『失われた時を求めて』という大長編小説の最後の巻。
マルセル・プルーストが、「完」Fin と記し、この長い長い物語を書き終えたのは、1922年、すなわち、亡くなる年の春だと思われる。
前にも書いたが、一篇から四篇までは、生前刊行。二篇目の「花咲く乙女たちのかげに」で、ゴンクール賞受賞。
五篇から七篇までは、プルーストの遺した原稿をまとめて、死後出版された。
そのため、登場人物の生死の食い違いや、人物の印象の相違など、推敲の不十分さが見られる。
『失われた時を求めて』という本の一巻を手にとって読み始めてみた方も多いであろう。
でも、有名なプチット・マドレーヌが出現する前に、あまり起伏のないその平坦な長々しい回想の文章に飽きてしまう。
かつての私もそうであり、何度読んでも頭を空回りするような描写にプルーストを読むという動作を容易に放棄してきた。
読むという覚悟を決め、読むことをやめないという日々を繰り返したが、どうも、主人公のマルセルのことが好きになれず、途中からは理解もできなくなってしまった。(プルーストが、主人公のマルセルに反映する同性愛的要素や女々しさ、執拗性など)
しかし、すべてを読み終えた今、この最後の七篇、「見出された時」のために、この長編小説を読んできたのだと思う。死に隣接する時間のなかで、失われゆく時を文学作品として閉じ込めた。その必然性の意図もすべてこの最後の巻で明らかになる。私は、一巻目を読み始めたときのようにマルセル・プルーストにもう一度きちんと向き合い、この物語を一緒に回顧しながら、第一次世界大戦前のパリのよき時代に思いを馳せる。
「見出された時」は、ジルベルトの別宅であるタンソンヴィルに主人公が滞在している場面からはじまる。
バルベックに滞在している時に知合い友人となったサン=ルーと語り手マルセルの初恋の相手であるスワンとオデットの一人娘であるジルベルトの結婚は、語り手を驚かせたが、結婚後のジルベルトは、幸福ではなかった。
サン=ルーは、彼の叔父であるシャルリュス氏を翻弄させたモレルと同性愛の関係にあり、その倒錯の隱蔽するためにあちこちに愛人を作っていた。
のちに、モレルは、脱走兵になるのだが、当のサン=ルーもその後戦死してしまう。
サナトリウムで病気療養していた語り手は1916年パリに戻る。
戦時下のパリは、ルーブルをはじめすべての美術館は閉鎖されており、戦争は思いのほか長く続く。あんなにフランスを揺り動かしたドレフェス事件も忘れ去られようとしている。
コタールも死に、ヴェルデュラン氏も亡くなった。シャルリュス氏も老いたが、モレルに対する思いは断ち切りがたいのか、狂恋のような思慕を抱き続けている。
そして、語り手は、ショッキングな場景を目にしてしまう。
元チョッキ職人のジュピアンのホテルで、シャルリュス氏は、モレルに似た若者に自分を鞭打たせていたのだ。
プルースト本人もこのような場所に出入りしていたらしく、このあたりの細部にいたるリアリズムは、震撼を覚えるほどで、シャルリュスに自己投影しているプルーストの倒錯趣味がうかがえる。
時は流れ、戦後、療養から再びパリに戻った語り手は、ゲルマント大公邸の午後のパーティーに出かける。
この章が、『失われた時を求めて』の総括の章になっていて、今まで小説に登場した人物たちが、時の流れを経て現われる。
ゲルマント大公夫人は亡くなっており、なんと、ヴェルデュラン夫人と再婚し、彼女は、大公夫人になっている。
シャルリュス氏は脳卒中後回復はしたもののますます老いさらばえ、ジュピアンに世話をして貰っている。
アジャンクールは、この上もなく誇り高かった顔は見る影もなく、あちこちがぶよぶよゆれる溶液状のぼろのようになっている。
オデットの美しさは変らなかったが、3年後には、仮面の下に老いを隠すことは不可能になり、耄碌したただの老人になってしまう。しかし、以前から彼女は、ゲルマント公爵の愛人になっており、語り手に今も変らずやさしく接してくれるゲルマント公爵夫人を悲しませていた。
学校の頃からの友人であったユダヤ人のブロックは、ジャック・デュ・ロジェという筆名で物書きとして成功しており、健康そうだ。
ジルベルトは太って語り手は挨拶されてもわからなかったほどだが、話を始めると信頼は結ばれていることがわかる。
パーティでは、朗読のため、女優が呼ばれていたが、その女優とは、昔、サン=ルーの愛人であったラシェルで、今は、ラ・ベルマをも凌ぐ大女優になっている。
そして、ジルベルトから娘を紹介される。
ジルベルトの傍らの16歳くらいの少女は、ゲルマントという大貴族出身のサン=ルーを父に持ち、ジルベルトというユダヤの血の入ったブルジョアを母に持つ、語り手が遠い昔、多くの夢想を紡ぎ出した二つの対する方向の融合の造形化であり、少女の伸びた背丈は、時の隔たりを示しているのだった。
時の流れによって世界の事物の形象は変化する。絶対だと思われていた決定的なそうしたことも完全な変化を遂げ、時代は移り変わってゆく。
老齢という現実は、われわれがそれの純粋に抽象的概念をもっとも長く生活において持ち続ける現実であり、芸術作品こそ「失われた時」を見出す唯一の方法だと気づく。
そして、そうしたすべての材料は、人生の生きてきた時にあるのだと。
長い長いこの小説を読み進めるにあたって、私は、重要だと思われる部分にラインを引きながら読むことを決めた。
10巻すべて、赤いラインと上部に書き込んだ注釈で本は埋められている。
学生の時に、教科書に同じようなことをしたが、その作業も実は、『失時』を読むのと同じくらい疲労する行為だった。
三篇までは、別の本も間にはさみつつ読んでいたが、四篇からは、集中してぶっつづけで読み耽った。
死が近づいたプルーストの、死の観念は恋の観念のように決定的に自分のなかに居すわってしまったという文章は、ゲルマント大公のパーティーに認めた老いの悲しみや、時代の変遷、時間の流れを的確に描ききる。
私たちは、生れ落ちたその時代を生きており、時を失いながら終焉に向かっている。
---私はこう言おう、芸術の残酷な法則は、人間は死ぬということ、われわれ自身もあらゆる苦しみをなめつくして死ぬであろうということである、そのために忘却の草でなくて永遠の生命の草、みのりゆたかな作品のしげった草は生え、その草の上に幾世代もの人たちがやってきて、その下に眠る人々のことなど気にもかけずに、楽しく自分たちの「草上の昼食」をするだろう。---『失われた時を求めて』ちくま文庫10巻618p
- 感想投稿日 : 2012年8月25日
- 読了日 : -
- 本棚登録日 : 2011年10月1日
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