3つの作品が収録されています。時系列で並べると、エウチュプロン→ソクラテスの弁明→クリトンとなります。実際この本も、タイトルこそ弁明がメインになっていますが、収録順はエウチュプロン→弁明→クリトンです。
文章は一文が長く、また指示代名詞「それ」が多くて意味が取りづらいです。
一例としてエウチュプロンの一三の12を引用します。
「ソクラテス:それならまたすべて"正しいもの"は"敬虔なもの"であるか、それともすべて"敬虔なもの"は"正しいもの"であるが、しかし"正しいもの"はそのすべてが"敬虔なもの"であるのではなくて、それの一部が"敬虔なもの"で、それの一部が何か他のものであるのかね。
エウチュプロン:ソクラテス、その言われていることについて行けません。」
せっかく対話篇で著しているのに、日本語の会話としては不自然です。格調高い文体ではありますが、対話篇にはこういう文体は馴染まないのではないでしょうか。
エウチュプロンでもクリトンでも、ソクラテスが終始こんな口調で相手に質問していくから、なんか嫌な奴だなぁという感じがします。
しかし読み手は、言い方に捉われず、言われている内容だけを吟味するべきなのでしょう。「ソクラテスの弁明」冒頭の一・18で、ソクラテスは聴衆に向けてこう言っています。
「だからそのように今も諸君にこれを当然なこととしてお願いするように私には思われるのである。これと言うのはことばの使い方――というのはこれは、あるいは上手であるかもしれないが、あるいはまた下手かもしれないので――そのほうは大目に見て、私が正しいことを言っているか、いないか、ちょうどこの点をよく見、またそれに心を向けることなのである。なぜならそれが裁判官のほうの徳であり、本当のことを言うのが弁論家のほうの徳であるのだから。」
読み手の徳も裁判官の徳と同じでしょう。そうは言ってもなかなかできないことですが。
日常生活でも、ことばの使い方でなくその内容に心を向けるっていう姿勢でありたいです。いま現在、自分はそれが出来ていないということに気づかされました。
- 感想投稿日 : 2014年12月27日
- 読了日 : 2014年12月27日
- 本棚登録日 : 2014年12月27日
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