岩波 哲学・思想事典

制作 : 廣松渉 
  • 岩波書店 (1998年3月18日発売)
3.74
  • (7)
  • (3)
  • (7)
  • (1)
  • (1)
本棚登録 : 208
感想 : 15

【版元】
価格:本体14,000円+税
刊行日:1998/03/18
ISBN:9784000800891
菊判 上製 函入 1946ページ
在庫あり

東西古今の哲学・思想および関連分野の事項・人名・書名を収めた基本事典.思想潮流や意味内容の変化・展開の全体像を俯瞰する大・中項目を中心に項目を厳選.概念史的記述を重視し,諸文化を横断する鍵概念は東西共通項目として分担執筆.主要著作は名著解題的な解説を行う.4100余項目を800人の専門研究者が執筆.
https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b256606.html


 【抜き書き】
宮川康子(1998)「日本文化論」

日本の近代国民国家の形成過程に常にともなわれてきた自国文化の独自性についての自己言及的な言説である。「日本文化」という名のもとに言及される対象は生活習慣から伝統行事、言語、文学、芸術などから映画、ファッションなどの大衆文化にいたるまで多様であり、それらすべてを包括し統一づける定義をあたえることはできない。「日本」も「文化」も「日本文化」も歴史的に形成された概念であり、その後の背後に不変の統一的なと実体などは存在しない。むしろ自国の独自性をめぐってする言及が、その言説上に「日本文化」を創出するというべきである。ここでは「日本文化」がどのようなのとして語られてきたか、という観点から日本文化論を概観する。
【近代国民国家の成立】 18世紀後期西洋文化が紹介されるにつれて、国学思想や歴史意識のたかまりなど、自国のアイデンティティを求める動きが顕著になるが、「日本文化」についての言及が多数あらわれるようになったのは、やはり「日本」というあらたな近代国民国家の形成過程にあった明治時代である。三宅雪嶺『真善美日本人』〔1891〕や芳賀矢一の『国民性十論』〔1907〕など「日本人」の国民性を論じるものや、国土を論じる志賀重昂の『日本風景論』〔1894〕など、「日本」および「日本人」という均質で統一的な共通概念が作り出されていく。そしてその統一性を支えるものとして、国学的復古の思想が呼びもどされるのである。一方、フェノロサなど西洋人によって発見された日本に呼応するかのうように、岡倉天心の『茶の本』〔1929〕、九鬼周造『「いき」の構造』〔1930〕など、日本独自の文化、歴史、伝統的道徳意識、美意識などが再発見、再構成されていくことになる。新渡戸稲造の『武士道――日本の魂』や内村鑑三の『代表的日本人』〔1908〕は、その代表であるが、これらがはじめ英語で書かれたということは重要であろう。日本文化論は日本人の自己意識の形成であると同時に、西洋近代諸国にたいして、日本文化の特殊性と独自性を主張する言説でもあったのである。
【文化的ナショナリズム】 日清・日露戦争をへて変化する国際関係のなかで、日本文化論も欧化主義と国粋主義の間を揺れながら展開するが、それは急速な近代化を背景にして、いかに日本の独自性と文化的ナショナリズムを主張するかということにかかわっている。たとえば和辻哲郎は「日本精神」〔1934〕において、「日本精神を日本民族としての主体的全体性」ととらえ、「日本的特殊」を徹底させるところに日本の世界史的役割を見いだしていくが、このように日本文化を有機体的全体としてとらえ、歴史的な連続性のなかでその本質を説く論法は、近代主義的日本文化論の基調をなしていく。とくに歴史を貫通する不変的要素としての「日本文化の多重性」や、「風土論」の主張は、柳田国男の民俗学研究の視点や、後の丸山真男の「歴史の古層」論にまでつながっていくものであろう。日本の歴史的、空間的特殊性に立脚して、いかに西洋近代資本主義や、マルクス主義の「非歴史的抽象化」を排するかが、近代主義的日本文化論の枠組みなのである。
【範型としての『菊と刀』】 「戦後の日本文化論の展開は、日本の敗戦という日米関係の新たな局面と、ルース・ベネディクトの『菊と刀』〔1946〕によってその枠組みを規定されたといってよい。19世紀の進化論的文化観や文化的ナショナリズムの高揚にかわって、ベネディクトは文化相対主義にもとづく「文化の型」という概念を日本文化論に導入した。日本文化を「恥の文化」、西洋文化を「罪の文化」と規定するベネディクトの論に対しては、出版直後から現在にいたるまでさまざまな批判がなされてきたが、いまだにある範型としての価値を失ってはいない。川島武宜の『日本社会の家族的構成』〔1955〕、作田啓一の『恥の文化再考』〔1964〕をはじめ、文化人類学的に「タテ社会」の構造を主張する中根千枝の『タテ社会の人間関係』〔1967〕、心理学的『「甘え」の構造』〔1971〕を指摘する土居健郎、「イエ社会」のモデルをみいだす公文俊平らの『文明としてのイエ社会』〔1979〕にいたるまで、多くは日本的特性をどのような「型」(あるいはアーキタイプ)によって論じるかという問題設定のうちにある。『菊と刀』が、文化相対主義を背景としながら、自国文化との差異に焦点をあてて、異文化を描き出そうとしたことと、西洋にはない特殊な「型」として自国を描き出そうとする日本文化論の構造とは、表裏をなしている。青木保が『日本文化論の検証』〔1990〕で描き出したように、両者は日米の政治的・経済的関係の変化のなかでたがいに相補的にその論調を変化させてきた。そのなかで自国文化に批判的なアメリカの日本研究と、国粋的な日本文化論とが奇妙な一致をみせるというねじれ現象も起こっている。
【現在の日本文化論】 このような日本文化論は、日本経済の世界市場進出がめざましかった1970年代から80年代にかけて、日本の内外で膨大な量の出版をみた。しかし現在、歴史学、社会学、人類学などのさまざまな分野で、国民国家の枠組みの自明性が疑問視され、国民的特質や民族的本質を前提としないあらたな文化理論の模索がはじまっている。近代化論の批判の中からは、「伝統の創出」という用語がうまれ、国民的同一性を支えてきた「伝統」や「文化」という概念が、歴史の中から呼び出され、再構築された近代の産物であったことが暴露されている。「特殊」で「不変」の日本の文化的価値、あるいは統一的で連続的な日本文化という概念にかわって、「日本文化」という枠組みの中で抑圧されてきたさまざまな多様性、アイヌや琉球文化をはじめ、地方的階級的偏差、性的人種的差別などに関心が寄せられるようになった。また国民国家の枠を越える地域的な文化研究も盛んである。カルチュラル・スタディーズや多文化主義、文化帝国主義批判などなどの用語は、いまだ揺れ動いている概念であるとはいえ、もはや一国文化論が成立しえないことを示すものである。
〔文献〕
青木保1990『日本文化論の検証』
西川長夫1996『国境の越え方――比較文化論序説』
酒井直樹1996『死産される日本語・日本人――「日本」の歴史-地政的配置』

読書状況:未設定 公開設定:公開
カテゴリ: 1XX.哲学総合
感想投稿日 : 2017年10月10日
本棚登録日 : 2017年10月10日

みんなの感想をみる

ツイートする