日本史への挑戦―「関東学」の創造をめざして (ちくま学芸文庫)

  • 筑摩書房 (2008年12月10日発売)
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感想 : 3

日本史をひもとけば、歴史的にも関西方面、つまり「畿内」が中心だった時代が長かったことが語られていますが、この本では、歴史上であまり重視されてこなかった東国を見直し、「関東学」をしっかりと確立させようという気概のもとにまとめられています。

歴史学者の森教授と網野教授による対談という形で全編が綴られているため、専門的な内容ながらも口語口調でまとめられており、理解しやすい形になっています。
二人は古代考古学と中世史と、専門の時期が違うため、幅広いスパンにおいての日本史が、対話の中でじっくりと見直されていきます。

1877(明治10)年のモースによる大森貝塚の発掘は、古代の人の生活住居が発見されたことで、初めて日本に進化論が紹介された、エポックメイキングなものだと採り上げられていました。
実際、発掘後に、横浜にいたキリスト教宣教師からクレームを付けられたとのこと。
日本ではキリスト教がさほど根付かなかったため、あまりピンときませんが、宣教師からすれば、教義の整合性が取れなくなり、布教しづらくなったのでしょう。

弥生時代とは、もう言葉として定着していましたが、そもそもは文京区向ケ丘弥生町の弥生町遺跡からとられた名だと、改めて思い出しました。
縄文遺跡は三内丸山や登呂遺跡など、遠くであるのに比べ、弥生町遺跡があまりに都心のため、感覚的に不思議な気がします。

「関東」という言葉がいつ頃から使われたのかというと、意外に古く、奈良時代の聖武天皇の頃からだそうです。
ここでいう「関」とは、不破の関(岐阜県関ヶ原)のことで、美濃や尾張から東という、「東国」と同義の広い地域を指していたとのこと。
「坂東」は、足柄と碓氷の峠を境にした地域で、これが現在の関東地方だそうです。

関東と坂東の違いがわかっていなかったため、これで区別がクリアになりました。

「関西」という言葉は、関東から見た表現になり、鎌倉時代の文献から見られるようになったとのことです。
西の王権は天皇、東の王権は将軍と、日本に2つの中心があるという考えがはっきり定着したのが、鎌倉時代の頃だからだそう。

ちなみに「九州」「四国」も鎌倉時代から使われ始め、室町時代に「奥羽」が、南北朝期に「中国」が使われ始めたとのこと。

鎌倉時代には、東も西もそれぞれの国という意識だったのが、明治時代に大和中心の見方が力を持ち、神話を歴史として教えたことで、関西の方が歴史的に重要視されるようになったのではないかと、著者たちは指摘しています。

いまだに東の歴史家と西の歴史家とでは歴史のとらえ方が違うようで、西の歴史家は、米のできない地域は遅れているといった水田中心意識を一般常識としているなどと語られていました。

締めとして、"「関東学」を独自の学問として言えるように頑張りたい"、という二人の決意が語られるとともに、"関東の土壌の中から起こった江戸が、18世紀頃は世界最大の都市だったことをきっちり掘り起こさないと、安易に日本の首都を何処かへ移そうというような意見が出てくるので、気をつけなくてはならない"、という話で終わっています。
以前起こった、「首都移転問題」を意識しての対談だったように感じられました。

自然の地形や古墳のほかに、各地の寺の紹介もされており、やはり歴史的に寺社の存在は大きなものだったことがわかります。
もはや、過去の幕府のよすががほとんど失われているのに比べ、寺社は現在までその歴史が続いているからというのがその理由ですが。
歴史学者ではない私は、関東と関西の優位争論については特に気になりませんが、これまであまり脚光を浴びることのなかった、雛の地域としての関東の謎がさらに解明されていけば、いっそう興味も深まるだろうと思いました。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 歴史
感想投稿日 : 2013年10月23日
読了日 : 2013年10月23日
本棚登録日 : 2013年10月23日

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