは、西洋人と日本の気質の違いからきているのだろう。西洋人は黒人の血は1/36でも気にしている。絶対の透明な白を追求する。‥‥白衣を真っ白なものにするのも如何なものか。もっと肌あいに近いものにすれば、とか筆ペンみたいなものを作れば良いのに、とか言っているのは、その後一部実現したのだから、谷崎さんの愚痴もなかなか無視出来ないところもある。
等々、等々、(私のメモは正確ではないことをことわった上で)印象を述べるならば、
audibleで聴くと、なんと聴きやすいことか!著者は漢文と古文の素養があるために難しいという人もいるかもしれないが、耳で聴くとほんと優しい文章を書く。
聴き終わって、いつ頃の文章なのかと想像した。電車に乗りながら、家々の電灯景色を見ているし、ストーブや電化製品をかなり嫌っていることから、戦後だろう。家を新調したのだから、ある程度文豪として落ち着いた晩年の1960年代だろうか、と想像していた。
1933年だそうだ。真からびっくりした。
30年代も、60年代も、古き良き日本を懐かしむ風潮は、全く同じなのだ。流石に今はもう、谷崎老の言ってることは通用しないよ、と言おうとしたけど、この文章が90年前に書かれたことを考えると、通用しているところを幾つか探すことは、日本文化にとっては貴重なことなのかもしれない。
- 感想投稿日 : 2024年7月15日
- 読了日 : 2024年7月15日
- 本棚登録日 : 2024年7月15日
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