『ヒトラーの旋律』[GHETTO] (2006) ドイツ・リトアニア合作
“1941年6月22日、ナチス・ドイツ軍はリトアニアに侵攻し、首都ビリニュスを占領。半年のうちに5万5千人以上のユダヤ人が、“パネリアイの森”で処刑。生き残った1万5千人は、ドイツ人が作りユダヤ人が管理する強制居住区ゲットーに連行された。
寂れた劇場を訪れた、ビリニュスの生と死の支配者ドイツ軍将校のキッテル若干22歳。“キッテルの任務は、皆殺し”そんな噂が巷に広がり、ユダヤ人警察長官ゲンツは火消しにおおわらわだった。
座興に歌わせたハイヤの歌声に魅せられたキッテルは、腹話術師のスルーリクを支配人に命じて、劇場の公演を行わせることになった。
リトアニア軍のもと将校だったゲンツが、ゲットー内の技術を持った者を兵器製造に使えると上申すると、固定給での労働が許可されたことから、芸術家・俳優・音楽家には劇場があれば、労働許可が下りると考えていた。
一方ドイツに対して自分達が戦争に不可欠となれば生き残れると確信していたヴァイスコフは、具体案をキッテルに上申し許可を得た。
“墓場に、劇場は不要だ”の意見もある中ついに劇場公演初日を迎え、残った同胞に連帯感を与えたいと願うゲンツの思いがかない、ゲットーの全組織の代表が集い好評のうちに公演は終了。
狂気と退廃、堕落と不道徳、理不尽と暴力が支配する中、ゲンツは同胞の命を救えるのか? はたまた、救うために殺した彼の運命は?”
観終わったあと、これは悪趣味なパロディ? 風刺? 寓話? いずれにしても、豆狸としては後味の悪さしか残らなかった。もとはイスラエルの劇作家ジョシュア・ソボルの舞台劇の映画化だそうで、舞台劇の時点で考証や考察が甘かったのか、非常にリアリティの乏しい作品に仕上がっています。
ゲットーに関して体験者が身近にいたり、共通認識のある地域での芝居としての公演というのはわかりますが、それを不特定多数が観る映画にするにしては、あまりにも説明不足ではないのかな。
戯曲を映画にするのは、舞台進行のままフィルムを回すのではなく、戯曲を脚本に昇華し、それをもとにプロットを立て細部を検証し映画として見るに耐えるものにするべきだと思います。
どう見ても監督自身がこの作品を自ら昇華しきれず、撮影しながら何とか形にしようとしたもののどうにもならず、結局未昇華のまま恥ずかしげもなく人目に曝した風にしか見えません。
監督はこれを映画化することによって、人間の残酷さを伝えたかったのか? 殺され続けていても、命の芽は受け継がれていくこと? 過酷な状況においても、人間は逞しく生きていくこと? それとも、只こんなことがありましたって言う報告? 何を伝えたかったのかが、ぜんぜん見えてきません。
これは商業ベースの作品、観客はお金と時間それに体力を使うわけですから、作り手側としては、最低それに見合う物を提供する義務があるのではないでしょうか?
それにしても、いつもながらの未公開映画のDVD化に伴うパッケージタイトルのセンスのなさですが、特に今回のはひどすぎ・意味不明・超適当の極み。中味に沿ったタイトルを販売業者に求めるというのは、どだい無理っていうことなんでしょうか?
- 感想投稿日 : 2011年11月2日
- 読了日 : 2011年11月2日
- 本棚登録日 : 2011年11月2日
みんなの感想をみる