李陵・山月記 (ハルキ文庫 な 8-1 280円文庫)

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レビュー : 8
著者 :
kuma0504さん ら行 フィクション   読み終わった 

この男は何を目あてに生きているのかと李陵は怪しんだ。いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。蘇武の口うらから察すれば、いまさらそんな期待は少しももっていないようである。それではなんのためにこうした惨憺たる日々をたえ忍んでいるのか? 単于に降服を申出れば重く用いられることは請合いだが、それをする蘇武でないことは初めから分り切っている。陵の怪しむのは、なぜ早く自ら生命を絶たないのかという意味であった。李陵自身が希望のない生活を自らの手で断ち切りえないのは、いつのまにかこの地に根を下して了った数々の恩愛や義理のためであり、またいまさら死んでも格別漢のために義を立てることにもならないからである。蘇武の場合は違う。彼にはこの地での係累もない。漢朝に対する忠信という点から考えるなら、いつまでも節旄を持して曠野に飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首刎ねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる。はじめ捕えられたとき、いきなり自分の胸を刺した蘇武に、今となって急に死を恐れる心が萌したとは考えられない。李陵は、若いころの蘇武の片意地を──滑稽なくらい強情な痩我慢を思出した。単于は栄華を餌に極度の困窮の中から蘇武を釣ろうと試みる。餌につられるのはもとより、苦難に堪ええずして自ら殺すこともまた、単于に(あるいはそれによって象徴される運命に)負けることになる。蘇武はそう考えているのではなかろうか。運命と意地の張合いをしているような蘇武の姿が、しかし、李陵には滑稽や笑止には見えなかった。想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそは誠に凄じくも壮大なものと言わねばならぬ。昔の多少は大人げなく見えた蘇武の痩我慢が、かかる大我慢にまで成長しているのを見て李陵は驚嘆した。しかもこの男は自分の行ないが漢にまで知られることを予期していない。自分がふたたび漢に迎えられることはもとより、自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつあることを漢はおろか匈奴の単于にさえ伝えてくれる人間の出て来ることをも期待していなかった。誰にもみとられずに独り死んでいくに違いないその最後の日に、自ら顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ。誰一人己が事蹟を知ってくれなくともさしつかえないというのである。李陵は、かつて先代単于の首を狙いながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもって匈土の地を脱走しえなければ、せっかくの行為が空しく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった。人に知られざることを憂えぬ蘇武を前にして、彼はひそかに冷汗の出る思いであった。

中島敦「李陵」を初めて読んだ時に、私は誤読をしていた。李陵は最後まで自分に誇りを持って人生を全うしたのであり、蘇武は漢への忠節を持して極北で19年を耐えたのだ。そこには、忠節に対する男の態度の違いがあったのだ。という読み方をしていた。

久しぶりに本作を読んで、戦前に書かれたにしては、(正に隠れて天皇制批判をしているかのように)兵士が捕虜として捕まった時にどういう風になるのか、を予め予行演習しているかのような展開に驚きを禁じ得なかった。それと同時に、私の読み方は大きな勘違いであることに気がついた。

蘇武は「節旄を持して」忠節を守っていたから、耐えたのではなかった。「痩我慢が、かかる大我慢にまで成長してい」たのである。意地を張るとも云う。誇りとでも云うだろう。そして、李陵はそんな蘇武に気後れをする。しかし思うに、李陵にしても自死しなかったのは、義理などではなく誇りだっただろう。それが最後の漢の使節の誘いを断固断る処に結実する。

翻って、北方謙三版「李陵」である所の「史記武帝紀6」では、どのように描いたか。

北方も「節旄」を守ってという形にはしていない。むしろ、蘇武は自然を楽しんでいた。さらには、狼を飼ってそれに武帝の名前を付けて徹としていた。「国がない。そんなものを求めて蘇武は酷寒の地にいるのか」と李陵に呟かせている。蘇武の中にむしろ無政府主義者への端さえも見つけようとしているのである。そういう李陵に、蘇武に対する「気後れ」はない。この李陵もやはり、武帝に対する憎しみを越えて、自らの人生を選びとっている。しかし、そこまで描くのに五巻目と六巻目、本を二冊まるまる使っている所が中島敦とは違う処である。

2014年3月4日読了

レビュー投稿日
2014年3月6日
読了日
2014年3月6日
本棚登録日
2014年3月6日
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