昨年末のお休み間際の図書館の新刊コーナーに置いていた。韓国文学のショートショートを、原文を参照しながら読める本。長編ならば絶対出来ないけど、短編ならば読み比べができる。何かわかるかもしれない。極めて薄い本(80頁弱)だけど、1200円(税抜き)と安くはない。
バスの中は相変わらず蒸し風呂のようだった。
しばらくの間沈黙が続いた。
塩漬けの白菜のようにぐったりとなった人々の喘ぎ声だけが、バスの空席にまで満ちていた。(17p)
버스 속은 여전히 가마솥 같았다.
잠시 동안 조용한 친목이 계속되었다.
절인 배츳잎처럼 풀어 진 사람들의 할딱거림만이 버스의 빈자리까지 꽉 차 있었다.
たまたま抜書きしたこの一文で、勿論韓国文学の文体すべてが説明できるわけではないが、気がついたことを述べる。
ある程度ハングルが判る人ならば一目瞭然だけど、単語の順番は日本語と同じである。訳文同様、丁寧語は使われていない。語尾は日本語よりも乾いている気がする(カタッタ、テオッタ、イソッタ)。
「蒸し風呂のようだった」→「蒸し風呂カタッタ」
「続いた」→「継続(ケソク)テオッタ」
日本語の方がよく言えば情緒的、悪く言えばウジウジしているようには思えないだろうか?
大きな違いのひとつは、単語のセレクトが違う。熱帯夜に密閉したバスの中の状態を「蒸し風呂」に例えるのは日本語でも無いとは言えない(でも、少し大騒ぎし過ぎな気がするが、比較的空気が乾いている韓国では耐えられないのかもしれない)。しかしその中でぐったりとしている人々を「塩漬けの白菜」と例える文化は、日本には無い。
偶然かもしれないが、翻訳で41頁かかった短編は、原文は33頁で済んでいる。日本語の方が、装飾が過剰なのかもしれない。
最大の違いは、やはり韓国と日本の、歴史と政治状況の違いなのだと思う(よく、韓国人は怒り過ぎだと非難する日本人がいるが、これは歴史と国民性の違いからきていると私は思っている。顔が同じなのでよく勘違いされるが、韓国人は外国人なのである)。
読み始めて、最初私は、「これは韓国の近未来のディストピア小説か?」と思った。主人公は戒厳令下深夜の道路を「横切っただけ」で、「即決裁判所」に向かう警察の「バス」に乗せられる。その他「無断行商」や「路上喧嘩」だけで人々がバスに乗せられていた。バスの中には「制服(警官)」が権力の頂点にいた。日本の近未来では、ありそうな情景ではある。しかしこれは1970年代、深夜にだけ戒厳令をひいていた朴正煕政権下の日常風景だったのである。つい最近までの「地球の歩き方韓国」には、「時々戒厳令練習のサイレンが鳴るから、絶対に動かないこと。動けば警察に捕まるかも」と書いていたのを思い出した(2000年代の歩き方にはあった)。
路上喧嘩していたのは「娼婦」と「大学生」である。どちらも日本には路上では目立たない。特に大学生は男なのに「(娼婦は)20年間不本意ながら守ってきたぼくの純潔を盗もうとした」とのたまうのである。男が「純潔」だなんて!これも儒教文化の残滓があるためか。そして彼は、この朴正煕政権の過剰な防衛をチクチク批判する「知性」をも持っている。これも、日本の大学生には無い伝統だろう。大学生には、自分は自国を担うべき役割があるという自覚がある。戒厳令下の経験なんて、日本の文学者には望んでもできていない体験ではある。
ホントは、会話文だけでも原文を書き写せば、かなり生きたハングルの勉強になりそうな気がする。買ってみるか?
- 感想投稿日 : 2021年1月5日
- 読了日 : 2021年1月5日
- 本棚登録日 : 2021年1月5日
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