“ぼく”というある人間の心の中にある神話を語る、追憶の物語。彼の語る言葉は彼自身のものであって、決して読み手のものにはならない。繰り広げられるイメージも漂う匂いも手触りも、彼がありったけの言葉を以て伝えようとしているもの全て、似通っている所はあるとしても決して読み手の中の神話とは重なり得ない。けれど人が自分の記憶の奥底に沈む“何か”を追い求めようとするその衝動自体は、きっと誰しもが見覚えのある感情であるはずだ。大抵の人はその衝動を形として認識することはないし、その”何か”にたどり着く前に忘れ去ってしまう。しかし”ぼく”は手を緩めることなくその何かを追い求めついには手にするに至る。その全過程が、ここには執拗なまでに詳細に言語化されて刻まれている。
人の心を過去の記憶へと突き動かす感情の形を初めて知ったと思えた。この世のものは、名前を見つけて初めて人の眼前に立ち現れる。
個人の心の中の神話、それは決して過ぎ去った幸福の絵図などではない。それはただなぜか、その陰影のひとつひとつ、手触り、温度のようなもの全てをそのままどこかに刻印しておかなければと苦しい程に思い詰めずにはいられない、そういう言いようもない“何か”だ。人がその姿を捉えようともがく時、名前を付けることは出来ずとも、せめてその輪郭を何かに焼き付けようとして生まれる物語がこの世には多くある。そういうものを書く人、求める人の無意識の意識の流れを、この物語を通して初めて知ることができたと思えた。

2013年4月5日

読書状況 読み終わった [2013年4月5日]
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