戦争の世紀を超えて その場所で語られるべき戦争の記憶がある (集英社文庫)

著者 :
  • 集英社 (2010年2月19日発売)
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感想 : 25

著者:姜尚中,森達也
本文デザイン・地図作成・カバーデザイン:今井秀之
編集協力:オフィス イング(村山加津枝)、木村礼子

【目次】
プロローグ(森達也) [003-007]
目次 [008-012]

第一章 戦争の世紀のトラウマ――場所に残された記憶を辿って 015
(まえがき)
善良な村人が殺戮者になるとき 026
虐殺のメカニズム 033
誰の心にも巣くう異物感情 042
背中合わせの人権と非人権 049
抹殺への飛躍 058
絶滅のファクトリー 068
国家と非合目的性 078
加害の正義 083
ヒトラーの磁場の中で 094
中枢の空洞化、末端の肥大化 097
愚かさを知る勇気 106
暴走の記憶をとどめる場所 115
オウムに潜む究極の善意 124
モンスターの再生産 131
注 138

第二章 勝者、敗者、被害者の記憶――裁きの場で 159
一億総玉砕の裏側 166
儀式としての東京裁判 175
被害者への転換 180
普遍なる天皇制 183
なぜ戦争を終わらせられなかったか 192
忘却と記憶の反転 203
注 215

第三章 限定戦争という悪夢――冷戦の最前線で 231
朝鮮半島分断へ 240
いびつな階級と同族憎悪 245
見えない恐怖の裏返し 254
過剰殺戮と富裕化の時代 258
外なるオウム、内なる北朝鮮 267
アメリカのトラウマ 278
統一か奴隷の平和か 287
注 295

第四章 そろそろ違う夢で目覚めたい 309
純真無垢な残虐性 319
リアリティなき殺人の連鎖 324
差別と駆除と原爆と 327
「異常」なる隣人の排除 334
第三者の使命 342
戦争パラサイト 349
果てしないセキュリティ幻想 355
記憶する罪 361
注 367

第五章 ヒロシマ、その新たな役割――「核なき世界」の発信地に 371
広島を東アジアの「入場チケット」に 372
二十一世紀、この十年の戦争 375
戦争とメディア 378
「二分法」で考えるとは 384
戦争と絶対他者 387
広島・原爆・核 394
もう一つの広島の歴史 400
核をなくすために 404
広島で六者協議を 407
拉致問題と国家 414
注 421

エピローグ(二〇一〇年一月六日 姜尚中) [425-430]




【抜き書き】
□□第一章 戦争の世紀のトラウマ 
□pp. 45
森  じゃあ、ユダヤが一つの民族かというと、実はユダヤも多民族です。ユダヤ人という人種など存在しないのだから。でも、民族が違うとか宗教が違うとか文化が違うというレッテルを張ることが、歯車の澗滑油になることは事実でしょう。日本だってそうですよね。実はハイブリッドな民族なのに、単一民族幻想が肥大して、ついには戦争に至ります。
 少数派を排除したいという原始的欲求が人類にはあるのでしょうか。危機管理意識が高揚したときに、文字通りのスケープゴート(いけにえ)にするために。〔……〕

【※単一民族観が日本でより流行ったのはむしろ戦後になってからのはずです。】


□pp. 73ー75
姜  ドイツでは1980年代に歴史家論争があったわけです。その中で、なぜホロコーストだけが特異な、しかも絶対的に他のどんな悲惨な事件とも比較できない一回限りのある出来事として語られるのだろうかという疑問が投げかけられました。〔……〕スターリンの粛清、そして、その時代の餓死者の数も膨大だった。文革のときもまだはっきりした数字はわからないけど、死者の数だけみれば、ナチスのホロコーストの犠牲者を上回っているはずです。
  だったら、なぜドイツだけが永遠に十字架を背負わなければいけないのか。これが修正主義者たちの疑問ですね。ホロコーストとスターリンの時代、文革の時代、あるいはポル・ポトの大粛清を比較すると、共約可能な部分があるというわけです。良心的な哲学者たちは、それを否定しますが、他とは比べられない絶対的な部分、それは何かというと、今、言ってくれたとおり、スターリンでも毛沢東でも、人間を改悛させようとしたことです。だから、よく左翼用語で自己批判しろという。〔……〕結果論は別にして、少なくとも建前としては人は変わりうるという、それを前提に置いていたと思う。そこは社会主義ですよね。
 ところが、ヒトラーのホロコーストは人種・民族のDNAにかかわる問題。変わりっこない。根本に生物学的な発想がある。だから、もうそれはアプリオリ(先天的)に決まっていて、その人種・民族に応じた遇し方があって、それは社会的にメリットがあるかないかというランクづけになる。で、ユダヤ人の最後の役割として、労働がある。これも果たせないやつは、抹殺する。そういう形で、ある人種・民族を固定的にとらえて、転向不可能、可塑性をはじめから否定したわけです。
森  スターリンにしても毛沢東にしても、思想統制の試みが一定の過程を経ながら虐殺に繋がってしまったわけだけど、ナチスにはその気配がない。いきなり殺戮にジャンプしている。その要因の一つは、やはり優生思想でしょうか? 
姜  そういう考え方、つまり社会ダーウィン主義的な人種差別主義が、ある時代においては、かなり社会に浸透していったと思う。でなかったら、植民地支配なんかできないし、ネイティブアメリカンの問題や、あれほどの奴隷制度もなかったと思う。

□pp. 86ー87
森  政治学者のラウル・ヒルバーグは、そもそも完成されたユダヤ人絶滅計画など存在しないのしていなかったと主張しています。〔……〕
 “この企てに加担したのはだれなのか。〔……〕全過程を方向づけ調整した機関は存在しなかった。絶滅のエンジンは、まとまりのない、分岐した、とりわけ分散的な機構であった。” 『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』上 (柏書房)
 さらにヒルバーグは、この時期のドイツ国内におけるユダヤ人評議会はドイツ官僚機構とある意味での共生関係にあったとの前提に立ち、ドイツ国内のユダヤ人は結果的にホロコーストの共犯者となっていたと主張して、大きな論争を巻き起こしています。ユダヤ・ロビーから彼が弾圧を受けなかった理由は、彼自信がオーストリア生まれのユダヤ人であるからです。
 アウシュビッツ生還者でイスラエルのパレスチナ占領政策に反対を表明した作家のプリモ・レーヴィとかも含めて、ユダヤ人でありながら一方的な被害者の視点だけに回収されない彼らの主張はとても重要です。だからふと考えます。ホロコーストの解釈が迷宮に入りこみやすいひとつの理由として、95年のマルコポーロ廃刊事件が示すように、ユダヤ・ロビーの圧力が自由な思考にバイアスを加えている可能性は、否定できないと思います。その思考が正しいか間違っているかという位相ではなく、封殺はするべきではない。

□ p. 88
森  狂気とか闇とか、鬼畜とか悪魔のようなとか、あるいは洗脳されたとかマインドコントロールとか、そういう語彙を使いながら、自分たちとは違うスタンダードの中に彼ら加害の側がいたように考えようとする。でもそれでは、話は終わってしまう。
姜  終わりますよね。
森  終わるから確かに楽ですよ。楽だけど繰り返されます。〔……〕彼らが悪行に加担したその理由を、〔……〕もっと必死に考えないと。


森  〔……〕モンスターなど存在しない。まずはそこから考えたい。特に戦争や虐殺などを考えるとき、加虐のメカニズムを考察することは重要です。これをタブーにしてはならない。反ナチ法やアウシュビッツ修正史観に対する反発なども含めて、特にユダヤ人を長く差別し迫害してきた欧米諸国において、加害者であるナチスの人間らしさ口にすることすらがタブーであるとの意識が、戦後は強く惹起されました。その帰結として、ホロコーストの被害者遺族であるユダヤ人たちによる強引なイスラエル国家建設を容認し、パレスチナ人迫害を黙殺し、これが中東戦争のきっかけになり、湾岸戦争や九・一一につながり、今のアフガンなイラク戦争にまで拡大する。つまり連鎖です。その意味では、ホロコーストは終わっていない。
姜  確かに。だから、僕は議論の行き着く先は、人間の差別じゃなくて、最終的に狂気とかという形でしか触れない出来事と、我々がどう向き合うかということじゃないかと思う。


□p. 94
森  今のアウシュビッツにはドイツ人も大勢訪れるけれど、世代的には二回りほど替わっています。そんな彼らがあの展示を見ても、ただもう申しわけありませんでしたと謝罪するしかない……。
姜  でも、それだけで終われば、ほとんど意味はない。
森  意味ないです。それではいつ反復、継続されるかわからない。これは日本についてもまったく同じことが言えるのだけど、かつて加虐の主体であったなら、その加虐のメカニズムの内側に踏み込まないと。
姜  だからこそ、ヒトラー崇拝者というのは跡を絶たないし、ネオナチも依然として健在です。だから、もっと加害者の内側の問題にスポットをあてて問いを立てないといけない。


□ p. 109
姜  〔……〕そうした解釈の図式の背景には、反ユダヤ主義があったと思う。
 アーリア人対セム人の構図は、世界を塗りつぶそうとしているユダヤ人が敵であって、それがアメリカを支配しているし、さらにスラブの地であるソビエトを支配していると。だから、マニ教的な二元論を感じるんです。
 九・一一以降、「アクシス・オブ・イーブル」(悪の枢軸)という言葉が全世界に浸透してきました。その分け方は、人種的民族的ではなく、民主主義や市場経済を知っているか、アメリカの自由を知っているかどうかという形で分けているんですが、それでも同じような二元論的な世界の分割の仕方が繰り返されていますね。
 ただ、アメリカの場合には、撲滅というのではなく、そういう国も民主化できるとしている。〔……〕
 僕は「アクシス・オブ・イーブル」が出てきて、唖然としたんです。何だ、こんなことによって、最も進んだ民主主義社会のメディアが動くのかと。これはナチスの時代のプロパガンダとどこが違うのかと。


□□第二章 勝者、敗者、被害者の記憶 
□pp. 170
姜  ある社会学者が言っているけれども、神なき時代の可視の神が国家であると。僕は、ナショナリズムというのは共同体の不死化だと思うんです。だから、小林よしのりの漫画を見ても、自分たち日本人という共同体の中の関係はピュアであってほしいと願っている。やはり共同体というのは、信仰がなくても、最後に残された最も神に近い自分の帰依すべきものだから、自分の国とか共同体を人から批判されると、ひどく怒ったり、自尊心が傷つけられたりするんでしょうね。それはかなり自分たちのアイデンティティの根幹にかかわるものを持っているからです。〔……〕

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ:  210.日本史
感想投稿日 : 2017年7月20日
読了日 : 2017年7月20日
本棚登録日 : 2017年7月20日

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