部落差別問題を描いた小説だとは知っていたが、まさか主人公が最後に亜米利加のテキサスに旅立つとは!
近代自然主義文学の代表。藤村は詩人でもあったので、信濃の描写が非常に美しい。例えば
千曲川の水は黄緑の色に濁って、声もなく流れて、遠い海のほうへ……その岸に蹲るかのような低い柳の枯れ枯れとなった様…
とか
北国街道の灰色な土を踏んで、花やかな日の光を浴びながら、時には岡に登り、桑畑の間を歩み、時にはまた、街道の両側に並ぶ街々を通り過ぎて……
などの描写。
信濃の人々の素朴で勤勉で貧しい人柄や生活の描き方も味わい深い。
だけどまた、「俺は武士の家系の末裔だ」とか「あいつは実は新平民らしい」などということで、人を蔑み、優越感を感じることでアイデンティティを得てしまうのも、悲しいかな、人間という生き物の自然。
そして、主人公のように被差別部落出身の者がその親の「出自を隠せ。絶対に喋るな。」という教えと“尊敬する同族の先輩のように堂々と生きたい”という思いの狭間で苦しみもがき続けるのもまた、人間の“自然”であり、(現在はまた、色んな差別があるが)この時代を隠さずに写実したものだろう。漱石や鴎外だけを読んでも、明治の現実は理解出来ないだろう。
主人公は被差別部落出身であることを隠して、小学校教員をしており、生徒から慕われているが、権威主義の校長一派に貶めよう、貶めようとされ、出自の秘密を掴まれて、噂を流されてしまう。精神的に学校に出勤することが耐えられなくなってきたとき、尊敬していた被差別部落出身の思想家が壮絶な死をとげ、彼はカミングアウトする決心をする。
生徒たちの前で「私は卑しい穢多です。どうぞ許して下さい。」と土下座した。そんなことしなくていいのに。だけど、生徒達は元から慕っていた教師のそのような姿を見て、却って尊敬の気持ちを高め、「どうか瀬川先生を辞めさせないで下さい。」と校長に訴える。
父親からの「出自を隠せ」という掟を破り、カミングアウトした瀬川丑松は、それまで自分を取り囲んでいた心の壁も世間の固定観念も“破壊”し、“テキサスへ”とい自由な行動に出ることが出来た。旧態依然として、固定観念の枠の中で守られることを選んでいた、校長達のほうが、ちっぽけに見えた。
間宮祥太朗主演で映画が公開されているらしい。だから読んだ訳ではないが。あの人、不良の役も真面目な役も出来るんですね。
- 感想投稿日 : 2022年7月29日
- 読了日 : 2022年7月29日
- 本棚登録日 : 2022年7月29日
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