1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産

4.17
  • (11)
  • (12)
  • (6)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 179
レビュー : 8
著者 :
lacuoさん 政治   読み終わった 

丸山真男は「我が国においては近代的思惟は超克どころか真に獲得されたことすらない」と宣言している。
p182

1960年安保闘争の敗北直後の1960年10月
『民主主義の神話』が出版された。
吉本隆明は60年安保が市民の政治参加だったと述べる丸山真男を批判し、丸山の言う市民民主主義はブルジョア民主であり、丸山の見解は進歩的啓蒙主義、擬制民主主義の典型的な思考法をしめし、現在、日共の頂点から流れ出してくる一般的な潮流をたくみに象徴している」と断定した。
p184

1972年の連合赤軍事件は、山岳ベースでの12人のリンチ死から、あさま山荘での銃撃戦にいたる事件をいう。
同志12人を総括の名のもとに死亡させた衝撃は大きく、1960年代の若者たちの叛乱の終焉をもたらしたと言われる。
p500

赤軍派の結成集会は1969年9月。
赤軍派議長となった塩見孝也の「過渡期世界論」がブント全体に知られていた。

メンバーとしては、1971年にパレスチナに渡った重信房子が有名。
重信は、父親が戦前に血盟団事件という右翼青年将校のクーデター未遂事件に関与していた。
p501

血盟団事件とは wikipediaより

日本赤軍のリーダーの重信房子の父親は血盟団員であり、赤ん坊の房子は井上に膝に抱かれたことがあるといわれる。

井上日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名を標的に選定し、配下の血盟団メンバーに対し「一人一殺」を指令。
血盟団に暗殺対象として挙げられたのは犬養毅・西園寺公望・幣原喜重郎・若槻禮次郎・団琢磨・鈴木喜三郎・井上準之助・牧野伸顕らなど、いずれも政・財界の大物ばかり。
井上はクーデターの実行を西田税、菅波三郎らを中心とする陸軍側にもちかけたが、拒否されたの。
1932年(昭和7年)1月9日、古内栄司、東大七生社の四元義隆、池袋正釟郎、久木田祐弘や海軍の古賀清志、中村義雄、大庭春雄、伊東亀城と協議した結果、2月11日の紀元節に、政界・財界の反軍的巨頭の暗殺を決行することを決定し、藤井斉ら地方の同志に伝えるため四元が派遣された。
ところが、1月28日第一次上海事変が勃発したため、海軍側の参加者は前線勤務を命じられたので、1月31日に海軍の古賀、中村、大庭、民間の古内、久木田、田中邦雄が集まって緊急会議を開き、先鋒は民間が担当し、一人一殺をただちに決行し、海軍は上海出征中の同志の帰還を待って、陸軍を強引に引き込んでクーデターを決行することを決定した。
2月7日以降に決行とし、暗殺目標と担当者を以下のように決めた。
池田成彬(三井合名会社筆頭常務理事)を古内栄司
西園寺公望(元老)を池袋正釟郎
幣原喜重郎(前外務大臣)を久木田祐弘
若槻禮次郎(前内閣総理大臣)を田中邦雄
徳川家達(貴族院議長)を須田太郎
牧野伸顕(内大臣)を四元義隆
井上準之助(前大蔵大臣)を小沼正
伊東巳代治(枢密院議長)を菱沼五郎
団琢磨(三井合名会社理事長)を黒沢大二
犬養毅(内閣総理大臣)を森憲二
井上準之助暗殺事件[編集]
1932年(昭和7年)2月9日、前大蔵大臣で民政党幹事長の井上準之助は、選挙応援演説会で本郷の駒本小学校を訪れた。自動車から降りて数歩歩いたとき、暗殺部隊の一人である小沼正が近づいて懐中から小型モーゼル拳銃を取り出し、井上に5発の弾を撃ち込んだ。井上は、濱口雄幸内閣で蔵相を務めていたとき、金解禁を断行した結果、かえって世界恐慌に巻き込まれて日本経済は大混乱に陥った。また、予算削減を進めて日本海軍に圧力をかけた。そのため、第一の標的とされてしまったのである。小沼はその場で駒込署員に逮捕され、井上は病院に急送されたが絶命した。
暗殺準備
四元は三田台町の牧野伸顕内大臣、池袋正釟郎は静岡県興津の西園寺公望、久木田祐弘は幣原喜重郎、田中邦雄は床次竹次郎、須田太郎は徳川家達の動静を調査していた。第一次上海事変での藤井斉の戦死を知った井上らは陣容強化のため大川周明を加えることを画策し、2月21日、古賀清志は大川を訪ねて説得し、大川はしぶしぶ肯いた。また2月27日、古賀と中村義雄は西田税を訪ね、西田の家にいた菅波三郎、安藤輝三、大蔵栄一に、陸軍側の決起を訴えたが、よい返事は得られなかった[1]。
一方、井上は井上準之助暗殺後に菱沼五郎による伊東巳代治の殺害は困難になったと判断し、菱沼五郎には新たな目標として政友会幹部で元検事総長の鈴木喜三郎を割り当てた。菱沼は鈴木が2月27日に川崎市宮前小学校の演説会に出ることを聞き、当日会場に行ったが、鈴木の演説は中止であった。
團琢磨暗殺事件
翌日再び目標変更の指令を受け、菱沼の新目標は三井財閥の総帥(三井合名理事長)である團琢磨となった。團琢磨が暗殺対象となったのは三井財閥がドル買い投機で利益を上げていたことが井上の反感を買ったとも、
労働組合法の成立を先頭に立って反対した報復であるとも言われている。菱沼は3月5日、ピストルを隠し持って東京の日本橋にある三井銀行本店(三井本館)の玄関前で待ち伏せし、出勤してきた團を射殺する。菱沼もまたその場で逮捕された。
逮捕・裁判
警察はまもなく、2件の殺人が血盟団の組織的犯行であることをほぼ突き止めた。
井上はいったんは頭山満の保護を得て捜査の手を逃れようとも図ったが、結局3月11日に警察に出頭し、関係者14名が一斉に逮捕された。
小沼は短銃を霞ヶ浦海軍航空隊の藤井斉海軍中尉から入手したと自供した。裁判では井上日召・小沼正・菱沼五郎の三名が無期懲役判決を受け、また四元ら帝大七生社等の他のメンバーも共同正犯として、それぞれ実刑判決が下された。しかし、関与した海軍側関係者からは逮捕者は出なかった。四元は公判で帝大七生社と新人会の対立まで遡り、学生の就職難にあると動機を明かした。

元東大全共闘の小阪修平は「赤軍派の登場は、多くの学生に颯爽としたイメージで受け取られた」という。
p509

赤軍派の大菩薩峠での逮捕者たちは、社会を反映していた。
トップは赤軍派の指導者の名があり、京都大学など一流大学出身者だった。
その下にサブリーダーがいて、二流大学の出身者だった。
最底辺は、青年労働者や無名校の学生たちだった。
赤軍派日本の国家権力打倒をめざしていたが、学歴優先主義だった。
p519

1960年安保を戦ったブントが、幹部は東大出身者が占め、機動隊と衝突するのは、法政大や中央大の部隊だった。
p520

大菩薩峠で打撃を受けた赤軍派は1970年1月の集会で、世界同時革命の国際的拠点を築く方針を宣言した。

彼らは、北朝鮮の体制を支持していなかった。
もともと反帝国主義、反他スーリにズムを掲げ、ソ連をはじめ既存の社会主義国は堕落しているというのが多くのセクトの主張だった。
赤軍派は、北朝鮮や中国の民族主義を低く評価していた。

キューバだけは、ゲバラの劇的な死もあって、例外的に支持する社会主義国だった。
p521

よど号ハイジャック成功。
我々は、明日のジョーである。 p523

元東大全共闘の船曳建夫によれば、当時の学生運動会は狭く、知人の知人の知人くらいになれば、必ず一人くらい赤軍派がいた、とのこと。
p666

国際比較 p817

1968年は、世界的な学生叛乱の時期であったというのは、間違い。
大部分のアジア/アフリカ諸国は学生叛乱を経験していない。
中国の文化大革命、ゲバラの活動、チョコ事件などは学生叛乱ではない。

学生叛乱が起きたのは、日本、アメリカ、フランス、イタリア、西ドイツなどである。
イギリスでは、同時期、大学生数の急増はなく、学生の大規模な叛乱は起きていない。
p817

レビュー投稿日
2016年4月11日
読了日
2016年3月2日
本棚登録日
2016年3月2日
0
ツイートする
このエントリーをはてなブックマークに追加

『1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産』のレビューをもっとみる

『1968〈下〉叛乱の終焉とその遺産』のレビューへのコメント

まだコメントはありません。

コメントをする場合は、ログインしてください。
ツイートする